アナタの為なら




 【2日目】

 朝から再び風呂へ入れようとする御剣を何とか躱し、またしても横抱きで事務所まで運ばれた成歩堂を待っていたのは―――
「・・お約束・・だな・・」
「馬堂さん?」
 抜きん出た長身痩躯にもかかわらず、廊下に落ちた影と同化しかけている馬堂刑事だった。
「どうしたんですか?」
 元々アポがあった例が思い付かない、神出鬼没な馬堂だが。朝から成歩堂を待ちかまえていたのは、初めて。すわ緊急事態かと表情を引き締めた。―――己の格好を無理矢理思考から追い出して。
「・・今日は非番・・ボウズの面倒はまかせろ・・」
 馬堂は暗がりからのっそりと近付いてくると、長い腕を伸ばし。
「うわっ!?」
「あっ、馬堂刑事! 何という不埒な真似を! 即刻、成歩堂を返したまえっ」
 成歩堂と違って反射神経の良い御剣でさえ反応できなかった程素早く、成歩堂を移動させた。柳眉を吊り上げた御剣が鬼気迫る勢いで抗議するも、馬堂の表情筋は年中無休で非番らしい。
 怯む所か軽く受け流し、微かに顎を杓る。
「早く帰ってこいと・・検事局からのお達しだ・・」
「ムムッ・・ク・・致し方あるまい。成歩堂、何かあったらすぐ連絡するのだぞ!」
「・・・ありがと、御剣。ホント、助かった」
 ギリギリと唇を噛み締めた御剣は憤懣やる方ない様子だったが、検事局へ行かなければならないのは事実なのか、最後まで諸注意を繰りつつ去っていった。
 心から感謝していても。つい、溜息が漏れてしまう。
「酷く・・痛むのか・・?」
「あ、いや、杖があれば歩けますので下ろして下さい。すみません」
 成歩堂の溜息を怪我が所以だと思ったのか馬堂が顔を覗き込んできたので、成歩堂は急いで頭を振る。今更ながら抱えられたままである事を自覚し、恐縮と羞恥に揉まれつつ頼んでみたものの、事務所のソファまで体勢は同じで。
「うう・・」
 何か、男として大切なモノを大きく削られた気分になり、深く項垂れた成歩堂だったが。今日はまだ始まったばかりで、実はこの先HPは0近くまで消耗する事を知らない。




 緩くカーブした腕に臀部を乗せ、相手の胸板辺りに寄り掛かる。よくお父さんが、小さい子供を抱っこする方法で。『小さい』子供なら微笑ましいけれど、かなりの身長差があるけれど、成人男性がされて喜ぶ訳もない。
 お姫様抱っこと違って上半身は起きているけれど、恥ずかしさが薄れる訳でもない。
「・・次は・・・」
「あの本棚へお願いします・・」
 普段と異なって近い位置から聞こえる低い声に背筋をぞわぞわさせながら、遠慮がちに申し出る。心を無にして検証に集中しろと己に言い聞かせていても、こんなシチュエーションで平然とするには修行が足りない成歩堂。
 今日は、とある事件の現場検証がスケジュールに入っていた。現場検証とこれば、大抵歩き回る。幸い場所が一軒家だったので、時間はかかってしまうかもしれないが松葉杖をつきながらでも遂行しようと考えていた。
 確かに。モタモタ慣れない杖を操るより、馬堂に運ばれた方が早く、楽で、助かる。
 ただ、鑑識や他の刑事の生温い視線が居たたまれない。
「馬堂刑事、交代するッスよ! ヤッパリくんは俺に任せて、休んで下さいッス」
 ワンワンワン!
 そして、糸鋸刑事の申し出が更に居たたまれない。善意である事が伝わってくるだけに、『成歩堂です』とのツッコミも呑み込む位。糸鋸の後をチョコチョコ着いてきた警察犬候補ミサイルの円らな瞳からは、そっと眼を逸らす。
 どうやらミサイルには成歩堂が遊んでいるとしか見えないらしく、いつもより興奮して小さい尻尾を振ってお強請りしてくるのだ。成歩堂がツッコミの鬼でも、チワワ相手に『異議あり! これでも仕事中ですからぁっ』なんて叫んだって虚しいだけ。
「気にするな・・ボウズは俺が抱く・・」
「俺だって立派に、だ、だだだだ抱いてみせるッス!」
「いやいや、何か聞こえが悪いから止めて下さいって!」  集中集中、と念仏のように唱えつつ証拠になりそうな本を調べていた成歩堂が、我慢しきれず頭上で交わされる奇妙な会話へツッコむ。周囲の眼差しがますます生温くなっているのは、気の所為だと思いたい。
 矢張がいないから事件には発展しないものの、充分現場は混乱している。そこへ、更なる騒ぎが舞い込んできた。
「バンビーナ! 俺が一生面倒見てやるから安心しろ!」
 ポンチョの裾をワイルドに翻して登場した恭介は、格好良く成歩堂に笑いかける。
「罪門刑事!? 今日は張り込みじゃなかったッスか?」
「さっさと乗り込んで逮捕してきた。って事で、バンビーナを寄越せ」
「・・二人共・・必要なし・・」
「集中集中集中空耳空耳空耳」
 カオスに陥った現場で。成歩堂が優位に働きそうな証拠を見出せたのは、奇跡に近かった。