「No」と言えないのなら




「龍一」
「ッ!!」
 今日も今日とて、気配を完全にたって呼び掛けと同時に抱き付くと。成歩堂はぐっと唇を噛みしめ、叫ぶのを堪えた。だが一瞬の硬直が解けた後の肢体は大人しくなどしておらず、すぐにジタバタ藻掻いて狼から逃れようとする。
「士龍さん・・お願いですから、急に現れるのは止めて下さいよ」
 狼が放さないと知っていても、抗いを繰り返すように。聞き届けられない願いを、やはり今日も口にする。
 前触れのない登場は、心臓に悪いのだと。多少は免疫がついたのか、最初の頃みたいに狼の耳も痛くなる程の悲鳴はあげなくなったが、ビックリする事には変わりないと。
「なら、事前に声を掛ければ、好きな時に好きなだけ抱かせてくれるんだな?」
 狼とて、成歩堂に負担をかけたい訳ではない。成歩堂には末永く健康で(狼の側に)いて欲しいのだから。
「いやいやいや、前後の繋がりがないですし! それに、誤解を招きかねない発言もやめましょうよ(汗)」
 鋭角的な髪の毛が、狼の目の下でブンブンと振られる。想いを憚る気のない狼が憚らない音量で要求を突き付けた為に、刑事だとか検事だとか捜査員の衆目を今更ながら意識したようだ。
 背後から抱いたままでも、顔を見なくとも、冷や汗をかいているのが分かる。狼の鋭い嗅覚が急激に強くなった成歩堂の匂いを、キャッチする。
 いくら酒を呑んでも酔わない狼だが、成歩堂が醸し出す香は一発で酩酊を呼び覚ました。
「誤解? 俺の日本語、おかしかったか? 龍一を、抱きたい、と言ったんだが」
 もっと酔いたくて頭を下げ、低く囁きながらピンク色の耳朶を噛んだのだが。これは、狼の作戦ミスだった。
「士龍、さん・・っ!」
 ビクリと敏感に震えた成歩堂が、耳を手で覆い、首だけ捻って狼を見上げたのだ。
 少し上擦った声音や。きゅっと引き結ばれた口唇とか。朱で縁取られた眦や、潤んで矢鱈と闇色を強くした瞳に煽られ。即刻拉致して貪りたいとの衝動が、狼の背筋を駆け抜ける。
 しかし現段階で実行したら狼が怖れている言葉を成歩堂が発する可能性があるので、何とかやり過ごそうと、ますますきつく成歩堂を抱き竦める。己の獣性を解き放つ事はできないが、欲望をねじ伏せるのはどんどん難しくなってきて、もはや苦行に近かった。
 と、怜悧な声が、狼に冷水を浴びせ掛けるかのごとく鋭く耳朶を打った。
「狼捜査官。成歩堂が苦しがっているではないか。すぐ解放したまえ」
「・・・ッ!」
 狼は。
 歯を剥き出しにし、喉の奥で警戒音を唸らせ、声音に似つかわしい端麗な容貌を有した男を睨んだ。元々検事嫌いの狼であっても、成歩堂の幼馴染みだという御剣に過度な敵意を示すのには、それなりの理由がある。
 あれは、成歩堂に告白して国の掟に則って口説くと宣言してから数日後。成歩堂が御剣の執務室にいるとの報告を部下から受けた狼は、この際虫の好かない場所である事には目を瞑って会いに行った。
 まずは親しくなる為の第一ステップ:スキンシップ(狼にとってはマーキング)から、と可能な限りにこやかに微笑み、
「龍一、ハグしようぜ」
 と両手を広げたら。『嫌』、とは言わなかったけれど、ビリジアンになった成歩堂は。
「典型的日本人なんで、ハグに慣れてないんですよ・・」
 ぽそぽそと呟き、よりによって、御剣の後ろに避難したのだ!
