せつないふたりに50のお題 ver.2



32. deep emotion -Crossroad 3- back

これまでに、この男に対して感じているような魂を揺り動かされるような深い感情を味わったことは一度もなかった。他者から、そして自分自身の過去からさえも薄い膜によって隔てられているような、生きているようないないような曖昧さの中で日々を過ごしていた。
この男が一体何だというのだ?

椅子に腰掛けたまま黙りこくって自分を見上げている黒髪の男に、スーツの男――ジュリアスは再度声をかけた。
「どうかしたか」
何度か瞬きをして立ち上がると、相手は言った。
「お前は誰だ」
年長者に対してもその態度か、相変わらずだと思いながらジュリアスは微笑を深めた。
「そなたのような若い男からお前呼ばわりされるとはな」
「言葉遣いが気に入らぬのなら私のことなど放っておけ」
本当は放っておいてほしくなどない。他の人間はどうでもよかったが、この男に相手にされないのは嫌だと思った。それなのになぜか放っておけなどという言葉が口をついて出た。スーツの男は憎まれ口に等しい言葉に腹を立てた様子もなく話を続けた。
「このアクセサリーを売っているのであろう? 他の客にもそのような態度では商売に差し支えよう」
「客に私がどんな態度を取ろうが、お前には関係あるまい」
見放されなかったことにほっとしているというのに、なおも突っ張る自分が解せない。
「まったく……。私も客だとは思わぬのか」
「お前が…? このようなものを買うはずはなかろう」
この男にふさわしいのは、彼が並べている手作りの銀細工などではなく、ガードマン付きの宝飾店で扱っている品だろう。
「そう思うか? なかなか面白いものを置いている。そなたが作っているのか」
「で? 買うのか」
男は微笑を消さぬまま頷いた。
「そなたごと、全て」
「どういう意味だ」
若い男の目がすっと細められた。

その趣味の男か、そうは見えないがと思い、小さな落胆を覚えた。この男のことが頭から離れず落ち着かなかったここ数日が急に色あせた。
素人を金で買うような男のことをずっと忘れられずにいたのか、私は。
気に入った相手と合意の上で寝たことがないわけではないが、男娼の真似をする気はない。

「誤解するな。妙な意味で言ったわけではない。いわば冗談だ」
「…あまり質のよい冗談とも思えぬ。私などを相手になぜそのような冗談を言うのか、わからぬな」
「怒らせるつもりはなかった。つまらぬことを言ってすまぬ」
そなたが相手だと思うと、軽口の一つも出る。だが私のことを覚えておらぬ相手に言うべきことではなかった。
気をつけねばならぬな。
「それで、お前は商品を買うのか買わないのか」
「買いたいと思っている。実のところ先程の話は、まったくの冗談というわけでもない。誤解をさせるような言い方をしたことは謝る。ここからは至ってまじめな話だ。私の仕事を手伝ってくれる気はないか」
唐突な申し出に、得体の知れぬ男だと思いながら黒髪の男は答えた。
「何を言い出すかと思えば、冗談にも程がある。通りすがりの相手に言うべきことではない。仮に本気だとしても、私には企業で働いた経験がない。お前がどんな仕事をしているのかは知らぬが、きちんとした会社なのだろう? お前を見ればわかる。そのようなところでいきなり働けと言われても無理だ。そもそも本気であると言うのならば、自分が何者であるのかを明らかにしてから進めるべき話だろう」
「そなたの言う通りだ。路上で立ち話というのもどうかと思うから、ここを片付けて私と共に来てくれ。詳細を詰めたい」
「…私がお前の仕事を手伝うのは決定済みか? 人の話を聞け。無理だと言ったろう。第一私は仕事中だ」
「だから、仕事の話をしようと言っているのだ。話を聞きにくるだけでも日当くらいは出す」
「断る。あいにく経済的に困っているわけではない」
心にもない断りを言った。
放っておいてほしくはない。だが素直に男の言うことを聞くのも癪だった。
なぜだかこの男に対してはひどく心惹かれるものがある反面、反発する気持ちが相半ばして、気がつけばそう口にしていた。だが相手は微笑しただけだった。
「そなたが金で動かせる人間だとは思っておらぬ。だが他人に時間を割かせるのだ。その分の手当てを出すというのは当然のことだろう。とにかく来い」
「強引な男だ…」
ではもうよい、縁がなかったなどと言って切り捨てられらなったことに安堵しながらも、ため息をつきながら口先だけはそんなことを言う。そんな彼に、スーツの男は重ねて言った。
「仕事の話は早く進めたいのだ」
「…なぜかは知らぬが…お前から仕事仕事と言われるのがわけもなく癇にさわる」
不快そうに吐き捨てられた言葉に声を立てて短く笑うと、
「その理由がいずれわかる日も来るかもしれぬな。……そう言えばまだ名乗ってもいなかったか。私はジュリアスだ」
と続けた。その名前を耳にした途端に激しい頭痛とめまいがクラヴィスを襲った。
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37. 涙もでない -Crossroad 9- back

