せつないふたりに50のお題 ver.2



21. いつもそう -2007闇様生誕企画1-

大したことではなかったのだが、少々意見の行き違いがあってジュリアスが私を殴った。これを言ったら意外に思われるは必定だが、実のところ剣を持たずともあれは相当に強い。手元に武器がなくては自身も守れぬようでは情けない、と日頃から鍛錬している賜物であろう。目的は護身だが、素手でもある程度は戦えるように鍛えている。あまり人には言わぬが、実は私自身も武道の心得はある。だがあのときのパンチの切れ味ときたら。電光石火とはあのことか。よけきれず、ジュリアスの拳が右頬の下方、あごに近いあたりに当たった。しまったと思ったときには遅かった。薄れていく意識で、ああ倒れる、と思い。最後に見たジュリアスの瞳は狼狽しきっていた。気にするな、大事ない、と言ってやりたかったが何も言えぬまま意識が飛んだ。

気がついたときには寝かされていて、ジュリアスが心配そうに私の顔をのぞきこんでいた。
「すまぬ。……とっさに手が出た」
パンチを受けた部分に氷嚢を当てながら、ジュリアスは言った。
「このようなことのために鍛錬をしているのではないのだが……そなたを殴るようではまだまだ未熟だな。本当にすまなかった」
「いや…」
心底すまなそうな顔で謝ってくるジュリアスに、自然と笑みがこぼれた。私がお前をからかいすぎただけのこと。…だからこれは…言ってみれば自業自得だ。だがそれは口にせず黙っていた。神妙にしているジュリアスも、なかなか風情があって良いものだ。
「腫れは大分引いたが、内出血の跡がしばらく残るだろうな…」
「…ああ」
「痛むか?」
「多少は」
「あざが消えるまで、執務は休んでもよい」
面白いことを言い出した。
「…ほう? 闇の守護聖の職務怠慢を後押ししてくれるのか? 首座のお前が」
ジュリアスは頬を紅潮させたが、「仕方なかろう」と小さな声で言う。
「なぜ? 顔にあざができたからといって、執務には支障ない」
「だが……」
「何だ?」
ジュリアスの言いたいことなどわかりきっている。なぜこのあざがついたのか、絶対に人に問われるだろうから、他の者と顔を合わせることがなくてすむように休めと言っているのだ。首座殿に殴られたのだ、などと言ったらどんな騒ぎになることか。
ジュリアスが困るのはかわいそうだが、少し楽しくもあった。 ここはひとつ、わかった、休むと言っておいて、執務に出てみるのも面白いかもしれぬ…。



+ + +



二日続けて闇の守護聖が執務を休んだ。易きに流れるのが人の常、降って湧いた半ば公休のような休みの最中に、わざわざ執務に励むこともあるまいと結局ジュリアスに言われた通りに館に閉じこもっていたのだ。
クラヴィスが休み始めて三日目、突然に炎の守護聖が闇の館を訪れた。
「クラヴィス様はどなたともお会いになりません」
すげなく執事に断られたが、
「どうでもお会いして様子を確かめてこいとの首座からの言葉がある。とにかく会わせてもらおう」
「ジュリアス様の? はて、そのようなはずはございませんが」
ある程度の事情を知っている執事は、首を傾げた。
「何でもいい。通るぞ」
「あ、お待ちください」
執事の制止なんか完全無視。行く先はクラヴィスの私室だ。どうせいつものサボリ病だろうとしか思っていないオスカー、遠慮のカケラもなくずんずんと進んで、私室に到達した。
「クラヴィス様、失礼します」
ノックして、返事も待たずにドアを開けると、薄暗い部屋の中、長椅子に寝そべって雑誌を手にしている闇の守護聖と目が合った。
「何だ、いきなり…」
「やっぱりお元気なんですね……って、その顔、どうなさったんです!?」
フッ、と笑ってクラヴィスは、
「首座殿とやりあってな…この始末だ」
と答えた。
「なんですってええええええ!? ジュリアス様が殴ったとでも言うおつもりですか!? いくらジュリアス様と仲が悪いからって、そりゃあないでしょう。そんな見え透いた嘘を信じるわけがないじゃないですか。俺をからかおうったってそうはいきません!」
「お前がどう思うも勝手だが…私は単に事実を言っている」
「そんなバカな! じゃあジュリアス様の前でも同じことを言えるわけですね!? あの方があなたを殴ったってのが事実だったら、ご本人を前にしてもちゃんと言えますよね」
「私は別にかまわぬが…あれがきまり悪かろう。だから休んでいるのだが…」
「いいえ! どうでもあの方の前で白黒つけさせていただきます。宮殿へ行きましょう! 俺とご同行願います」
「やれやれ…まるっきり私が悪党扱いだ…」
お前がジュリアスに叱責されることにならねば良いがな、と薄笑いを浮かべつつ、クラヴィスは立ち上がった。


