陣代長屋──ここに住んでいる者は若い人間が多かった。 それには理由があって、この長屋には身よりのない人間が集まって暮らしているのだ。みな、幼い頃に親を亡くした孤児たちだった。 藩からの援助もあり、この長屋が切り盛りされている。長屋を運営するために陣代会なるものが組織されており、その責任者として全権を任されているのが、会長の林水敦信であった。 彼は本来、格式高い武家の出なのだが、彼は望んでこの仕事を引き受けたらしい。そのため、親からは勘当同然になったと噂されていた。 林水は自ら両替商などとつきあいをもっており、藩からの金をうまく運用して十倍以上にまで増やした。その資金を元手に、職人や商人として皆が職につけるようになった。 また、ここ陣代会では瓦版も作成しており、『陣代だより』はなかなか評判もよく、会での貴重な資金源の一つであった。 かなめの仕事は、『陣代だより』に載せる記事の調査だった。 「かなめくん」 「なんですか?」 「いま、君が行っている辻斬りの調査は非常に危険がともなうと思われる」 「まあ、そうでしょうね」 「そこで、以前からふさわしい人材がいないか検討していたのだが、このたび、ちょうどいい人間がこの長屋に越してきた」 林水の口にした『越してきた』の言葉で、かなめには話の展開が見えてしまった。 「お断りします」 「……肝心な部分について、まだ説明していないはずだが?」 「わかりますよ。あのお騒がせ男に護衛を頼むんでしょ?」 「ふむ。ならば問題はないはずだ」 「人選に問題がありすぎです!」 「いや。彼以上の適任者はいないだろう」 林水は静かに、だが、かたくなに主張する。 「宗介くん。入ってくれたまえ」 「はっ」 壁の影から問題の人物が姿を現した。 かなめが不審げにじろじろと眺め回す。 「だって、あたしが風呂に入っているのを、こいつは覗いたんですよ」 「何かの勘違いだろう」 「いいえ。こいつです!」 「君には、彼が色魔に見えるのかね? 私にはそうは思えないが……」 「現にあたしが覗かれたって主張してるじゃないですか!」 「よしんば、覗いていたとしてもだ……、何か事情があるのだろう。違うかね?」 「いえ。会長のおっしゃるとおりです」 「と、いうわけだ」 「『わけだ』じゃないでしょ! それじゃ、何の説明にもなってないじゃないですか! なんで、下手人の言葉を鵜呑みにするんですか!」 「確かに、言葉では説明はできないのだが……。私は、彼を信用している。君が私を信用してくれるというのなら、同じように彼を信用してもらえれば、ありがたい」 林水の言葉に、かなめが詰まった。 林水がこの長屋の住人にとって大切な人間であり、恩人なのは確かなのだ。 ……どうしてここまで、彼を信用できるのだろう? 「あの……、ふたりは前から知り合いなんですか?」 「いや、引っ越しの日に初めて会ったのだが、どうかしたのかね?」 林水の言葉に、宗介が頷いている。 かなめの表情を見て、納得していないのがわかったのだろう。 林水がさらに答えた。 「まあ、人の信頼度というのは、なんらかの結果だけで決まるわけではないのだよ。君もまだまだ修行が足りないようだ。調査は彼と共に行ってくれ。以上だ」
聞き込み調査のために、ふたりが通りを歩いている。 かなめが傍らの宗介に尋ねた。 「あんた、どうやって会長に取り入ったわけ?」 「人聞きが悪いな。会長閣下に失礼だろう? そのような事実はない」 宗介の言葉を聞いても、かなめの目は疑惑に満ちていた。 「……会長閣下の名誉のために言っておくが、金を握らせようとしたのは確かだが、それは断られたのだ」 「な、何考えてるのよ! あんたは!」 「仕方がない。大切なことだ」 「大切って、何が?」 「……なんにせよ、会長閣下はひとかどの人物だと言うことだ。あのような方に仕えられるのは、身に余る光栄というものだ」 「わかんないわ。あんたたちって……」 このふたりは、お互いを高く評価しているようだ。かなめとしては、とても信じられない思いなのだが……。 「まあ、気にするな。結果として、不穏当な金の受け渡しもなかったのだし、なんの問題もないだろう?」 「あたしが迷惑してるんだけど?」 「だからさっきから言っているだろう?」 「なんて?」 宗介はじっとかなめの目を見つめて、こう答えた。 「気にするな」 「気になるわよ!」 すぱーん! どこからともなく取り出したハリセンで、宗介をはたき倒した。
