ゴドーの心は、どれだけの血を流したのだろう。赤は見えないのだから、血を拭う事も傷口を塞ぐ事もできないまま。
「う〜ん・・」
些かセンチメンタルな思考に嵌ってしまった成歩堂は、ボールペンでトンガリをポリ、と掻いた。後もう少しでゴドーがやってくる時間だ、と気付いてからどうにもゴドーの事ばかり考えてしまう。
多分、緊張しているのだろう。
元々、ゴドーへの恨みなどはないが。
なにしろ一方的でも敵対状態にあったものだから―――ゴドー自身の裁判だって、最大の敵(難関)はゴドーで―――ゴドーがパラリーガルとして成歩堂を補佐するという友好関係に慣れていないのが一つ。
成歩堂より余程知識も経験も豊富なゴドーを雇用するという、奇妙な逆転に戸惑うのが一つ。
そしてゴドーが、成歩堂の師匠である千尋の先輩にあたるという、成歩堂にとっては非常に据わりの悪い相関図が一つ。
成歩堂こそが、千尋の後継者としての実力不足を痛感しているのだ。図太いと言われる成歩堂でも、師匠の師匠を前にしてプレッシャーを感じない程鈍くはない。
ゴドーを、延いては千尋を落胆させてしまう失態を仕出かしたらどうしようと、昨夜は碌に眠れなかった。これまでのゴドーの言動を鑑みるに、千尋や千尋の事務所への執着は生半可ではない。
先日、『成歩堂法律事務所』に初めてゴドーが来訪した際も、有罪はほぼ確定していて後は量刑がどれだけ加算されるか、みたいな心境だったのだ。思いもがけず誉め言葉らしきものを頂戴したけれど、そんな僥倖が続くとは思えない。
替えのスーツを二着プラスした辺りが、成歩堂の自信のなさを現している。
「はぁ・・」
三着で足りるかな、とますます弱気になった成歩堂は肘をついて両手の中に顔を埋め。手の平へ重い溜息を吐き出した。
「―――コネコちゃんは、深遠なる思考の海で溺れてるのかィ?」
「ぅうわぁぁっっ!?」
突然、全く気配もなく耳元で響いた美声と言っても良いバリトンに、およそ美しいとは評せない悲鳴を発して成歩堂は飛び上がった。
座っていた椅子から勢いよく立ち上がったものだから、キャスター付きの椅子は結構なスピードで床を滑り、背後の壁にぶつかり、何て乱暴な扱いをするんだと憤っているかのように跳ね返って成歩堂の膝裏を直撃した。
「ぅぎゃっ!」
大して痛くはなかったものの、衝撃に驚いてまたしても叫んでしまう。
「な、なな何だ!? あ、ああ、椅子か・・」
ガバッと振り向き、ゴドーとは別に脈拍を二十は跳ね上げた正体を知って安堵に眉尻を下げる。が、次は肩までガックリと下がる事と相成った。
クツクツ、などとニヒルなものではない。大爆笑、という形容こそが相応しい。スラックスのポケットに指を突っ込んだまま、綺麗に髭が刈り揃えられた顎を仰け反らせてゴドーが呵々と嗤っていた。
己の間抜けっぷりを笑われ、いつもの成歩堂なら真っ赤になりつつも、そんなに笑わなくともいいのにとジト目になっていただろう。
が、首筋まで真っ赤にはなったけれど、成歩堂はついまじまじとゴドーを凝視してしまった。笑われた恥ずかしさより、物珍しさが先に立って。
『クッ』だの『ニヤリ』だの、喉の奥で低く笑うのがデフォルトで。屈託なく大笑いする所など、初めてお目にかかった。
「・・・おっと、失礼」
成歩堂の視線に気付いたゴドーは、スッとスラックスから手を抜いて口元へあてた。指輪の嵌った指の下で、開いていた唇が閉じ、緩く吊り上がる。
無礼を働いたと露程も思っていない、揶揄を含んだ口調の方はほぼ普段通りだが、やはり抑えきれない笑いが滲んでいた。
「アンタ、本当に飽きないリアクションをするなぁ。今度、猫じゃらしを持ってくるか」
「いやいやいや、何で猫じゃらし? っていうか、ウケ狙いじゃないですから!」
ようやく成歩堂が調子を取り戻し、本日初めての異議を投げつけた。
「その前に、急に声をかけるのは止めて下さいよ。ビックリするじゃないですか」
「クッ・・俺はちゃんと入り口で、入室の許可を求めたぜ? 声も届かない程の濃いアロマを周囲に立ち籠めさせていたのは、アンタの方さ」
「・・・・・」
人の気配に気付かない位物思いに耽っている事を、物思いの原因に指摘されるのは大層恥ずかしく、成歩堂は首から下も朱で染まった。
顔から火を噴きそうとはこういう状態を指すのか、と頭の片隅で納得したが、暢気に納得している場合ではない。
「す、すみません。ちょっとぼんやりしてました。じゃ、始めましょうか?」
急いで昨日の内に用意しておいた書類を取ろうとした手を、ゴドーの腕が無駄のない動きで止めた。仕立ての良さそうな深い緑の袖口には、これまた高級そうなカフスボタンが飾られていて。
