実験シリーズ

1:多分、熱視線




「!?」
 何が起こるのかと目を開けたままだった成歩堂は、視界を埋め尽した朱い光にばかり意識を奪われ、事態を把握するまでに数秒かかった。
 数秒のタイムラグは、致命的で。 
「んんっ!?」
 成歩堂がまず最初に感じたのは、熱さと苦さ。
 『苦味』の方は、時々挑戦してみるゴドーブレンドだと辛うじて判別できた。
 が、もう一方の『熱さ』には馴染みがなくて、必死に思考をフル回転させる。
 成歩堂がちょっとしたパニックに陥っている間も、『それ』は熱さと苦味を成歩堂の口腔内にくまなく刻んでいき。
 最後にチュッ、と場違いな可愛らしい音をたてて、侵入した時と同様、唐突に退却した。
「クッ…やっぱり闇のアロマは、純粋な方がいいな」
「・・・・・」
 指輪の嵌った親指が、ゴドーの肉厚な下唇を左から右へとなぞる。
 その動作をぼんやり眺めていた成歩堂は。
 やっとの事で、ゴドーが何をしたのか理解した。
 ゴドーはよりによって、ブラックを飲んだ舌とミルク珈琲を飲んだ舌を直接絡めて、どんな味になるかを試したのだ。
「な、何て方法を取るんですか!? 普通に混ぜて飲めばいいでしょうに!」
 真っ赤になって詰め寄ったが、ここでもゴドーの反応は『微妙』なものだった。
 謝るでもなく、言い訳するでもなく、成歩堂を少しの間(多分)凝視していたかと思うと――横を向いて、大きな溜息をついたのだ。
「……アンタの突っ込み所は、ソコなのかい」
 呟きは囁きに近くて成歩堂にはよく聞き取れなかったが、気にも止めなかった。
「ゴドーさんのに混ぜるのが嫌なら、僕のに入れれば済む話でしょう!?」
 尚も言い募れば、俯き加減だったゴドーが、ゆらりと顔を戻した。
 ピタリと、成歩堂が口を噤む。
 何度目かの違和感を、ゴドーの顔に見出して。
 瞬きの間に消えてしまったその表情は、おそらく『苦笑』に近いもの。
 この場面で何故ゴドーが苦笑するのか思いつかなかった成歩堂は、その点を追求したかったのだが。
「両方を奢った方がよかったのかィ?」
 まるで先程の表情が見間違いのように、すっかり普段通りの人の悪い笑みを貼り付けたゴドーに物騒な事を持ち出され、その小さな齟齬は吹き飛んでしまった。
「いやいやいや、謹んでご辞退します!」
 ばっと自分のカップを掴んで死守する。ブラックだけでも被害は大きいのに、ダブルで奢られたら悲惨な事になるのは明白だ。
 大体、成歩堂に両方をかけたとしても、味は分からないだろう。…嘗めない限り。
「クッ…慎み深いコネコちゃん、嫌いじゃないぜ」
「だから、コネコじゃありませんって!」
 カップを懐に引き付けたまま、上向いて噛み付けば。
 まさにコネコが威嚇してるみたいだな、とゴドーが哄笑する。
 そこから先は。
 お決まりの不毛で、エンドレスで、でもちょっぴり楽しい掛け合いが続いたので。





「アロマは純粋な方がいいが。あのブレンドも、なかなか魅惑的だったぜ。…御馳走さん」
 事務所を去る時にゴドーが残した言葉の意味が分からなくて、成歩堂はしばらく考え込み。
 記憶を一つ一つ辿り。
 そして、やっと。
 あの実験の際、ゴドーに口付けられたという事実に思い至ったのである。



「い、異議あり!」
 事務所中に、法廷並の本格的な声が響き渡ったが。
 勿論、首筋まで朱に染まった成歩堂以外に聞く者は居らず、突っ込みは無情にも不発に終わってしまった。