誤魔化すための笑みは泣いているようで




 奇妙な関係性の果て。
 ゴドーはかつて誰よりも大切に思っていた女の事務所に、数年の、しかし永遠にも感じられた長い時を経て、立っていた。
 前回この事務所を訪れた時、出迎えてくれたのは千尋で、二度と会えない事を予兆するような出来事は何一つなかった。
 明日も、今日と同じ輝かしい日がやってくると信じて疑わなかった。
「・・クッ・・・」
 それが、現実はどうだ。
 美しい所長は霊媒を通してでしか会えなくなり、看板の名前が掛け替わり、神乃木荘龍はゴドーになった。運命の女神の気紛れにしては、オイタが過ぎると思わずにはいられないが。それでも、神とやらにも慈悲はあるのかもしれない。
 前所長とは似ても似つかぬ輩が主となった事務所は、幾つかの細部を除いて『神乃木』の記憶と齟齬を生じなかった。随分大きくなったが、千尋が大切にしていた観葉植物もある。
「なぁ、まるほどうさんよぉ・・」
 所長室の入り口に佇んで部屋の内部を俯瞰していたゴドーは、そのままの姿勢で背後にいる成歩堂へ話し掛けた。
「は、はいっ」
 すぐさま、酷く緊張した声が返ってくる。成歩堂が落ち着かない様子で、所長室を一歩出た所に立ち尽くしていたのは気配で感じていた。一人きりにしようという成歩堂の心遣いをゴドーが断って、そこにいろとまで命じたものだから、居心地の悪い思いをたっぷり味わっているのだろう。
 嫌味を言われるか、説教を食らうか。被害は成歩堂のスーツまで、という不可思議な珈琲を奢られるか、戦々恐々としている筈だ。
 今まで散々それらを成歩堂へ仕掛けてきたのだから、成歩堂がビクつくのも無理はない。しかもこのコネコの癖にヒヨッコマークの付いた青い弁護士は、ゴドーの行動を当然のものとして是認している節が見受けられる。
 千尋を救えなかったが故に。
 突然アポもなしにゴドーが訪れ、所長室を見せろと要求しても素直に案内し。短すぎる生涯を閉じたまさにこの場所で、ゴドーの恨み辛みをぶつけられても、きっと甘んじて受け入れるに違いない。
『千尋・・・アンタの弟子にしちゃあ、甘ちゃんだな。いや、甘ちゃんだからアンタは弟子にしたのか』
 最後に窓の下をもう一度眺め、ゴドーは徐に振り返った。
「!!」
 面白い位、成歩堂が反応する。ドングリ眼を目一杯見開き、ツンツン頭をヤマアラシみたいにピンと尖らせて。
 ダメージを与えられる前に逃げろ、と本能が発する指示に身体が従おうとしているのを、辛うじて意志の力で留めている、といった様相だ。
 成歩堂に警戒されるような事をしてきた自覚のあるゴドーは、内心で苦笑する。そしてやはり内心で、ビクついていても真っ直ぐゴドーを見上げてくる瞳の強さに感心する。
 ―――師事した期間は僅かだというのに、このビリジアンなコネコは、一番重要なものをしっかり千尋から受け継いでいる。
「魅惑のアロマを途切れさせないなんて、コネコちゃんも粋な真似をするじゃねぇか」
「・・・は?」
 どんな罵詈雑言が出てくるのかと身構えていた成歩堂が、ポッカリと口を開いた。予想していたのと違っていた事もあるが、それ以前に意味不明で。
 開いた唇に珈琲か指でも突っ込んだら、嘸かし楽しいリアクションをするのだろうと思いつつ、流石に今はまずいと押し留め、ゴドーはスラックスのポケットにムズムズする指を差し入れた。
「チヒロもアンタがココを引き継いでくれて、喜んでいるに違いねぇ。俺も―――嬉しいぜ。ありがとよ」
「!?」
 今度は、ゴドーの意図する所が伝わったようだった。
 先程以上に瞠目した成歩堂は。初めて目を反らし、俯いた。ゴドーは青いスーツの肩先や、角度をかえたトンガリが小さく震えているのを見て。弁護士に成り立てで右も左も分からない内にたった一人残された成歩堂の苦労を想起した。
 何もかも放り出したとしても責められない状態で、ワタワタしながらも逃げなかった事を資料が物語っている。
 友の為。師匠の為。残された幼い少女達の為。そして、助ける必要のないゴドーの為。
 無罪を勝ち取って依頼人からは感謝されても、『よくやった』と認め、成長を誉めてくれる者はもういない。だからこそ、千尋の先輩であったゴドーからの言葉は、たとえ素っ気なくとも特別な感慨を与えたとは想像に難くない。
 今更、これまでの事を謝るなんて出来ないし、何となく成歩堂が受け取らないような気がしたから。
 これが、ゴドーのケジメだった。大切だった存在を含めて、過去とのある種の決別。
 忘れる訳でも捨て去る訳でも、封印する訳でもない。
 大切な想いは胸の奥に抱えたまま、未来に進むのだ。
 ピンと伸ばした指で、そういう道もあるとゴドーに教えた、どこまでも青くてどこまでも真っ直ぐな弁護士はようやく顔を上げた。
「ゴドーさんにそう言ってもらえて、こっちこそ嬉しいです。・・・ありがとうございます」
 黒々とした瞳は、乾いていたけれど。精一杯努力して浮かべた事が一目瞭然の笑みは、泣き顔に近くて。
「クッ・・殊勝なコネコちゃん、嫌いじゃねぇぜ」
 余程、『男が泣いていいのはすべてを終えた時だけだぜ』と熱いのを奢ってやろうかと思ったが。
 泣きそう、であって実際に泣いていた訳ではなかったので、今回だけは特別に見逃してやる事にした。