かなめと宗介が別れて、聞き込みに精を出していた時。 軽薄そうな男がかなめに声をかけてきた。 「なあ、なあ、俺と一緒にお茶でもしようぜ」 そんな風に誘ってくる。 もしも、宗介がいたら、「実用的価値のまったくない、たわけた服飾品を好んで着て、愚にもつかない会話を好み、女と無為に時間を過ごすことに無情の喜びを感じる男」とでも称するのだろう。 「ごめんね。あたし、あんたみたいなのに興味ないんだ」 かなめの返答は爽快だった。 「おい、ちょっと待てよ。俺が誰だか知ってんのか?」 「知らない」 立ち去ろうとしたかなめの肩に、男が片手をかけてとどめようとする。 「俺は白井屋のあととり息子なんだぜ」 自慢げに名乗ったが、かなめにはなんの興味も沸かなかった。 まあ、顔も悪くないし、着物の柄も洒落ている。単に見た目だけなら、彼を選ぶこともあり得るだろう。 しかし、かなめはそういう点を、重視する娘ではなかった。 所詮は親の金をあてにしているぼんぼんに過ぎないのだ。 陣代長屋の住人は、皆、親がいない。自分の腕一つで生きている人間ばかりで、尊敬に値する人間が多くいる。かなめ自身にも親はいないのだ。 誰かに生かしてもらっている眼前の人物は、かなめにとって、男とすら言えず、ただの子供にしか思えなかった。 「悪いんだけど、あたしは忙しいの。遊び相手なら他を当たってくれる?」 かなめにはとりつく島もない。 「ふざけんなよ。俺が誘ってやってるんだぜ」 遊び人なりの誇りでもあるのか、引き下がろうとしない。 「あんたのために、言っておくけど、あたしに係わらない方が身のためだと思うわよ」 「あん……?」 たんっ! 音がした。 若者が足下に風を感じて見下ろすと、草履の鼻緒を貫いて釘が立っている。 「……?」 不思議そうに見つめていた彼の襟首が、誰かに引き上げられた。 「貴様、誰に狼藉を働いている?」 宗介は新しく取り出した釘を拳に挟み、遊び人の首筋にひやりと当てた。 「その娘は、陣代会の要職にある人物だ。貴様が何を企んでいるのか、全て吐いてもらうぞ」 宗介が真剣そのものの表情で男をにらみつける。男はその眼光にすくんでしまい身動きもとれずにいた。 「いい加減にしなさいってば」 「なぜだ? 聞かれるとまずい秘密でも、この男に握られたのか?」 「違うっ!」 かなめにとっては不本意だろうが、すでに宗介との騒動は習慣となってしまっていた。 「やめてぇ!」 そこへ横から娘が飛び込んできた。 『?』 驚いて、宗介とかなめの動きが止まる。 少女は男を締め上げている宗介の腕にしがみついた。 「なによ。あんたたち! 若旦那になんてことすんのよ!」 その言葉からすると、白井屋に勤めている人間なのだろう。 かなめはその少女に見覚えがあった。それもそのはずで、同じ長屋の住人なのだ。たしか、名前は──。 「瑞樹さん?」 「そうよ。さっさと、こいつを止めなさいよ!」 妙に高飛車にかなめに命じる。 「宗介。放しなさいってば」 「しかし……」 「いいのっ!」 宗介の後頭部をぺしっと叩いた。 「なによ。長屋でもその男とべったりしてるくせに、他の男にも手を出すなんて。イヤらしいわ。フケツよ。大事にしてる金時計だって、どっかの旦那さんに貢がせたんでしょ」 がんっ! かなめが握った拳で瑞樹の頭をしたたかに叩いた。 あまりの痛みに、瑞樹は目に涙を浮かべて、言葉も止まってしまった。 かなめの方でも、自分の行動に驚いて、殴った拳を見つめていた。 かなめは父親の顔を知らずに育った。異国の金時計は、その父親からもらったのだと母からは聞かされていた。彼女自身は父親に何の感慨もわかず、質草にするつもりで残してあるだけなのだが……。 「……あたしは、そんな男に興味ないから、連れて帰ってくれる? まあ、宗介のこと知ったから、二度と言い寄ったりしないと思うけど」 そう言い捨ててかなめが振り返る。 「その通りだ。彼女には俺がついている。貴様になど、渡しはしないぞ」 「誤解を招くこと、言うんじゃないわよ」 すぱーん! 例によって、ハリセンが宗介の頭に炸裂する。 ふたりが歩き去ると、呆然としている若旦那と女中が取り残されていた。