成歩堂は、隅々まで拘っていてしかもセンスが抜群なんだな・・と懲りず暢気な感想を抱く。
「ちょいと待ちな、まるほどう。できる男は、仕事をどうスタートさせるかで決まるのさ」
「・・・はぁ」
反応が遅れたのは考え事をしていた所為だけではなく、『どんだけ拘りがあるんですか?』と突っ込みたくなったのもあった。
そこで、所長室の扉前に置かれている大きな紙袋がようやく視界に入る。
「ああ、珈琲ですね。左から三番目の棚を空けておきましたから、そこに置いて下さい」
「話の分かる所長さん、嫌いじゃないぜ!」
何だかウキウキと紙袋を持って給湯室へ向かうその後ろ姿も、確かに格好良かったが。
「素直に『珈琲飲みたい』って言わないのも拘りなのかなぁ・・」
不思議な俺ルールが多すぎる、と成歩堂は首を傾げずにはいられなかった。
パラリーガルとして雇用する際にゴドーが提示した条件ときたら、ゴドーが選んだ器具と豆で珈琲を飲ませる事、のたった一つで。
お陰で成歩堂はあちこち調べまくって一から契約書を作る羽目になった。それもゴドーの指導の一環だとは察しがついたから、文句も言わずやり遂げたが、その代わり『好きなだけ』との付帯項目は却下した。
次にゴドーは器具などを置くスペースを事細かに要求してきたので、どっちが雇用主だとぼやきつつ、やはり昨日片付けをして寸法通りの空間を作っておいた。
たっぷり一週間分は体を動かしたのに、まともな睡眠を取っていないものだから。珈琲が到着しない事には仕事に着手できない成歩堂は、ソファに手持ち無沙汰に座っている間に、給湯室から漂ってきた香ばしい匂いに誘われるようにうつらうつらし始めた。
時折入れるインスタント珈琲とは、芳香の質も濃度も違う。どこかで嗅いだ気がすると考え、ゴドーが近くにいる時の香りに似通っていると思い至った成歩堂が、ぱちりと目を見開いたのと。
ゴドーがテーブルにコトリとマグを置いたのは、ほぼ同時だった。
「す、すみません!」
居眠りをばっちり目撃され、成歩堂は弾かれたように姿勢を正した。今日は謝ってばかり、醜態を晒してばかりだと恥入りながら。
ゴドーは咎めたりせず、ニヤリと男臭い笑みを浮かべてマグを指さした。
「魅惑的なアロマには、リラックス効果もあるからなぁ。アンタが口にすべきなのは、謝罪じゃねぇぜ!」
言い回しは不明でも、早く呑めと急かされているのは明瞭だったので、ここで猫舌なんですなんて告げようものなら、コネコ呼ばわりが加速するのは分かりきっている。
だから礼だけ述べてマグを取り上げた。褐色の液面が近付くにつれ、いかにも美味しそう、としか表現できない香りが強くなってくる。
「っ!」
注意したつもりだったが、流れ込んできた珈琲はピリ、と成歩堂の舌を焼いた。喚かずに済んだのは、偏に意識が痛みから逸れていたから。
熱くて、苦くて、濃くて、成歩堂が苦手なブラックだったけれど。
その珈琲は確かに、美味しかった。これまでの珈琲に対する印象を一掃する程に。
奢られた事は何十回もあるゴドーブレンドだが、こんなに美味しいのなら、何て勿体ない事をしたのかと憤りたくなる。―――その後、無為に無駄にさせたのは己が起因かと思い至って少し落ち込んだ成歩堂は。慎重にもう一口含み、
「とても、おいしいです」
シンプルに、一番伝えたい事のみを言の葉に乗せた。
聡いゴドーといえど、味蕾ではなく成歩堂の心が感じた『苦さ』までは読み取れなかった筈だが。
(おそらくは)繁々と成歩堂を観察し、感想が不十分だったのかと不安になり始めた頃に、お定まりの人を喰ったような嗤いを浮かべた。
「ちっちゃい舌を火傷しただけの事はあったかィ?」
「な、何で、そんな事まで分かるんですか!?」
少なくとも猫舌なのを知られてしまった事に狼狽えると、
「・・からかっただけなんだが。ホントにコネコだったとは、な」
シニカルな嗤いは、たちまち哄笑へと変わっていった。本日二度目の爆笑に、最早紅潮する元気もでない。
しかし今日初めて知った、屈託なく笑うゴドーは。珈琲同様、出会えて良かったと素直に思えるもので。ゴドー本来の姿がこれからも自然に現れるようにするのが、成歩堂の仕事であり―――唯一許される贖罪なのかもしれない。
憎しみや、悔恨や、軋轢を脱ぎ去ったゴドーの魂は、きっと珈琲以上に『魅惑的』に違いない。何しろ、成歩堂の師匠である千尋が認めた男なのだから。
烏滸がましくとも。
取り戻す手伝いが出来たら、いい。
ゴドーが穏やかで幸せだと感じる日々が送れると、いい。
そう、誓いのように考えた成歩堂は小さな痛みを堪え、三度闇色のアロマを味わった。