さて、三日ぶりに闇の守護聖が姿を見せたと聞きつけて、早速に飛び出してきたのはリュミエールだった。闇の館に立ち寄っても、ご心配には及びません、数日中には出仕なさいますからの一点張りで会わせてももらえなかったリュミエールの心労は極限に達していた。
「クラヴィス様っ!! そのお顔の内出血の跡は一体……? おいたわしい。なぜこのようなことに」
青ざめて卒倒せんばかりだ。
「案ずるな。大したことはない。もう痛みも引いている」
「なぜそんなアザを作ることになっちゃったんでしょうねー。あなたは暴力沙汰とは縁のない人だと思っていましたが」
ざわつく外が気になったか、ルヴァも出てきている。
「何よーその顔!! 美人が台なしじゃないの。私に言ってくれたら、目立たなくするメイクしてあげるってのに!」
オリヴィエが騒ぎ、いつの間にやら出てきた年少組もぞろぞろと後をついてきた。
こうしてジュリアスを除く守護聖全員そろって回廊を歩いて、光の執務室に到着した。
「何だこの騒ぎは?」
眉をひそめたジュリアスが訪ねてきた一同を見渡して、クラヴィスを見て事態を悟りため息をついた。
「だから出てくるなと言ったのだ」
「仕方なかろう。誰やらの腹心の男があまりに煩いので、とにかく顔を出したまで」
ジュリアスは、オスカーに咎めるような目を向けた。
「このような場合、いつもでしたらジュリアス様から様子を見に行くようにと指示がありますが、今回はなぜか何もおっしゃらないので。申し訳ありません、俺が勝手に動きました。休んだわけをお尋ねしたところ、ジュリアス様に殴られた跡が消えるまでだとおっしゃいまして」
オスカーは憤懣やる方ない様子で興奮してまくし立て、他の守護聖は驚きに目を見張り、ジュリアスは額を押さえた。オスカーの気働きにはいつも助けられているが、今回のこればかりは勇み足と呼ぶほうがふさわしい。
「そう騒ぐな。首座殿とな…少々意見の行き違いがあってこうなっただけのことだ、と…言ったろう」
「だから、いくら日頃仲が悪いからってジュリアス様に殴られたなんて嘘ついて、何のつもりですか!!」
闇の守護聖を糾弾する声は厳しい。って言うか、とても生き生きして嬉しそうだ。ねえジュリアス様、とばかりにオスカーが光の守護聖を見ると、妙な顔をして黙っていた。
え? その反応って。
「……まさか」
「悪いが、そのまさかだ。ジュリアスが何も言い返さないのが何よりの証拠であろう。…フッ…あれは…なかなかいいパンチだった…」
「クラヴィス!」
誰もが目をむいた。クラヴィスといいジュリアスといい暴力行為とはまるっきり縁がないような顔をしているくせに、あざが残るほどの殴り合い? でも仮にも筆頭守護聖であるクラヴィスの顔にパンチを食らわせてお咎めなしで済ませることができそうなのは、ジュリアスくらいしか考えられないのも確かなことだった。
「皆、ジュリアスと私が幼なじみだということを忘れてはいないか。子どもの頃に取っ組み合いのけんかをしたこともある仲だ。このくらいのことはさして珍しくもない」
「でもですね〜、大人になってもまだやっているなんて。あなたたち、今でもそこまで仲が悪かったんですか。ちょっとは歩み寄ったらどうですかー?」
「そうだな、もう少し穏便に済ませるよう気をつけるとしよう。だがこの傷がついたのがどこであったのかを知れば、お前も要らぬ心配から解放されると思うのだがな…」
「それって、どういうことですかー? 気になりますねぇ」
「私の口から言う気はない。知りたくば首座殿に尋ねるがよかろう」
「そんな〜。そこまで言っておいて教えてくれないなんて、あなたもたいがい意地が悪いですねー」
「クラヴィス、いい加減にせぬか」
「…まあ、このときも殴り合ってはいなかったのだが、な。私が一方的に殴られて昏倒した。皆も気をつけたほうがよい。首座殿を怒らせると怖い」
これ見よがしに青あざをさすりながら言うクラヴィスをキッとにらむと、ジュリアスは「当分そなたとは口を利きたくない。顔も見たくない。さっさと館に帰れ」と言った。静かな声なのがかえって不気味だ。ピンでちょんとつついただけで破裂するんじゃないかというムードが漂っている。ところがそんなことなんか全然気にしない男は平然として言い返した。
「私は来たくて来たわけではない。誰やらに引きずられて来ただけだ。言われずとも帰る。ではな…」
ぴき、とジュリアスの額に浮かぶ青筋を見て、周囲は「クラヴィス様、あまりジュリアス様を刺激なさらない方が」とか、「これは俺のせいか? 俺のせいだよなやっぱり。後でお小言かもしれんな」とか、「このまま殴り合いになるんじゃないですかね〜」とか、「筆頭守護聖の殴り合いのケンカなんて滅多に見られないから面白いかもね☆」とか思いながら、息を呑んで成り行きを見守っている。緊張が最高に高まった中、帰りかけていたクラヴィスはゆっくりと振り返った。
「…言い忘れるところであった。そこの赤い髪の暑苦しい男は、暴走せぬようもう少し手綱を締めておくべきだと思うが…? お前の監督不行き届きだ」
ジュリアスは何か言い返したいと痛切に思ったが、言えば言うほど墓穴を掘りそうな気がしたので口を開かないまま見送った。拳を握り締めて。