 『ぅぉおおんっっ!』と吼えはしなかったし、特徴的なサングラスのお陰で辛うじてポーカーフェイスは保てたものの。その瞬間、狼の検事嫌い(御剣限定)が加速したのは言うまでもない。
 物凄く、ショックだった。帰宅後、ちょっぴり心の汗を流した位に。
 成歩堂に逃げられた事も痛手だが。御剣を安全な場所だと選択した、御剣への信頼を目の当たりにすれば、成歩堂にとっての『伴侶』=『身も心も後顧の憂いなく委ねられる場所』を目指している狼のダメージは、特大。
 一晩中、狼の部屋からは雄叫びが絶え間なくあがり。二度はこの傷心に耐えられないと考えた狼は、以来、不意打ち捕獲作戦にスイッチしたのである。
 そんな経緯により、伴侶へのアプローチを邪魔する輩だとの認識が確立されているので、御剣に対する視線も、言葉も、態度も、『敵対モード』どっぷり。
「何でアンタに命令されなきゃ、ならねぇ? 俺と龍一の間に入ってくるんじゃねぇよ」
 日本国で言う所の『天然』傾向がある成歩堂には、とかく自称保護者が多い。天才検事と高い評価を得ている御剣は、その最たるもの。尤も、狼は御剣が単なる保護者の域を越えた感情を成歩堂に抱いていると判断していた。そういう『匂い』が、御剣からはプンプンする。
「貴様と成歩堂の間に、確固たる絆などない筈だが? ならば、私が割って入る事に何ら不合理は生じない」
 友情プラス友情では括れない想い故に、『論理的事由を欠いていても、この際超法規的措置で行く!』モードで、絆とやらが結ばれるのを阻止すべく立ち塞がる御剣。
「流石、天才検事さんは言うことが奮ってるねぇ。・・いい加減、決着をつけるとするか?」
 腕の一振りで成歩堂を背中へ回し、御剣の視線すらも届かない位置に追いやる。無論、これは以前のちょっとした意趣返しだ。
「いやいやいや、御剣も士龍さんも待った! 落ち着きましょう!? ね!?」
 狼と御剣が冷静すぎてツンドラ状態なのとは対照的に、1人焦っている成歩堂が慌てて後ろから狼の腕を両手で掴んだ。
 ―――ここで成歩堂を見てしまったのが、二度目の失策。
「多分、僕に用があるんですよね? 調査も終わりましたから、聞きますよ?」
 二人同時に宥める程のスキルは持っていないから、成歩堂ができるのは精々二人を引き離す事だけ。狼が関わっていないこの現場に現れた目的が成歩堂である事は、真っ先に成歩堂の元へやってきた事を考え合わせても明らかで。少しでも動かせそうな狼をチョイスしたのだろう。
 成歩堂にベタ惚れな狼が真正面から成歩堂に覗き込まれ、哀願と懐柔の視線を向けられては、とてもではないが逆らえようもない。何しろ、一番初めにヤられたのが成歩堂の真っ直ぐな眼差しだったのだから、インプリンティングとほぼ同意な効力を発揮する。
 不意討ち捕獲が常に背面からなのも、理由の一端は成歩堂と目を合わせると、狼の方が固まってしまうから。単純にして少々情けなくて、今は成歩堂に、そして御剣にも知られてはならない最高機密。
「チッ・・釈然としねぇが」
 故に、成歩堂から懇願されて渋々という偽装を施し。(視線を外す為)ぐいと成歩堂を引き寄せ、胸に顔を埋めさせた。それから、改めて御剣と対峙する。
「アンタとじゃ、優先順位なんて決まってらぁ。決着は次の機会に持ち越しって事で」
 け、と顎を刳って挑発し、ぎり、と御剣が眦を険しくしたのを満足そうに見遣ると、例のごとく花束でも抱えるようにふわりと丁寧に成歩堂を抱え上げた。
「いくぞ!」
「覇っ!師父!」
 そして一悶着の間中、直立不動で待機していた黒装束集団を引き連れ、去っていった。
 ・・・20mも行かない内に、成歩堂の抵抗にあって降ろさざるを得なかったが。