連日、聞き込みをしていて、その日は休みになった。 なにしろ、かなめの方で宗介の行動に嫌気がさして、別行動を望んだからだ。 二人の少女がそば屋にいた。 つややかな黒髪を長く伸ばした少女と、南蛮渡来の眼鏡をかけたおさげ髪の少女だった。 「……会長の指示で、ずっと一緒なんだから。どこに行っても騒ぎばっかり起こして、ホントにもう……」 かなめが深いため息をついた。 「ふーん。大変だね、カナちゃんも」 「わかってくれる? じゃあ、ここはキョーコのおごりで、よろしく」 「えーっ!」 恭子がむくれた。 しかし、かなめに言葉の撤回を求めないところをみると、そのつもりはあるらしい。 「でも、長屋のみんなも言ってたけど、すごいね〜」 「本当に疲れるわよ。あいつと関わると」 そんな会話をしていたからだろうか、その場に当人がやってきた。 むっつりした若者がのれんをかきわける。 「…………」 かなめは慣れたもので、いまさら宗介を見かけても驚きもしない。 「偶・然・ね」 かなめが妙な語調で声をかけた。 「そうだな」 宗介は、かなめの嫌味に気づいているのか、気づいていないのか平然としたものだ。 宗介はそのまま、かなめたちと同じ卓を囲む。 かなめが半眼で宗介をじとっと睨むが、彼は気にしない。 「おまちどう」 そば屋が2つの丼をもってくる。 かけそばが、かなめと恭子の前に置かれた。 「兄さんはなんにする?」 新しい客に注文を尋ねる。 「いや。俺はいらない」 呆れたことに、宗介はさっさと追い返してしまった。 「ちょっと、なんか頼んだら?」 かなめがたまらず訴える。 「大丈夫だ。俺は持参しているからな」 そう言って風呂敷を開くと、笹の葉にくるんだ握り飯を取り出した。 頼まないどころか、食べ物持参で店に入るとは、問題がありすぎる。 「やめなさいってば。恥ずかしいじゃないの」 「気にするな。俺は平気だ」 「こっちが気になるのよ」 ぼそぼそと言い合う。 恭子の見たところ、かなめが彼を心底嫌がっているようには思えなかった。なんか、じゃれ合っている子犬同士とか、そんな印象が強かった。 「うまそうだな」 宗介が、かなめのそばに目をとめる。 「そりゃあね」 「俺にもくれないか」 宗介は言うが早いか、器を手にすると、そばを口に運んでしまう。 「ちょっ……」 かなめが呆れる。 かなめの目の前で、宗介がそのそばをじっくりと味わう。 「うまい物だな。君の手料理と同じぐらいだ」 「あ、そう」 ふてくされたかなめが、ぷいっと顔をそむける。 「お詫びにこれを食べてくれ」 宗介が自分の握り飯をかなめに押しやった。 宗介の作った握り飯が、代わりになるとは思えないが……、とりあえず口にしてみる。 材料に問題はないが、調理法に問題があった。 「なによ、これは? がちがちに握り過ぎじゃないの」 「まずかったか?」 「まずい!」 かなめが一言で評価を下す。 「握り飯ぐらいなら、作ってあげるから。今度から、あたしのとこにご飯持ってきてよ」 その言葉に宗介はきょとんと相手の顔を見つめる。 「それは……ありがたい」 心底驚いたようで、宗介は次の言葉がなかなか出てこなかった。 「……そ、それではこれで、失礼する」 宗介は自分の握り飯を包み直すと、店から出て行った。 「結局、何しに来たのよ? あいつは」 「カナちゃんのそばを食べたかったんじゃない?」 その恭子の指摘は正しかったのだが、 「そんなわけないでしょ」 かなめは取り合わなかった。 たったいま、宗介が口をつけたかけそばに、かなめが目を向ける。 それに手を出すのは恥ずかしかったが、恭子におごってもらったものを残すわけにはいかない。 意を決して食べ始める。 何となく頬が熱かった。 かなめが視線を感じて見返すと、恭子が驚いたような表情で見つめ返していた。 「なに?」 「カナちゃんって、本当に宗介くんのこと嫌いなの?」 「どうして?」 「だって、他の男の子といるよりも、凄く自然だし、楽しそうだよ」 「そんなわけないじゃない。迷惑してるんだから」 「そうかなー?」 「そうよ」 そう言って、かなめは箸をすすめる。 自分が一口かじったあの握り飯は、これから宗介が食べるのだろうか? そんなことを考えて、また、かなめの顔が赤くなった。