いくらオスカーにしつこく言われたからといって、気が向かぬのにわざわざ宮殿に出向くようなそなたではなかろう。その気になればオスカーをいなすことなどたやすいはずだ。どうせ皆の前でその顔をさらしたときの私の反応が見たくて出てきたに違いない。
私との仲は秘密にしておくと言いながら、クラヴィスがこうして楽しむのはいつものこと。いっそ皆に全てを打ち明けてしまった方が面倒がないかとすら思う。……が、結局は私にそのようなことはできぬと知っていてこういうことをする。皆の前で意味深なことを言って私がうろたえるのを面白がっている。大人を装っているが、クラヴィスは大きななりをした子どもでしかない。そして私はそんな男のことがどうしようもなく愛しい。このような形であっても数日ぶりに顔が見られて嬉しいと思うなど、我ながら呆れ果てる。

その後、光の守護聖と闇の守護聖はいい年をして殴り合いのけんかをするほどに仲が悪いと宮殿中で噂されることになった。
ちなみに騒動の元となった意見の食い違いというのは、真夜中、コトの後。ベッドのヘッドボードに背を預けて二人で余韻を楽しみながら、クラヴィスが「お前の弱いところは耳の後ろだろう」と囁いたのに対して「それは違う。どちらかと言えば……」と言いかけて、ジュリアスが口ごもった。それを楽しそうに眺めつつ、ついでに「弱いところ」に唇をはわせつつ、「どちらかと言えば、どうなのだ」と追い討ちをかけて「んっ…その……わき腹の方が」と赤くなって言う様を楽しみながらもう一撃。「いや、絶対に耳の後ろの方が反応がいい」「反応とは何だ」「声が、な」「恥ずかしいことを言うな!!」といった類のピロートークを続け、クラヴィスがいろいろと相手の嫌がることを言って、恥ずかしさのあまりジュリアスが思わず振り回した手が当たった、っていうあたりが真相だったりする、まさに痴話喧嘩なのであった。


23. missing -Crossroad 7- back

クラヴィスを帰して後。ジュリアスは疲れたように役員室の椅子に身を預け、見るともなく天井を見上げてクラヴィスとの会話を反芻しながら、まだ迷っていた。

今日のところは正式に契約を交わしたわけではない。だがそうすることで合意は成った。
しかし本当にこれで良かったのだろうか。
ここまで話を進めた後になってこれほど思い惑うとは。

そんな自分が不甲斐なく思える。
奇跡のような確率で巡り会うことができたのだ。今度こそ離れたくない。そのために使える手は何でも使う。なりふり構ってはいられない。そう決心したはずだ。だから仕事の契約を持ち出した。
昔も今も、クラヴィスと言葉を交わすきっかけは仕事しかないのか。
そう思うとおかしいやら情けないやらで、苦い笑みがこみ上げた。
握手を交わしたときに一瞬遠くを見るような目をしたクラヴィス。何か思い出したのか、あるいはまた倒れる前兆かと思った。
あの時、私の手は震えていなかったろうか――。

契約そのものに関しては、社内でジュリアスが強力に推したというわけではなかった。サンプルを持ち込んで担当者に話を通しはした。しかし知り合いだから使えと強引に迫ったわけではない。ジュリアス自身は使えると思ってのことだが、本人も言っている通り素人が気まぐれに作っているに過ぎないものだ。他の人間がどう見るか、それは未知数だった。遊びで会社を経営しているわけではない以上、自分の都合で無能な者を仕事に関わらせるのは問題がある。けれども「街でこんなものを見つけた」と作品を見せた担当部署もまた、ジュリアスのように「面白い」と無名の男の作ったものを評価した。
若者向けのカジュアルなブランドに合わせて売り出せば、人気が出るのではないか。
有望だと思うというのが会社としての見解だった。自分ひとりがそう思ったわけではない。だから契約を持ちかけた。

これがクラヴィスの生活がかかっている仕事なら迂闊なことは言えなかった。そんな相手だとしたら、どのくらいの収入になるのか保証できない状態で契約をというのはいささか無責任だ。今は赤の他人に過ぎない男の生活をジュリアスが丸抱えするというわけにはいかない。しかしもともと道楽でアクセサリーを作っているクラヴィスは、金銭的なことにはあまり興味も執着もない様子だった。せいぜい原価プラス手間賃くらいの価格設定だろうと思う。
そんな商売をしているクラヴィスは、この仕事がうまく軌道に乗らなくても生活に困ることはない。彼にとっては道楽の範疇だ。それもジュリアスを後押しする材料となった。
ただ逆に、それで生計を立てよう、デザイナーとして成功しようなどという野心を持つ相手ではないことから、そんな話にすぐに食いつくとも思えない。それどころか仕事だの契約だのという言葉を持ち出した場合、それを嫌う可能性が高い。クラヴィスが承諾する確率は良くて五分五分と踏んでいた。それがとんとん拍子に話が進んで、むしろ戸惑いを感じたほどだ。
思惑通りに進んでほっとしたような、恐ろしいような気持ちで握手を交わした。

