午後6時。カフェ『Phoenix』は閉店する。
「今夜は何が食べたい?」
「んーとね、何だっけ。ポ・・ポットン? ポスト・・?」
2人が暮らすマンションは、店から徒歩5分。その帰り道にあるスーパーで買い物をするのが、日課だった。
「ポとトと3文字なのは合ってるな。最後の1個は、さて、何だろうなぁ」
さりげなく導いてやれば、パッと成歩堂の瞳が輝く。
「ポトフだ! でしょ? ポ、トフ、作ろうよ、パパ」
ちょっぴり言い辛そうにしながら、繋いだ手をくいくいと引く。神乃木に否やがある筈もない。
「じゃあ、何を買えばいいんだィ?」
クイズのような会話をしながら買い物をする神乃木達を、周囲の主婦や女性達がある者は暖かく見守り、ある者は話し掛けるタイミングを窺っていた。
コブツキだが。
長身で精悍で身形も高級品ばかりだと分かる神乃木の連れは、いつも幼い子供だけで。お近付きになりたいと思う女性は後を絶たず。実際声をかけてくる事も多々ある。だが、誰1人として成功した例はない。
繰り返しになるが、神乃木は成歩堂しか目に入らないから。
2人で一緒に夕食を作り、一緒に片付けをして、一緒に風呂へ入り、1つベッドに潜り込む。
仲の良い親子そのものだが。たった1つだけ、普通の親子とは異なる所がある。それは、2人の間に『ひみつのやくそく』が存在する事。
「まーる。『やくそく』は?」
風呂上がりで、しかも今日は体育があったとかでもう眠たくなっている成歩堂の身体はポカポカで、まるで湯たんぽのよう。同じボディソープを使っているのに、成歩堂の肌から薫るのはどこまでも甘い香り。
温もりを、匂いを、存在総てを感じながら、神乃木は成歩堂を促した。今夜はこのまま寝かせてやるつもりだが、『やくそく』だけは外せない。
「んん・・・」
半分塞がった瞼を擦りつつ、しかし成歩堂は素直に上へ伸び上がる。
「パーパ、大好き。ずっと一緒にいてねv」
チュッ!
技巧も何もない、シンプルな口付け。
それがどんなに重要なものなのかは、神乃木だけが知っていればいい。
「ああ、約束するぜ。俺のコネコちゃん」
同じキスを返してやると、成歩堂は鮮やかすぎる程嬉しそうに笑って引っ付き。10秒後にはあどけない寝息をたてていた。寝やすい位置に微調整してやり、神乃木はどうしたって跳ねる黒髪にそっと接吻を贈る。
「もう少ししたら、な・・」
眠りに落ちた成歩堂へ呟くというより、己に言い聞かせるような呟きを漏らしながら。
『約束、守れるかィ? 守れなかったら、一緒にはいられない』
『やくそく、するから。ずっと、いて』
一度は、手放そうと決意した。保護するべき、年端もいかぬ子供に―――しかも、同性だ!―――欲情する己が恐ろしくて、過ちを犯す前にと。
だが、一度も泣いた事がなく。大抵の事は大人しく言う事を聞いていた成歩堂が。
その大きな瞳からポロポロポロと、体内の水分がみんな流れ出てしまうのではないかと危惧する位に涙を零し。紅葉のようにちっちゃい手で神乃木のシャツを掴んで、初めて自分から『お願い』をしたのだ。
『離れたくない』と。
その夜、2人は『ひみつのやくそく』をした。
次の日からの神乃木の行動は素早く、周囲の度肝を抜く程の劇的ビフォーアフターをしてのけた。
名の知れた神乃木は依頼が引きも切らず、広い家に成歩堂を1人きりにさせていたから、まずは弁護士事務所を辞め。その代わり、小さな珈琲専門店を開いたのである。勿論、成歩堂と四六時中一緒にいる為に。
今も尚、神乃木の実力を惜しんで関係者が尋ねてくるのでパラリーガル的な仕事や短期間で終わる仕事は引き受けたりもするが、神乃木は成歩堂中心の生活を決して崩さない。
席数も少なく、神乃木達の生活圏内である事を優先させた結果、立地条件も良いとは言えない。しかしカフェ『Phoenix』は神乃木の予想を遙かに越えて、繁盛している。本格的な神乃木の珈琲も玄人に受けているが、一番の目玉は花が咲くような笑顔で接客してくれる成歩堂。
生活の為に経営しているのではないとはいえ、閑古鳥が鳴くよりかはいいかもしれないが。
日々増え、熱烈になっていく成歩堂のFanに、神乃木は気が気でない。
1日も早く、『パパ』を卒業したいものだと切実に思っていた。