不安定な、バランス。
どちらかに傾いて均衡が崩れる事を、望むのと同じ強さで恐れている。
「糸鋸刑事、次の書類を渡したまえ」
「はいッス!」
検事局始まって以来の逸材と名高い御剣の処理速度は、半端ない。初めて目にした者は、必ずと言ってよい程驚くが。
今日の御剣は輪をかけて凄まじく、鬼気迫るものがあった。
ここまで御剣が集中している原因は、一人のんびりと革張りのソファに座るトンガリ頭の青い弁護士。成歩堂が、仕事が終わるのを待っているから御剣は必死になっているのだ。
久しぶりに夕食の約束を取り付けたとある日、御剣は予定時刻より一時間も前に本日の業務を終了させていた。成歩堂に待たされるのはしょっちゅうあるが、逆はあってはならない!との誓いにより。
終業5分前に成歩堂が到着し、『ああ、もうそんな時間か』なんて平然と優雅に顔を上げ、『時が経つのを忘れる程仕事に集中していました』ポーズを取ってみる。尤も、『まだ片付かないんなら、ゴドーさんの所で珈琲飲んでるけど』と素で爆弾発言をして下さる逆転弁護士には、全く通じなかったが。
今までの余裕をかなぐり捨ててガバッと立ち上がり、『今ちょうど終了した所だ。カフェインを摂取したいのなら、紅茶にしたまえ! それからカフェイン中毒検事には半径1m以内に近付ってはいけないと、この間忠告したばかりであろう!?』と私情が入りまくりの説教を食らわして、成歩堂の『何でそんなにムキになってるんだよ』的なキョトン顔にひっそりダメージを受けた。
しかしこの程度でヘタレていては、天然お惚け弁護士とは相対できない。速やかに気持ちを切り替えた御剣は、定刻通り退出できる旨を伝えて書類を纏めにかかった。
のだが。
業務終了時刻、まさに1分前。
「御剣検事〜ッッ! 大変ッス! 一大事ッス!」
御剣の忠実な部下であり、御剣を心底崇拝している糸鋸が大音声と共に駆け込んできたのである。『大変ッス』と『申し訳ないッス』を交互に挟んだ糸鋸の話を切り貼りして把握した内容は、今日までに御剣の承認をもらって提出しなければならない書類を、うっかり忘れて引き出しの中に入れっぱなしにしていた、であり。
執務室の外は綺麗な夕焼けが広がっていたのに、迫力満点の稲妻がピンポイントで落ちたのは言うまでもない。
ここで、成歩堂がいなかったなら。
些末にして時々重要な失態をおかす糸鋸の査定はこれ以上悪くなりようがないのだから、懲戒の意を込めて素気無く放置していただろう。
しかし、糸鋸が飛び込んできたのはギリギリとはいえ就業時間内であったし、糸鋸のションボリぶりに同情した成歩堂が御剣に思わせ振りな視線を送ってくるので。もっと艶っぽい意味のある『思わせ振り』な眼差しだったらどんなによかったかと歯噛みしつつ、冷たい男だと誤解されるのは避けたかった御剣は、柳眉を逆立てて糸鋸に書類を要求した。
「これで最後だな・・」
「ありがとうございまッス! 流石御剣検事ッス」
小一時間後、心なしか頬のラインが削げた御剣が、書類を差し出した。脳内の『これが終われば成歩堂と食事』エンドレスリピートで乗り切った事など知る由もない糸鋸は、些か独創性に欠ける賛辞を雨霰と、こちらもエンドレスで叫んでいる。
賛辞より感謝より、糸鋸に求めるのは即刻退場なので、御剣はやや口調をきつくして糸鋸を制した。
「これから各部署へ提出せねばならないのだろう?速やかに行動したまえ」
「は、了解ッス!」
泡を食って糸鋸が御剣の手にあった書類を受け取った、その刹那。
「っ!?」
御剣の眉間にもう一本皺が刻まれた。
「ああ、相済まねッス!血が出てるッス!今すぐ救急車を呼ぶッス!」
書類を勢いよく引っ張った際、紙の縁で御剣の人差し指に三p程の傷を負わせてしまった糸鋸は、もうパニック状態に陥っている。携帯電話をアタフタと取り出して『110番するッス!』などと言い出すものだから、指の痛みより頭痛の方が酷くなりそうな御剣だった。
「救急車より、救急箱がいいんじゃない? 御剣、どこにあるんだ?」
「本棚の右端にある引き出しだ」
「イトノコさん、すみませんが持ってきてくれます?」
「承知ッス!」
崖っぷち弁護士の本領を発揮して糸鋸を上手く操作した成歩堂が、御剣の手を覗き込む。
「あーあ。結構血が出てるね。コレで押さえときなよ」
深くはないが、血が筋になって流れているのを見てポケットから取り出したハンカチが渡される。ほんのり成歩堂の温もりで暖かいハンカチを穢してしまうのは勿体ないと躊躇う御剣の繊細(?)な男心など斟酌せず、穢れへ布を触れさせてしまうものだから。
「忝ない」
喜びと寂寞を噛み締めつつ、そしてハンカチより成歩堂の手を握りたいと切望しつつ、熱っぽく成歩堂の双眸を見上げた。
「持ってきたッス!手当てするッス!」
―――すぐに、無情に、糸鋸の大きな身体で御剣の熱視線は遮られたが。