実験シリーズ

2:皮膚の下のマグマ




「ゴドーさん、この場合は617号の判例が適用できますよね?」
「ああ、1883号でもいけるがな」
「え?どんな事件です?ちょっと見せて下さい」
 成歩堂は身を乗り出して、ゴドーの手元にある書類を覗き込んだ。珈琲と、ゴドーが好んでつけているフレグランスが成歩堂の鼻先を掠める。
 もうすっかり、馴染みになった香りだ。
 だから、特別意識したりはしない。
 例え、ゴドーの膝の上に上半身を乗り出すような体勢になっていても、おかしな事だとは思わない。



 実験:【珈琲とミルク入り珈琲の混合濃度を計る】:
 奇妙な実験内容とその方法に、大層動揺した成歩堂だったが。
 翌日事務所に現れたゴドーは、全く変わりなくて。
『コネコちゃん、お邪魔するぜ』
『また、それですか! だから、コネコではありませんって!!』
『今日もコネコちゃんは元気だな。トンガリ方がイイ具合だぜ』
『いやいやいや、僕の髪をバロメーターにしないで下さい』
 入室する際の『儀式』も、いつも通り。その掛け合いで、構えていた成歩堂の緊張はどこかに吹き飛んでしまった。
 そして、ゴドーに昨日の行為の意味を尋ねるタイミングも失ってしまった。
 『何でキスしたんですか?』なんて、タイミングを逃しては改まって聞ける事柄ではない。
 どうしようかと困りながらも、ゴドーに振り回される内にいつしかその件は頭の片隅に追いやられ。
 充実はしているが、確実に仕事以外の疲労も積もった一日が終わった頃には。
 あれは、ゴドー流のジョークだったのだろうと成歩堂は結論を出し――以後忘れた訳ではないものの、とりたてて思い出す事もなくなったのである。



「まるほどう」
「はい?」
 集中して書類を読んでいた成歩堂は、それでもゴドーの呼び掛けに応えて仰向いた。
 思いの外近い所にゴドーのマスクがあって、随分と距離が狭まっている事に今更ながら気付く。
 驚きより先に成歩堂を襲ったのは、dejavu。
 その dejavu の出所を、コンマ一秒の遅れで弾き出した後はどう反応していいか決めかねて、逆に固まった。
 飛び退くのもゴドーに失礼だし、かといってあの『実験』が蘇った後では、こんな近距離で平然と対峙できる程、成歩堂は場数を踏んでいない。
 ピキンと動かなくなった成歩堂を、どう思ったのか。
 ゴドーはからかいの含まれていない、あの妙な雰囲気を彷彿とさせる口調で途切れた会話を続けた。
「確かめたい事が、あってな」
「またですか…?」
 成歩堂の特徴的な眉尻が上がるのも、当然だろう。奇妙な実験の、本来の目的も結果も未だ分からないのに、またやらかそうというのか。
「アロマを3倍呷っても効果がないんで、はっきりさせたくてなァ…」
「3倍って…! 呑みすぎですっ。もう今日は、珈琲禁止にしますから!」
「冷たいコネコちゃん、嫌いじゃないぜ」
「そうやって、誤魔化そうとしてもダメです。それが最後の一杯ですからね? せいぜい味わって呑んで下さい」
「クッ…オレから魅惑のアロマを取り上げるって事は、まるほどうが実験に付き合ってくれるのかい?」
「はい? え、えーと……」
 今回もゴドーの都合の良いように誘導されつつある。その事に気付いて冷や汗を流した成歩堂だが、せめてもの抵抗を試みた。
「実験の、検証方法を先に提示して下さい。内容如何によっては、お断りします」
 また混合系の話だったら、先手を打ってゴドーに最後の一杯を奢ってやる、と心の中では何故か強気に構えながら。
 ゴドーは、警戒心を露わにしつつも決して門前払いしない成歩堂に小さく笑い、ピッと右手の指を三本立てた。