この契約の話をクラヴィスに断られれば、結局のところあれとは縁がなかったと去るに任せたか?
否。
このまままた切れてしまうのは何としても避けたい。
どういう形であれ、クラヴィスという人間とつながっていたい。
これがうまく行かぬなら、私は別の手段を講じることだろう。

そのくらいに自分の気持ちは決まっている。それでもまだ迷う自分に苦笑を禁じえない。

私は……今の自分に自信がないのだ。だからこのように迷いが生じる。
年齢も立場も違う今、再び失うことになるのかもしれない。
そうなれば今度こそ本当に終わりだ、そう思うのは絶望にも似た恐怖だ。

しかし長い間見失っていたものを、またこの手にできるかもしれない。
たとえ形を変えてであっても。
それは希望だ。

再び巡り会えた、それこそが運命。
そう信じよう。
まだ希望はある。
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24. どうにもならない -Crossroad 8- back

ジュリアスがクラヴィスとの再会を果たしたときから遡ること十数年。二人は女王陛下のお膝元、聖地で暮らしていた。

「仕方あるまい…」
深いため息と共にクラヴィスは言った。
サクリアの衰えが明らかになって、近々退任することになると告げたジュリアスにクラヴィスが言ったのは、それだけだった。
対のサクリアの衰えにクラヴィスが気づかないはずがない。ジュリアスが口にする前にすでに悟っていた。泣いてもわめいても何も変わらないことはわかっている。そう答えるしかなかった。


どちらかが退任する時のことをあれほど気にしていたクラヴィスの意外なほどそっけない言い様に、ジュリアスはかえって深い危惧を抱いた。
それを告げた日以後もクラヴィスは変わった様子は見せない。いつも通りに怠慢気味に仕事をこなし、夜はときどきジュリアスと食事をし、週末の晩は朝までを同じベッドで過ごす。あまりにも普段と変わらない。そのことに、より一層の危機感を募らせた。

退任が決まる以前は、時にお前と離れたくないと狂おしいまでに抱きしめて眠った。その激情が一切影を潜めて、ただ静かに二人で過ごせる時間を愛しむかのように過ごすようになった。残り時間を惜しむように。


退任前日、ジュリアスは女王に謁見を申し出た。
「私の退任後、もしもクラヴィスが取り乱すようなことがありましたら、陛下の御力で私に関する記憶を消していただきたく……」
「どういうこと?」
首をかしげた女王に、ジュリアスは頭を垂れたまま奏上した。
「あれと私とはこの二十年あまりずっと共にありました。不仲であった時期もございましたが、互いの昔を知るたった一人の人間です。私がいなくなって精神の均衡を崩すかもしれぬことを危惧しております。守護聖としての責務も果たせぬような事態になる前に、その原因となるものを取り除いてやっていただきたいのです」
「それってクラヴィスも納得してるの?」
「私の一存にございます。無理なお願いであることもわかっております。……お聞き届けいただくわけには参りませんか」
それって本当はやっちゃいけないことだと思うんだけど、と女王はつぶやいた。
「記憶を消しちゃったら、あなたが退任した後に会う機会があっても、あなたのことがわからなくなるのよ」
「それでけっこうです。クラヴィスを守るためであれば、覚悟の上」
「わかりました。クラヴィスの状態には気をつけておきます。あなたが心配しているようなことがなければいいんだけど。……危険な状態だと判断したら、記憶の一部を消しましょう。でもジュリアス、本当にそれでいいの?」
「私はクラヴィスに不幸になってほしくない、それだけです」
「それであなたは不幸じゃないの? あなたにとってもクラヴィスはかけがえのない大切な人でしょう? 大切な人に覚えていてもらえなくて、悲しくないの?」
「私には、私自身の記憶があります。それさえあれば十分かと存じます。いずれにせよ退任した後に今生でクラヴィスと再び見えることができるとは思っておりません。それならばあれの心の負担が軽くなることを願うばかりです」
「クラヴィスは、あなたのこと忘れたいなんて思わないと思うんだけど。自分のことを自分の知らないところで勝手に決められて、喜びはしないんじゃないの?」
「それらも考慮した上で、あえてこうしてお願い申し上げております」
「あなたの希望はわかったわ。私だってクラヴィスに不幸になってほしくない。でもあなたにも不幸になってほしくない。女王候補の頃から私を助けてくれたみんなに幸せでいてほしいの。こんなことを私に頼んで、本当にいいのかしら」
ぜひともお聞き届け願いたい、とジュリアスは頭を下げた。


クラヴィスは、「別れは誰のせいでもない。そしてこれは個人の努力でどうこうできるものでもない」と呟いて小さく笑った。
忘れられることの痛みよりなお辛いのは、そなたが精神を病んでしまうのではないかと恐れながら一人で生きることだ。
そなたの激情が怖い。
外に出さぬ分、内に向かってそなたを壊してしまうのではないかということが怖い。
いっそ私のことなど忘れてしまってくれ。
どうにもならぬことならば、せめてこの先穏やかに生きてほしい。
私の願いはそれだけだ。
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25. 何が悲しいのかすら -Crossroad 10- back

