「あの裁判は、おデコくんが頑張っただけで・・・」
震えているのは、声だけではない。
足だけではない。
突き上げる驚愕と―――歓喜に魂を揺さぶられながらも、響也は重苦しく頭を振った。
共に揺れてジャラリと冷たく鳴ったアクセサリーは、軛を思わせて。
居たたまれずに逸らそうとした視線を引き止めたのは、やはり成歩堂の『慈愛』としか名付けようのない微笑。
「うん。でも、牙琉検事が協力してくれなかったら、裁判は成り立たなかっただろう?」
突き付けられる事実が積み重なっていく内に、響也も途中で『真実』を見付けてしまった。
確かに成歩堂の指摘通り、響也が権力をもって操作すれば、異なった結審が導き出された可能性は充分にある。
実の兄が関係しているのだから、響也とて逡巡したのだ。
肉親の情に引き摺られそうに、なった。
だが・・・。
「ボクには、できなかった」
真実に、背く事など。
どんなに哀しい結果が生まれても。
辛くても。
「・・だから、ありがとう。ごめん、なんて言ったら、オドロキくんみたいに殴られそうだしね」
兄を奪った事を。
今度は響也をスキャンダルの渦中へ落とす事に対して、成歩堂は謝罪しない。
できないから、せめて謝意を伝えたいと、成歩堂の静謐な双眸に映し出され。
響也は、最後の砦が脆く崩れる音を、聞いた。
「バカだよ。―――何て、愚かな」
ガクリと伏せた顔が、成歩堂の肉付きの悪い肩に埋められる。
跪いてしまいそうな脚を支える為に廻された響也の両腕は、きつくきつく成歩堂を掻き抱き。
パーカーの安っぽい布地に吐き出された、罵りは。
響也への。
兄への。
それから、七年もの間、不器用に頑なに真実を追い続けた成歩堂への。
今まで真実に辿り着けなかった全ての者への叱責であり―――謝罪、だった。
どんなに感情が高ぶっても、正常な人間なら、その状態が永久に続く事はない。
真剣で真摯な思いに浸っていた響也を、ふっと現実に引き戻したのは、甘いグレープの香りと―――幾分低い成歩堂の体温。
一度認識してしまったそれらの感覚は、急速に他のあれやこれやを響也に意識させる。
例えば数センチしか離れていない所に見えるのは、やけに艶めかしい成歩堂の首筋だとか。
響也の両腕が抱えているのは、女性のように括れている訳ではないが、腕に余ってしまう腰。
背中を一定のリズムで撫でる、成歩堂の手。
友愛のハグなどではない。
己が成歩堂にしているのは、まさしく情熱的な抱擁だと気付いた響也は。
「〜〜〜っ!」
音にならない叫びをあげ、優に二メートルは飛び退った。
ガタン―――!
「っ痛!」
勿論周囲を確認する余裕などなかった響也は、テーブルへ派手に腰を打ち付けた。
おまけに椅子に足を取られ、危うく床に尻もちをつく寸前の際どい体勢になってしまう。
慌てふたむき、真っ赤になり、ずっこけた響也はさぞかし間抜けで見物だったろう。
己でもそれが分かっていたから、俯いたまま顔を上げる勇気は起こらなかった。こんなにきまりの悪い思いをした事は、十代の時だってない。
「あっはっはっ」
「!?」
猛烈な羞恥と情けなさで固まった響也へ降り注いだのは、朗らかなのか胡散臭いのか微妙なラインにある、ちょっとわざとらしい哄笑。
反射的に仰ぎ見れば、肩を揺らして笑う成歩堂が、サンダルを鳴らしながら響也へ近付いてくる所だった。
「慌てる牙琉検事なんて、みぬきに見せられたコンサートライブ映像にもなかったよ。・いいもの、見ちゃったなぁ」
口調だけなら、完全に響也の失態をからかっているのだが。
眼差しに揶揄の色はなく。
場の空気を軽いものにしようとする成歩堂の計算だと、沸点に達した響也の脳でも気付いてしまう。
響也の仮説を裏付けるかのように、成歩堂の手が、響也を起こすべく差し伸べられる。
「プライベートは、トップシークレットだよ。漏洩したら、肖像権侵害で訴えるからね?」
「訴えられても、払えないと思うよ・・」
「アンタが、誰にも言わなければいいだけの話さ」
すっかり立ち直ったポーズをとって軽口を返しながらも、響也は自分の手にすっぽりと収まった、自称ピアニストのそれに、不覚にも熱いものが込み上げるのを抑えられなかった。
実際成歩堂の手を包んでいるのは、響也なのに。
本当の意味で包み込まれているのは響也の方だと、今更ながら実感して。
「ありがとう」
最初の一言を発するのに必要としたエネルギーは、桁違いだったが。
ハードルを越えてからは、すとんと気持ちが軽くなった。
狼狽して、高揚して、激情を吐露して。
ジェットコースター並の上下降が行き過ぎれば、嵐の後のように心が凪いでいる。
この刹那なら、全ての柵を捨てて、成歩堂と対峙できそうだった。
「礼を言わなくちゃならないのは、コッチの方だって事、ホントは分かってるんだ。・・・ありがとう」
まだ、謝罪はしない。
できる立場ではない。
だから、響也に今日許される全ては、感謝を告げる事だけ。