夜になった。 月が照っているので、夜道でも不自由はしない。 クルツとマオの家で情報の聞き込みをした帰りで、かなめが一人でとぼとぼと歩いている。 瓦版に載せるつもりで辻斬りの聞き込みをしていたというのに、彼女自身に警戒心は薄かったのかもしれない。日頃の宗介の行動で、荒事に慣れた気がしていたのだろうか? 彼女が橋を渡っていたとき、後を追うようにして浪人風の男が橋を渡り始めた。 男の脚が早く、すぐにかなめとの距離が縮まる。 男が静かに刀の鯉口を切ったのに、かなめは気づかなかった。 「かなめ! 逃げろ!」 どこからともなく、声が聞こえた。 男もその声に驚いて動きが止まる。 そこで、始めてかなめも背後に近づいた男に気づいた。 今の声は宗介? またしても、自分をつけ回していたのだろうか? 今回ばかりは有り難かった。 声を聞いて、思い出した。初めて会ったときに、宗介から渡された懐剣を、懐に入れてあったのだ。 男が刀を抜き放ち、かなめもまた懐剣を引き抜いた。 しかし……。 単純に武器の長さだけで勝負が決まるわけではないが、素人の小娘が小刀一本でどうにかできるのもではない。 「お嬢ちゃん。辻斬りを調べてるんだって?」 そこにいたのは、六尺六寸(約二メートル)ほどの大男で、細い目が自分を見つめていた。 かなめの背中に、ぞくりと冷たいものが走った。 かなめはいきなり小刀を振りかぶって、男に投げつける。 男の体勢が崩れる。 かなめは男に背を向けて走り出していた。 「小娘がっ!」 男も追う。 かなめの脚力なら逃げ切ることも可能なはずだが、今は着ている服が悪かった。裾が長く脚にまとわりつくのだ。 一方、男も抜いた刀を手にしているため、脚が鈍っている。 結果として、わずかに男の脚の方が早かった。 かなめも直感的にそれがわかった。 しかし、逃げようにも、橋の上では真っ直ぐしか行けず、身を隠す場所もない。 宗介も走っていたが、彼は男のさらに後ろにいるのだ。 かなめが捕まるのも時間の問題だろう。 「川へ飛び込め!」 焦った宗介の声が届いた。 服を着たまま、この流れに飛び込むなど、身投げ同然だ。 かなめが躊躇した。彼女にしかわからない理由で。 それでも、彼女は跳んだ。 普通の娘なら、その決心もつかず、男に追いつかれていたに違いない。その瞬間がくるまで、なにもできず……。 しかし、これこそがかなめと言えた。 彼女は、橋の欄干に脚をかけて、ほれぼれとする思い切りの良さで、夜空に身を投げた。 しばらくして、水音が鳴った。 男は躊躇したが、結局、飛び込むのをやめた。 恐れたわけではなく、川で娘を捕まえるのが困難だと判断したのと、邪魔者が近くにいたからだった。 ふりむいた男が、宗介と対峙する。 男は、宗介の若さを見て、甘く考えていたのだろう。 一瞬で勝敗は決した。 宗介の投じた三本の釘が、男の首筋に突き立った。 男は血を吐きながらその場に倒れた。絶命するのは時間の問題だ。 苦しげに呻いている男を一顧だにせず、宗介もまた欄干を乗り越えた。 窮余の一策として、川へ飛び込ませたものの、着衣のまま泳ぐのは、慣れていない人間には危険な行為なのだ。 かなめは自分を信じてくれた。自分はその信頼に応えねばならない。 かなめを追って、宗介が川に飛び込んでいた。
──つづく。
あとがき。 白銀藩もシリアス調になりました。 まあ、始末記もそろそろ終了なので、こんな展開をしつつ……。 注釈の必要はないと思いますが、町人は名字がないので、名前で呼び合っています。 |
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