ジュリアスが去ってしばらくの間、心が麻痺したかのようにクラヴィスは何も感じることはなかった。夜になれば寝て、朝には目覚めて食事をし、執務に赴く。ジュリアスから引き継いだ仕事は多く、執務室にいればとりあえず退屈しているような暇はない。
新しい光の守護聖は聖地に不慣れで、何かと言うとクラヴィスを頼った。新たに光の守護聖となった少年もジュリアスから一通りの引継ぎは受けていたが、首座が抱えていた仕事すべてを十代の少年がいきなりできるわけがない。無理な話であることは誰にでもわかる。ジュリアスから後任の少年をくれぐれも頼むと言われていたし、たとえその言葉がなくとも、クラヴィスが首座の代行を務める以上新しく首座となった少年の補佐をするのは当然と言えた。
少し緊張気味ながら、クラヴィスに恐れ気なく近づく新しい光の守護聖は、密かに周囲の驚異の的となっていた。そんな周囲の反応を知ってか知らずかクラヴィスは普段どおりのそっけない態度で慕い寄る少年に接していたが、その実少年の訪れは気を紛らわせてくれていた。
多忙にして長い執務時間が終われば、館に戻って休む。この繰り返しで一週間は平穏に過ぎた。
そして一週間の終わり、金の曜日の夜。クラヴィスの私室にある、ジュリアスが好んで座っていた椅子を目にして、突然に心に何かがあふれた。それまでなりを潜めていた感情の激流が堰を切った。

ジュリアスに会いたい。
だが、もういない。
二度と会えない。
会いたい――!

気がつけば、執事と側仕えに抱きとめられていた。
二人は必死の面持ちで何か言っている。が、何を言われているのかわからない。

「クラヴィス様! どうなさいました!?」
「何をおっしゃっているんですか!」
口々に言う二人の声が意味をなしたのは、しばらくしてからだった。
「わ…たしは……何か…言ったか…?」
「叫んでおいででした」
「大きなお声でしたので驚いてこちらに参りました」
「何をおっしゃっているのか、私共にはわかりませんでしたが」
「何事かございましたか?」
「……いや。何も…ない」
何もないと言った己の言葉があまりにも真実だったので、思わず笑った。
もう私には何もない。
ジュリアスは私の許から去ったのだ、永久に。
「……クラヴィス様?」
「いや、本当に何でもないのだ。…心配をかけたようで…すまなかった…」
それでもなお心配そうな顔をしている二人を安心させるように何でもないと繰り返し、アイリッシュカフェを持ってきてくれと頼んで長椅子に腰を落ち着けた。その途端またジュリアスの感触をまざまざと思い出した。

つい何日か前までジュリアスはここに、私の隣に座っていて、触れて、抱きしめて、くちづけて。ほしいと囁いて、桜色に染まる頬を見て寝室へと誘い……記憶の奔流は圧倒的で、また叫び出さぬよう唇をかんだ。
そうだった、私は叫んだのだ。ジュリアスの気に入っていた椅子を見て、そこにあれがいないことに気がついて、二度とジュリアスがそこに座ることはないのだと理解して。ここ20年以上も口にしたことのない母国の言葉で。
会いたい、私の許へ戻れ、と。
あの古い言葉をまだ話すことができたのかと少し驚き、なぜそんな言葉が急に口をついて出たのかと不思議に思い、そして悟った。
私は時を戻したいと思ったのかもしれぬ。ジュリアスと出会ったばかりのあの頃に。二人の未来にまだ20年以上の時間が残されている、あの時に。

たとえそれができたとしても、またこうして別れの時を迎えるのだ。時を戻せたとしても何の意味もない。
ジュリアス、お前がいてくれたから、私は生きていた。ここで生きていることができた。そのお前を失った今、私に生きる術はない。
生きながら死んでいくような……そんな気がする。
何が悲しいのかさえも忘れていたここ一週間は何かの恩寵だったのだろうか。あのまま何も感じずにいられれば良かったのだが…そうも行かぬということか…。

ジュリアスがいないと認識したことで生じた胸の痛みは、クラヴィスを蝕み始めようとしていた。
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26. 奇跡(「(ver.1)45. 臆病」の続き) -2007闇様生誕企画3-

いろいろと考えすぎると煮詰まってきてわけがわからなくなる、というのは間々あることだ。プライベートに於いてジュリアスにはこれまでそんな経験はなかったのだが、いま人生で初めてそういう問題と直面している。

好き。

それが何だというのだ。うろたえるようなことではない。
好きだという感情には何ら後ろめたいものはないではないか。
私は乗馬が好きだ。馬という生き物も好きだ。
エスプレッソが好きだ。テリーヌが好きだ。
チェスが好きだ。読書も好きだ。
あれが……それら好きなものとどれほどの違いがあるというのだ!!

