寒さに弱く、暑さにはもっと弱い成歩堂は。気温が30℃を越えると、冷や汗以外の汗をダラダラ流し始める。事務所にはオンボロといえどエアコンがあるから、まだマシだが。
現場検証が外だった日には、悲惨の一言に尽きる。水とタオルと着替えをしっかり用意して臨んでも、一度のめり込むとその他の事をシャットアウトしてしまう為、結局役に立つのは着替え位。毎回毎回、熱中症寸前になる。
しかし、今日は様子が違っていた。
「・・・坊主・・・」
直向きなまでの集中力で証拠に取り組んでいた成歩堂の耳へ、低く芯の入った、それでいて少し掠れ気味の声がするりと流れ込む。
「え? は、はい?」
普段なら、よっぽどでない限り周りの音は遮断されるのに、酷く鮮明かつスムースに脳まで到達した呼び掛けは当然成歩堂を驚かせ、勢いよく顔を上げた。
途端、ぐにゃりと歪む視界。平衡感覚が狂い、身体は大きく傾く。
「あ、ありがとうございます」
ふらついた成歩堂は、だが二の腕をしっかりと捕まれて倒れ込まずにすんだ。支えてくれた、今回の担当刑事である馬堂をチカチカと白い光が点滅する瞳で見遣り、礼を言う。
「もう、大丈夫です・・・って、馬堂さん?」
一つ深呼吸して作業へ戻ろうとしたものの、馬堂の手は離れず、逆にその場から連れ出されてしまった。声を掛けても馬堂の返答はなく、木陰まで来ると今度は肩を押されてちょうど置いてあった木箱へ座らされる。
そして目の前に突き付けられた、レモン味のチュッパチャップス。
「・・無くなるまで・・動くな」
例のごとくどこからともなく取り出したキャンディは、休まず舐めていても食べ終わるまでには数分かかる。
ここで、やっと。
馬堂の行動が、休憩を取らせる為のものだと思い至った。成歩堂自身は全く気付いていなかったけれど、馬堂の鋭い観察眼は成歩堂が熱中症に罹り始めていて、無理にでも休ませる必要があると判断したのだろう。
「―――お手数をおかけしました」
「・・・早く食え・・溶ける」
強引でありながら、押し付けがましくない。そんな不思議な接し方は、馬堂の為人を表していて。身体の気怠さが、すっと抜けたような気がした。
「ふぅ・・」
集中が途切れた途端、意識の中へ入ってきた滝のような汗をタオルで拭い。水分を補給してから大人しく刺激的な味わいのキャンディを舐め始めた成歩堂は、自分は休息を取らず現場へ戻っていった馬堂を見遣った。
流石にトレンチコートは着ていないけれど、黒のスラックスにグレーの長袖シャツ。甚だ失礼かとは思うが、成歩堂の感想は『見ているだけで、暑い』に限る。どんな炎天下でも、(滅多にないが)全速力で走り回った後でも、普段と全く様子が変わらない馬堂。
汗腺がちゃんと機能しているのか、真剣に疑った事もあった。今ではその疑惑も―――少々口に出すのが憚られる状況下で―――解けたが、暑さ寒さへの抜きん出た耐性は羨ましいばかり。馬堂よりもだいぶ若い己が体力面で著しく劣っているのも、結構悔しくて。
「よ、し!」
麻痺したように感覚が薄い膝に無理矢理力を込め、立ち上がってみる。先程とは違って眩暈は起こらなかったので、ゆっくり元の場所へ戻ろうとすると。
「・・・・・・」
「・・・(汗)」
つい数秒前まで成歩堂に背を向けて部下へ手際よく命令していた馬堂が、振り返っており。無言のまま成歩堂を凝視してくる。注意も、叱責も、忠告もないのに、何故か馬堂の意志というか指示はビシビシと伝わってきて。成歩堂は飴を口内でモゴモゴさせながら、再び座ったのだった。
そんな風に馬堂が度々、キャンディを目の前へぶら下げて成歩堂の作業を中断させるものだから。舐めるついでに水を飲み、汗を拭き、結果として定期的に休息した成歩堂は、余力を残して調査を終了する事ができた。
いつにない快挙である。
「馬堂さんのお陰です。ありがとうございます」
「・・・直帰・・できるのか・・?」
己の不甲斐なさを反省しつつ改めて感謝を告げたが、馬堂は目元一つ動かさず脈絡のない問いを投げてきた。
「はい、そのつもりです」
「寄って行け・・」
決定事項のように付け加えられた言葉に成歩堂は目をパチクリさせ、それから少し照れくさそうに頷いた。