前々から、独特の雰囲気を漂わせているとは思っていたけれど。
ゼロ距離ではその威力が段違いで、恋愛経験値はかなり高い響也が、うっかり引き込まれてしまった位の威力だ。
「牙琉検事? 目を開いたまま、寝てるのかな?」
「・・あ、ああ。すまないね」
響也を硬直から解いたのは、張本人の成歩堂だった。
自由な方の手を響也の目の前でヒラヒラと振り、更にぐっと顔を、吐息が感じられる位に寄せてくる。
酩酊にも似た眩暈が酷くなりそうで、響也は慌てて身を引いた。
『相手は三十三歳の、しかも男だぞ!?』
一瞬の硬直が解けると、己の間抜けな動揺振りに羞恥が込み上げ。動揺してしまった事自体にも愕然とする。
「ちょっと、来てくれるかい?」
内心の動揺をかろうじて声と表情に出さず、響也は成歩堂の返事を待つ事なく、一番近くの空会議室へ成歩堂を連れ込んだ。
入る際、表示を使用中にし、内側から施錠した上、成歩堂を壁と自分の体の間に挟み込む。
これら一連の動作は半ば無意識の行動だったが、響也は薄々分かっていたのだろう。
成歩堂にはこれ位しないと、するりと逃げられてしまうと。
「何だか、物々しいねぇ・・」
成歩堂はぽつりと呟いたけれど、響也に掴まれた手を振りほどく素振りは見せなかった。
とりあえず逃走だけは阻止出来そうだったので、響也は僅かながらも安堵し、同時に幾分冷静になれた。
千載一遇のチャンスを見過ごす訳にはいかない。
微かな指先の震えが、響也の緊張を指し示している。
緊張なんて、初法廷でもガリューウェーブのステージでも味わった事がないのに、と自嘲しながら、深く長く息を吸う。
シャウトする前のように。
気合いを入れるように。
真正面から成歩堂と向き合うのは、正直居心地が悪かった。
逃げ出したいのは、響也の方。
だが、もう真実から目を背けないと誓ったのだから。
「―――アンタ、何か、言いたい事はないのかい?」
普段のトーンより抑え気味にしたのは、上擦らないようにする為。
成歩堂に言いたい事はそれこそ山程あったが、それより、響也は成歩堂の言葉を聞きたかった。
響也に向かって、何か言って欲しかった。
恨んでいるだろう。
憎んでいるかもしれない。
あるいは、実の兄に利用されて無様な道化を演じた響也を侮蔑している可能性だってある。
今現在、響也の立場はあの伝説の弁護士を冤罪に陥れた事件の第一人者として、内外問わず注目の的になっている。
そんな状況を、響也の自業自得だと嘲笑う資格さえ、成歩堂にはある。
ただ。
無関心という罰だけは、下さないで欲しいのだ。
七年間、素通りするだけだった視線を、どんな色でも構わないから向けて欲しいと心底願わずにはいられない。
「・・・・・」
成歩堂は。
結局冷静ではいられなくなった響也の顔を、解析不可能な眼差しで眺めていた。
あの思わせ振りな視線とも違う、響也の心を覗き込むかのような、目。
一度だけ直接見た法廷での目付きと酷似していたが、違うのは―――敢えて表現するなら、暖かみのようなものが宿っていた事。
「成歩堂龍一、沈黙が答えなのかい? だんまりなのかい?」
成歩堂の凝視は延々と続き、不快なものでなくとも居たたまれなくなった響也が恐る恐る問うと。
ゆっくり瞬いた成歩堂は、やっと口を開いた。
柔らかそうに見えるその唇が紡ぐのは、果たしてどんな言葉なのか。
全身に無意味な力を入れた響也に、齎されたのは。
「―――ありがとう」
それは、唯一、響也がシミュレーションしていなかった言葉。
感謝など向けられる謂われが、響也には全くないのだから。
なのに何故、成歩堂はこんな言葉を発したのか。
―――柔らかい、穏やかな瞳で。
どうして、成歩堂は微笑んでいるのか。
―――暖かい好意だけで造られた表情をして。
「・・何で。何で、アンタが礼なんか言うんだ! おかしいだろ!?」
耳障りな程、響也の声はひび割れていた。
いつもの『クール』が無残に崩壊し、みっともない位狼狽を露呈しているのは、頭の片隅で知覚していたものの。
その時の響也に取り繕っている余裕なぞ、一ミクロンも持ち合わせていなかった。
衝撃が大きすぎて、思考が真っ白になって、未だに立っていられるのが不思議だった。
弁護士資格を剥奪される切っ掛けになったのは、響也自身。
陰謀を張り巡らせたのは、響也の兄。
七年も陽のあたらぬ地下に潜り、孤立無援で、しかも捏造証拠を手渡しした少女を育てながらの歳月は、響也が想像する事も烏滸がましい位、厳しく険しいものだったに違いない。
にもかかわらず感謝を告げるなんて、成歩堂の真意は一体どこにあるのか。
「ちっともおかしくなんて、ないよ? キミと・・オドロキくんがいたから、『真実』が明らかになったんだ」
一度重なった視線は、磁力が働いているかのごとく吸い寄せられて離せない。
響也が深層意識で感じ取っていたように、成歩堂は『落魄れて』なんかいなかった。
どれもこれも、現役時代得意としていた『ハッタリ』の一種だった。
響也の目の前に立っているのは、堕落した元弁護士という偽装を完璧なまでに使いこなし。
七年間汚泥の中に身を沈めながらも、魂を全く曇らす事のなかった、真実の探求者。