……違いはある、な。何が違うのかはわからぬが、違っていることはわかる。生活を豊かにするものとして好んできた諸々とはまったく違う意味合いにおいて、私はあれのことを好きだと思っている。

なーんて、ごくごくマジメに考えて。ふと、「クラヴィスのことがどれほど、どんな風に好きであるか」と一生懸命考えていることに気がつき、脳が破裂するんじゃないかと思うほどの衝撃を受けた。
私は……何ということを考えているのだ……それも、このような場所で。

我に返ればそこは執務室。神聖なる仕事の場で、職務とはまったく無関係な「クラヴィスが好き」に関する考察を延々と繰り広げていたなど慙愧に堪えない。守護聖にあるまじきことだ、しっかりせねばならぬと己を叱咤しているところへ、折悪しく書類を手にした闇の守護聖のご訪問。日頃自分から来ることなんか滅多にないクラヴィスのあまりにもタイミング良すぎる(のか、悪すぎるのか判断し難い)出現に、一生懸命平静を取り戻そうとしていたジュリアスはまたも果てしなく舞い上がってしまった。
「なななななな何なのだ」
「どうした? なぜどもったりする」
フッと薄い笑みを浮かべたクラヴィスを見て、わーなんてきれいなんだろうなんて一瞬見とれて、何を考えているばかばか私のばかと自らをののしり、
「べべべべべべ別に何もななななななない」
情けないことに、またどもった。
先程からこの上もなくジュリアスらしくないジュリアスを連続で見せられたクラヴィス、さすがに軽い驚きを覚えて呟いた。
「いったい何事だ」

その時、ジュリアスの中で何かがぷつんと音を立てて切れた。立ち上がって、執務机を離れて、クラヴィスの方へと進む。クラヴィスまで、あと少し。もうあと一歩足を踏み出せば手の届く距離だ、というところで立ち止まった。そこで挑むようにクラヴィスを見て、口を開いた。
「好き、なのだ……」
視線は外さない。しっかりと、クラヴィスの瞳に見入ったまま告白した。
「何の話だ」
「好きだ!」
「だから…何が? 誰がどこで何をどうしたのか、はっきり言ってくれ。何が言いたいのか皆目見当もつかぬ」
普段なら、わけのわからないことを言うクラヴィスに対してはっきり言わぬかと文句を垂れるのはジュリアスの方なのに、何だか今日は役回りがまったく逆だ。何しろ今のジュリアスときたら、にらみつけるようにして「好きだ」と口走ったのだ。それを愛の告白だと認識しろというのが無理な話だろう。クラヴィスに言われたことで、自分が言葉を端折りすぎていたと気がついたジュリアスは、ようやく「好き」の対象を明らかにした。ごくりとツバを飲み込んで、決死の表情でその言葉を口にする。
「そなたのことが」
「お前が、私を? …好き?」
もう少しうまい冗談を言えとか何とかいう返答と共に小ばかにしたように嗤われることを覚悟して頷いた。
首を縦に振ったジュリアスをまじまじと見て、それからクラヴィスは笑った。ジュリアスが思っていたような嘲るような笑いではなく、皮肉な笑いでもなく、柔らかな光の射すような優しい笑みだった。

ぅわーーーーやっぱりクラヴィスってすごくキレイ。
……ところで今……私が見ているのは、クラヴィスの笑顔、か?

思いもよらなかった優しい笑顔に大混乱。
「…そうか」
ジュリアスを大混乱に陥れた笑顔のままで、クラヴィスは言った。クラヴィスまであと一歩、と思っていた最後の距離を、相手のほうから詰められた。一歩。そしてもう一歩。目の前15センチのところに好きな男の顔。ど迫力どアップで。

待て。近づきすぎだ。……怖い、のだが。

日頃他人とこれほど近くで接したことのない身としては、相手の体温が感じられる近さは落ち着かない。あと一歩の距離を保つために下がろうとしたが、寸前で腕をつかまれて引き止められた。そればかりか抱き寄せられた。じんわりと人の持つ温度を感じて、気が遠くなる。
ものすごく血圧が上がっている気がする。ドクンドクンと自分の心臓の音がうるさいほどだ。……クラヴィスが何か言っている?
「私も、だ…」
よく聞こえない。何と言ったのだ。もう一度聞かせてくれ。
「私もお前が好きだ」

ぱあああああっとあたり一面にあふれる光(光の執務室だからもともと明るいんだけど、そういうイメージで!)。そして、音楽スタート!

ちゃららーーーーららららららららーらら〜♪

ジュリアスによる大ざっぱな事前シミュレーションでは、それが起きる確率、推定百万分の一以下。ほぼあり得ないと言っていい。だが奇跡は起こった。男同士なのにLLEDのときの音楽が静かに流れる中、クラヴィスはジュリアスを抱きしめたまま積年の想いをせつせつと打ち明け始めた。


27. あいしてる(「(ver.1)27. とけてゆく」の続き) -2007闇様生誕企画2-

混乱と、そして地に足がつかないような何とも言えない気分とでぼうっとしていると、「愛している」という言葉が聞こえた。
愛?

