カラン
音量は控え目ながら、心地よいカウベルが鳴り響いた。
カフェ『Phoenix』のマスターである神乃木は、客を迎えるべく注視していたドリップから一瞬だけ目を離した。
カウンター越しに窺った扉は確かに開いたのに、そこに客の姿はない。
カラン、と再度カウベルが鳴って扉が閉まる様は、まるで透明人間が入ってきたかのようだ。
「クッ・・・」
不思議な現象にも神乃木に動揺はなく、それどころか楽しげに肉感的な唇の端を持ち上げた。
「いらっしゃいませ、みつるぎさん!」
「お帰り、龍一くん」
「お、やっと帰ってきたねv」
「きょうや兄ちゃん! 来てくれたんだぁ!」
どちらかというと強面の神乃木を微笑ませた人物であり、店内の空気を一変させた透明人間の正体は、神乃木の愛しい息子。カウンターにすっかり隠れる位に小さい成歩堂だが、しっかりサービス精神を発揮して、カウベルよりももっと澄んで耳に心地よい声で常連客へ挨拶しながら厨房へとやってくる。
「ただいま、パパ!」
「おかえり、まる」
喜びを露わにしてカウンターと厨房の境にあるスイングドアを押した成歩堂は、しかし神乃木の手元を見ると、ぴたりと歩みを止めた。神乃木が珈琲をいれている最中は邪魔してはいけない事を知っているから。
「待たせたな。神乃木ブレンド89号だ」
細心の注意を払って注いだ1杯を客へ差し出し、成歩堂の方を振り向いた神乃木は。客へ見せるのとは似ても似つかない満面の柔らかい笑みで、成歩堂を掬い上げた。
「お帰り、まるまる」
改めて告げ、ぎゅっと抱き締めて頬を寄せる。
「うわ、パパったらくすぐったいよぅ」
綺麗に刈り揃えられた顎髭で成歩堂の白玉もかくやという柔肌を傷付けたりはしないが、チクチクとした感触に、成歩堂が子供特有の高い声でクスクス笑う。けれど嫌がっているのではなく、小さなぽちゃぽちゃした腕を神乃木の首に廻して、自ら擦り寄る。
その光景は仲の良い親子というより熱愛中のバカップルで、ピンクのハートマークをカウンター越しに飛ばしている。
「ム・・・」
スコン、と眉間にハートマークが当たったような気がした御剣は、皺を深くした。
カウンターの端に備え付けられた、神乃木お手製の箪笥机で本日の宿題を済ませたら。常連客にとってのサービスタイムが始まる。
空いたマグを片付けたり洗ったりと出来る事は少ないが、それでも一所懸命に神乃木の手伝いをする様子は微笑ましかったし。ちょこまかと動き回り、クルクルと変わる表情を眺めるだけでも和むし。通い詰めて親しくなれば、膝の上に乗って話してくれたりもするのだ。
暖かくてフニフニしていて、ふんわりと甘い匂いをさせ。黒目がちの大きな瞳に至近距離で見上げられ、ニッコリと微笑まれれば。しょっちゅう神乃木が抱き締めている気持ちが理解できてしまう。
本日光栄にも成歩堂の遊び相手になれたのは、響也で。
動く度キラキラじゃらじゃらと揺れるアクセサリーに興味津々な成歩堂に好きなだけ弄らせ、時折プリンを掬ってサクランボのような唇に運んでやる。
カフェ『Phoenix』は店主の嗜好により珈琲専門店だが、裏メニューとして日替わりスイーツが供される。神乃木の手作りで、成歩堂のオヤツの『あまり』だったりするのだが、神乃木が成歩堂に不味いものを食べさせる訳もなく。
『珈琲とスイーツが美味しくて、イケメンな店長と可愛らしい店員がいる』店として評判もよく、取材申し込みを受けた事も数知れない。
尤も、敏腕弁護士から突然カフェのマスターにトラバーユしたのも、偏に成歩堂と一緒にいられる時間を増やす為『だけ』で。カフェが赤字だろうが成歩堂に何不自由ない生活をさせられる資産持ちの神乃木に、店を流行らせるつもりは毛頭なくて全て断っている。
ぶっちゃければ足繁く通う常連だって、成歩堂との時間を減らす輩でしかないのだから。
出会った頃の、幼いのに泣きもしなければ我が儘1つ言わない、笑いはしてもどこか痛々しくてならなかった成歩堂が、常連との触れ合いを通して少しずつ明るさを取り戻していったという経緯がなかったら。
そして。
「―――まる」
「はーい、パパ! またね、きょうや兄ちゃん。プリン、ごちそうさまでしたvv」
「どう致しまして。また来てね」
どんなに楽しそうにしていても、神乃木の1声で、どんな時よりも嬉しそうな表情で駆け寄ってこなかったとしたら。とっておきのブレンドを奢って、常連客を故意に減らしていたに違いない。
それ位、神乃木の世界は成歩堂で回っていた。