一服の清涼剤




 何故か住所だけでは行き着けない、細い私道を幾つも折れ曲がった先にある、古い平屋。一度行った事があっても、二度目は大抵迷ってやはり見付けられない不思議な家。理由は分からないけれど、成歩堂は一人でもすんなり辿り着ける。
 他の刑事達から、馬堂の家に関する山程の噂話を聞かされる度。驚くと同時に、不可思議な家に―――ひいては馬堂に受け入れられているような気がして、少し嬉しくなる。
 もっとも、馬堂が珍しくうっすら笑って『気に入られたな・・家に・・』と呟いた時は、少し寒気を覚えたのも事実。馬堂は、真顔で冗談も言うし。笑みらしきものを湛えたまま、真実味に溢れた嘘も言う。
 まだまだ、解けない謎で一杯なのだ。
 今も、馬堂が成歩堂の返事を聞かないまま歩き出したように。二人の関係について、それらしい台詞が口に出された事はない。実は、行き着くところまで行っているとしても。
 ただ、訪問者を選ぶ家の件とか。沈黙の中でも伝わってくる雰囲気とか。微かな、表情の変化とか。普段は長い足に見合った速度で歩く筈なのに、今は成歩堂が小走りしないで済む早さになっている事とか。
 ともすればウッカリ見過ごしてしまいそうな、小さな徴が積み重なって。遅れ馳せながら、確信は持てないながら、馬堂との繋がりを感じている。
 宙ぶらりんな状況でも、心地よさと未知への好奇心と形を成し始めている想いの所為で、無理に変化させようとの考えは生じない。馬堂のペースにすっかり巻き込まれている、と事ある毎に苦笑しても。
「涼しいですね」
 縁側に腰を下ろし。白湯で喉を潤した成歩堂は、吹き込む風に目を眇めた。
 剪定はされていないが、さりとて荒れ果てている程でもない坪庭を囲むように隣の家が設置したという土壁が聳えているにもかかわらず、風通しは抜群で。熱気が籠もらないから、扇風機を回せば暑さは皆無。
 都内とは思えない快適さを訝しむよりも、暑さに弱い成歩堂は嬉々として享受する。
「ああ・・・涼しいな・・」
 一升瓶を傍らに置き。大きな湯呑みで呷る馬堂。その表情は普段と同じだったが、寛いでいる事が何となく読み取れる。
「・・ボウズも・・飲むか?」
 ゆったりとした動作なのに、酒が消費されるスペースは非常に早く。先程封開けした一升瓶は、もう三分の一程が減っている。しかし、これでも緩やかになった方だったりする。
 尋常でない酒量に成歩堂が馬堂の身体を気遣い、思い切って苦言を呈したら。途切れ途切れの会話が増えたり。成歩堂に味見をさせたり。湯呑みではなく酒肴へ手を伸ばしたり、と僅かではあるものの改善されていった。
 馬堂は他人の意見を聞き入れる性格ではないから、あっさり飲んでくれた事にまず驚き。それから、馬堂の中でそれなりの位置を占めているのだと改めて態度で示されて、胸の底が温かくなった。
「じゃあ、少しだけ」
 馬堂の晩酌に付き合っている内に、今までは敬遠していた日本酒も幾分嗜めるようになり。成歩堂は促されるまま手を伸ばした。
 伸びた腕から、垂れ下がる袖。それは藍染の作務衣で、馬堂家の夏着だ。
 手足の長い馬堂用に誂えられた作務衣は、成歩堂が着ると露出する部分が殆どない程大きいけれど。かなり快適で、自分のアパートでも使用しようかと真剣に考えている。
「うーん、美味しいけどやっぱりキツいですね」
 一口含むと、芳醇な香りが舌奥まで広がり。ついで、カッと粘膜が焼ける。喉から食道までも熱が降りていった後、成歩堂が湯呑みを馬堂へ返しつつ述べた。
 馬堂の好みは、初めて呑んだ時は激しく噎せ返ってしばらく話せなかった位の超辛口ばかり。慣れたと言っても、一口二口ですぐ限界が来る。そんな成歩堂を余所に馬堂は一息で湯呑みを空け、畳へ置いた。
「・・そうか・・?」
 いつもは手酌だったが、お裾分けを頂戴した事もあって注ごうと一升瓶に向かった成歩堂の手を掴み。馬堂が身を寄せ、日本酒の雫が残る唇へゆっくり口付けた。
「んっ」
 同じものを食べ、同じ酒で洗い流しているのだから。互いの舌は、先刻呑んだアルコールの味がする筈なのに。どうしてか甘さを真っ先に感じる。尖った味覚は、全くない。
「だが・・・嫌いじゃないだろう・・」
 重ね合わせた時のテンポで唇を離した馬堂が、目尻に微かな興を湛えて言い切る。
 キスの味といい。妙な自信といい。二人の関係といい。その他も。まだまだ、分からない事があるけれど。
 時間がかかってもいいから。
 こんな穏やかな雰囲気を大事にしつつ、馬堂という謎を解いていきたいと成歩堂は思った。