抱きしめられていたのが、いつの間にか正面から向き合っていて、怖いくらいに真剣な瞳で見つめられた。
「愛している」
もう一度、クラヴィスの言葉が耳に入って、茫然と見返した。何が起こっているのか、ますますわからない。とてつもなく幸せなような、震えるほど怖いような。
「……てもよいか?」
相変わらず混乱していてクラヴィスの言葉の意味がよくわからなかったが、私は呆けたように頷いていた。好きな男に許可を求められ、真剣な瞳の色と声音に圧されて、拒否をするなどという考え自体が浮かばなかった。気がつけばまるで魔法にかかったかのように首を縦に振っていたのだ。

すると腰にクラヴィスの腕が回って強く抱き寄せられ、もう一方の手で後頭部を押さえられた、と思ったと同時にクラヴィスの顔が目の前にあって、私たちはくちづけを交わしていた。

柔らかい唇にふさがれて、抗議しようにも何も言えぬ。先程の言葉は「くちづけをしてもよいか?」だったのだとようやく悟ったが、もう遅かった。
なぜクラヴィスは私を好きだと言い、愛していると言い、くちづけまでするのか。
好き、はまあ良いとしても、男同士でこれは……異常ではないのか。

そう思いながらも振り解くことができなかった。なぜならばクラヴィスのくちづけはとても甘くて、優しくて、心を溶かし私の体からすっかり力を抜き取るようなものだったからだ。
抗議も、反論も、抵抗も、何もできない。
甘い感覚にただこの身を任せるだけ。

クラヴィス、私もそなたを愛している。
……のだろうと思う。さもなければこのような場所での狼藉をいつまでも許しているはずがない。

私たちがいたのは廊下の奥まった突き当たりの暗がりで、滅多に人の来るような場所ではなかった。が、さほど遠くないところを人の通る気配がして思わず身をすくめると、クラヴィスが私を放した。
「このままお前を連れて帰りたいところだが……執務時間中だ、そうも行くまい。今宵、お前の館へ行く」
って、何? どういう意味かよくわからなかったにもかかわらず、ジュリアスはまた頷いた。クラヴィスは目を細めてそんな彼を見て、耳元に唇を寄せた。
「今宵が待ちきれぬ」
囁かれてふるっと震えたジュリアスの唇に軽くキスして、クラヴィスは行ってしまった。残されたジュリアスは混乱の極みでまだ震えていた。金縛りにあったようにその場から動くことができない。

好き。
愛している。
そしてくちづけを交わして。
その次には何がくるのだろう。
急展開過ぎて思考が追いつかない。

待ってくれ、どういう意味だ。私はどうすればよい?
なんて、追って尋ねるのも気が引けた。何しろ王立研究院の中だ。今までしていた会話も行為も、本来このような場所ですべきではないものだった。

今宵、何が起こるのか。誰か教えてほしい。
……とりあえず、晩餐は二人分用意させねば。
研究院での用事を済ませたあとで、今宵は来客があることを館に連絡しておかねばならぬな、なんていう段取りを考え始めて、ようやくジュリアスは動けるようになった。
恋人と抱き合って愛してるって言い合う甘い恋に身を委ねるよりも、現実的な問題をひとつひとつ処理していく方が向いている首座だった。


29. 誰か… -Crossroad 4- back

突然の激痛とめまいでふらついたところをジュリアスに支えられた。かすんでいく意識の向こうに、懐かしい誰かの姿が見えた気がした。

懐かしい誰か……?
あれは誰だったろうか。
思い出せない。

痛みにうめくクラヴィスは、「どうした」と呼びかける声に「頭痛が…」と答えて意識を失った。


+ + +


ジュリアスは、懇意にしている病院にクラヴィスを運び込んだ。社員の健康診断にも利用しているこの病院の院長とは知り合いで、病院に寄付をしていることからある程度の無理は聞いてもらえる。
急に激しい頭痛を起こして倒れたということで救急へ回されたが、脳外科系の疾患ではないと判明して今は空きベッドに寝かされていた。

ジュリアスはクラヴィスを診察した白衣の男に尋ねた。
「容態はどうなのだ」
「痛みはすっかり引いたとご本人はおっしゃっています。意識もしっかりして落ち着いていますからご安心ください。どうやら心因性のもののように思えますが、詳しいことは検査をしてみないことには」
「では必要な検査を頼む」
念のためということで入院の手続きを取った。入院、検査と聞いてクラヴィスはいい顔をしなかったが、「家族はあるのか?」と尋ねると、しぶしぶ一人暮らしであると認めた。「一人でいるときに今日のように意識を失ったりすると危険だ。きちんと調べた方がよい」とジュリアスに説得されて仕方なさそうに頷いたのだった。