お前は行ってしまうのか
ずっと昔から恐れてきた時がついにくるのか

お前がいなくなることを恐れて一人で泣いた少年であった私は
長い時のうちに痛みに慣れすぎたのか
やわらかな心は死んでしまったのか

おかしなものだ
あれほど恐れていたことが現実となったというのに
今はもう
涙も出ない
ただ静かな諦めがこの胸を浸すだけ
新たな人生への旅立ちを見送ってやれることに安堵するだけ
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39. 右手 -Crossroad 5- back

精密検査の結果、クラヴィスの頭痛は質の悪い病気によるものではないということはわかった。痛みが激しくとも心配のない偏頭痛といったようなものだと説明されて、定期的な通院を条件にクラヴィスは自宅に戻っていた。心配がないならなぜ通院しなければならないのかと尋ねたクラヴィスに、現時点で病変は認められなくとも意識を失うほどの頭痛はやはり尋常ではない、経過観察するべきだと言われて納得した。倒れた日以降、入院期間中も含めて、頭痛は起こっていない。

退院してしばらくしてから、ジュリアスからの連絡があった。あの倒れた日にする予定だった仕事の話を詰めようということで、今日はオフィスビルの建ち並ぶ街に来ている。最初ジュリアスは、退院したばかりの相手の体調を気遣って自分が出向くと言ってきた。だが気遣ってもらうほど調子が悪いわけではない。むしろ、入院生活でなまった体を動かす方がいい気がした。忙しいジュリアスに時間を割かせるよりは暇な自分が出向く方が良いだろうし、何よりプライベートスペースである自宅で仕事の話をすることに何となく抵抗があったので、クラヴィスのほうから行くということになったのだ。けれども結局、体を動かすという目的は果たせなかった。社用車での迎えが来て大きな本社ビルに連れてこられたからだ。そうして今、役員室でジュリアスと向き合っていた。

「元気そうだな。体には異常はないということで、私もほっとした。いきなり倒れられて泡を食ったのだぞ」
「…お前が?」
目の前の落ち着き払った男の顔を疑わしそうに見る。
「ああ。あわてて病院に運んだ」
「入院については本当に世話になった。手間をとらせて悪かったな」
「そなたに礼を言われたり悪かったなどと言われると、どうも勝手が違って妙な気分だ」
クラヴィスは苦笑した。
「私のことをどう思っているかは知らぬが…これでも人並みの感情はある。ありがたいと思えば礼も言うし、すまなかったと思えばそう言う」
「そなたは誰に対してもその口調だからな。そんな男の口から言われる言葉とも思えず、戸惑った」
「普段ほとんど人との行き来がないので、改める必要も感じなかった。気に障ったなら謝る」
「いや別に。むしろ今更下手に出られる方が気持ちが悪いからそのままで良い。それで、早速だが仕事の話に移ろう」
「まだ諦めておらぬのか? 私は会社組織に入るつもりはないとあの時にも言ったはずだ」
「それは承知している。そなたが企業に勤めてうまく行くとも思っておらぬ。社員になれということではないのだ。今まで通り自由にしてくれてかまわない」
クラヴィスは訝しそうな顔をした。
「それでどう仕事をしろと言うのだ」
「そなたのデザインを買いたい」
「…デザイン?」
「そなたの作っているアクセサリー、あれはオリジナルだろう? そのデザインを使わせてほしい」
「素人が気まぐれに作ったものと知って言っているのか」
「そなたが入院している間に、いくつかサンプルを借りて社に持って行った」
「ああ、そう言えば…そんなことを言っていたな」
「担当の者に見せたら、面白いのでぜひ使ってみたいとの返事だった」
「…本気、か…?」
「できれば当社専属のジュエリーデザイナーとして正式に契約を結びたいと思っている。専属が気に入らぬというのならば、個別のデザインを提供するという形での契約でもよい」
ジュリアスは既製服メーカーを経営していた。フォーマルウェアやパーティドレスを扱うことから始めて、今は高級既製服のブランドとしても注目されている。その会社が新しくカジュアルなブランドを立ち上げて、靴やバッグ、アクセサリーも含めての商品展開を始めているが、そのためのデザイナーを探しているのだという。
「私はデザインの勉強などしたことはない。まったくの素人だ。それをわかっていての話か」
確認するようにクラヴィスは言った。
「承知の上での提案だ。我が社は複数のデザイナーと契約を結んでいる。そのうちの一人に過ぎぬと気楽に考えてくれてよい。契約したからといってそなたがわずらわしい思いをすることはほとんどないはずだ。その代わり、正社員ではないから一定額の給与を保証するわけではない。
そなたは作りたいものを自由に作って、売る。それは今までと変わらない。売る相手が会社になるというだけの話だ。大々的に売り出す商品となるかどうかは社内の会議を経て決まる」

結局、クラヴィスはジュリアスの依頼を受けてデザイナーとしての契約をすることにした。「その話、受けようと思う」と答えるとジュリアスは微笑し、「では、これからよろしく」と右手を差し出してきた。
入院しているときから何度もこの男の笑顔は見た。きれいだとそのたびに見とれた。だがこのときの表情はなぜか胸に迫り、戸惑いながらその手を握り返した。

いつもと何が違う? どこが違う?

年齢など超越したような美貌の男。
胸を震わせるような微笑。
いつに変わらぬ美しい顔。

初めてしっかりと触れた手のあたたかさにどきりとして、青い瞳を見つめた。
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■BLUE ROSE■