入院の手続きから身の回りの品の手配等何から何まで世話を焼いてくれたジュリアスは、入院中も仕事の合間を縫って毎日立ち寄っていた。忙しい身ゆえに長く話し込むことはなかったが、かつて自邸の執事を務めていた男くらいしか知り合いのないクラヴィスは、彼の訪問を心待ちにしていた。だがたとえジュリアスの訪問があっても入院中は手持ち無沙汰で、しかもいろいろと制約が多い。数日のうちにクラヴィスはいい加減うんざりしたという表情となっていた。そんなところへ面会に来たジュリアスに「具合はどうだ」などと尋ねられて、
「もともと特に悪いところもなかったのだ、変わりはない。あれ以来頭痛に襲われることもないし、検査にもあきた」
とこぼした。
「医師は何と言っている?」
「頭痛の原因については、どうもよくわからぬらしい」
「連日検査をしているのにか?」
「ああ。ただ、体は悪くないということなので、さっさと退院したいものだ。医師にもそう言ったのだが、お前の紹介で入院したという形になっているので、お前に話を通さねばならぬらしい。保証人とやらになってもらっているそうだが…いちいち面倒なことだ」
「それはすまぬな」
「お前に謝ってもらうことではない。言い方が悪くてすまぬ。いろいろと世話になって感謝はしているのだ。ただここにいると病人でもないのに病人のような気分になる。食事の時間まで管理されて自由にできぬというのは性に合わぬ…」
ため息をつきながらそんなことを言うクラヴィスに、ジュリアスは「今日は病院長と面会の予約をしている。そなたのことも聞いてくるから、もう少し我慢してくれ」と言い置いて、病室を出たのだった。

その足で病院長の部屋へと赴く。
「この度は急なことでご迷惑をおかけしたこと、お詫び申し上げる。それでクラヴィスの容態についてなのだが、詳しい話を聞かせてもらいたい」
院長は傍らの医師を紹介した。
「患者さんについては、主治医であるこの男からお聞きください」
医師は一礼すると、話し始めた。
「それが、申し上げにくいことながら……わかったような、わからないようなというのが本音です」
「クラヴィスもそのようなことを言っていたが、本当にそうなのか」
「何ともはっきりしないケースなんです」
「どういうことだ」
「あの方は記憶障害がおありですね」
「そう聞いている」
「どうも普通の記憶喪失とは違うようで、記憶の一部が人為的にブロックされているようなのです」
「それで?」
「ブロックされた部分の核心に触れるような物事と接すると、意識を失うほどのひどい頭痛が起こるようです」
「……なるほど」
「非常につらい体験をして、緊急避難的措置として催眠セラピーなどを受けられたというようなことは? ひどい心的外傷によって人格が破壊されるのを防ぐために、そういう療法を行うことがあります。あの方のこれまでの医療記録が予防接種以外一切ないので、推測するしかないのですがね」
「記録がない?」
医療機関ではIDカードからその持ち主の医療記録へとアクセスできるのが普通だが、クラヴィスにはその記録がないのだという。20年以上生きていれば何らかの加療の記録があって当たり前なので、そこがブランクだというのは非常に珍しいことだ。けれどもクラヴィスに関してはそれも当然だろうと思いながら、ジュリアスは一応軽く驚いて見せた。
「記憶障害がある以外は、あの方はみごとな健康体です。必要な予防接種は済ませていらっしゃいますし、これまでは医者にかかる必要もなかったと考えれば頷けないことではありません。ご本人からの申告によれば、今回のようなひどい頭痛を経験したのは初めてだとのことでした。倒れられたときあなたがご一緒だったとのことですが、何の話をしていたか覚えていらっしゃいますか」

クラヴィスが倒れたのは私が名を告げたと同時だった。
顔を合わせて言葉を交わしてもこのようなことは起きなかった。
なぜ名前が引き金となったのか不思議に思うが、この事態はやはり私と関わりがあるということか――。

「直前まで仕事に関する話をしていた。あれのことは昔から知っているが、ここ10年ほど顔を合わせていなかったのでな。その間に何があったか私は知らぬ。ところで、心理ブロックとやらがかけられている状態が続くことで、何か体に害があるのか?」
「その点は心配いらないと思います。療法として確立したもので、体に害はないとされています」
「そうか。深刻な病ではないとわかっただけでも、とりあえずは朗報だ」
「頭痛がご心配ということなら、ご本人とも相談の上で原因と思われる心理ブロックを取り除くことを検討してみてもいいのですが……」
ためらいがちな医師の言葉に、ジュリアスはしばらく考えて、首を振った。
「いや。過去の治療の結果である可能性があるのなら、事情もわからぬうちにそれを取り除こうとするのは危険だと思う」
「おっしゃる通りです」
「これまでの話を聞く限り、入院している必要はもうないようだな」
「ええ、退院していただいて問題ありません。今のところ頭痛の再発はないようですしね。ただし、もしもこの先頻繁に起こるようなことになれば日常生活に支障をきたすようになる可能性があります。定期的に通院していただいて、経過を見るほうが安全かと思いますが、どうでしょう」
「そうだな。あれが何と言うかはわからぬが、いざというときにかかりつけの病院があったほうが何かと安心だろう。そうするよう私からも話してみよう」
病院との接触を保っていれば、医師の言う心理ブロックについてもう少し詳しくわかるかもしれない。危険のない方法でそれを解除することもできるかもしれないとジュリアスは考えていた。
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