熟知しているアロマとて、条件次第では異なる姿を現す。
味わい尽くしたと思う豆でも、配合によっては未知の味覚を醸し出すかのごとく。
最もよく把握していた筈の自分自身が、思わぬ一面を覗かせた。
知己程度の人間が、突然狭い同一空間に長時間隔離される状況から発生する、軋轢や気まずさがなかった訳ではないが。ゴドーは常より各段に早いペースで新しい事務所と―――成歩堂に馴染んだ。
それは、成歩堂の開けっ広げな態度に起因する所が大きい。
コネコならぬコイヌみたいなドングリ眼で、ゴドーのスキルを少しでも早く、一つでも多く吸収しようと、敬意をもって慕われれば悪い気はしないし。職業柄どうかと思われる位、喜怒哀楽や思考がダダ漏れな性格は、からかいのネタが尽きないし。
ゴドーが居心地よくいられるようにと、本人はこっそりやっているつもりで実はバレバレの気遣いが面映ゆく。日に日に、警戒で逆立っていた毛並みが落ち着き、ゴドーの撫でる手に気持ちよさそうに目を眇めるような慣れ方は妙な優越感すら齎した。
幾らもたたぬ内に、お気に入りのコネコというポジションに成歩堂を据えたゴドーだが。
それに異議を唱えたのも、他ならぬゴドー自身だったのである。
何が原因という訳ではないし、誰が悪い訳でもなく。
いつもはデスクか己の足下へ置いている鞄を、様々な要因でソファ横に置いたのも。所長机からゴドーが座っているソファへ歩いてきた成歩堂の視線が、足下ではなく持っていた書類に注がれていたのも。
単なる、偶然の重なり。
「ゴドーさん、この判例なんですけど―――うわっ!?」
「おっと」
鞄に蹴躓き、堅いテーブル目掛けてまっしぐらにダイブした成歩堂を、ゴドーは抜群の反射神経を発揮してすかさず立ち上がって抱き止めた。
ボス、とテーブルよりはマシだが、勢いよく突っ込んだらかなりの衝撃になるゴドーの堅い胸板へ、成歩堂の顔が打ち付けられる。
「イテッ!・・あ、ありがとうございます」
ほんの少し赤くなった鼻を押さえ、成歩堂が礼を言った。ゴドーの抱えた腕から、抜け出すより早く。
「・・・いや」
ゴドーは、かつてない位に至近距離となった成歩堂の顔を凝視し、短く一言だけ返した。その腕にすっぽりと成歩堂を収めたままで。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
何とも不可思議な沈黙が下りる。
ピリピリと皮膚を刺すような緊迫と。
掻き回せるのではないかと思う程に濃密な空気と。
どこか懐かしくて、暖かくて、ほんわりする温もり。
ドクリ、と耳の裏で鼓動が響いた。
「ご、ごめんなさいっ!」
先に動いたのは、成歩堂の方だった。殆ど飛び退る感じで後方へ退き、お約束の冷や汗をダラダラ流し、顔の陰影が濃くなっていたから真っ赤になっているに違いない。
焦っている成歩堂の顔を眺め、空っぽになった腕を見下ろし、そこでようやくゴドーも普段の調子を取り戻した。
「足下に注意がいかない程、仕事熱心な所長さん・・嫌いじゃねぇぜ!」
スッと身を屈めて鞄を通路から退けると、右手にマグを装着し、もう片方を成歩堂へ差し伸べる。
「コネコちゃんが迷子になったのは、どの辺りだィ?」
「いやいやいや、何度も言ってますが、コネコじゃありませんから!」
「クッ・・」
まだ赤らんだ顔のまま突っ込む成歩堂へ、ゴドーはニヤリと唇をつり上げた。
短くも的確な解説をした後、一言断ってゴドーは給湯室へと向かった。その後ろ姿は普段と変わりなかったが、サイフォンをコンロに置いて火をつけた時―――ゴドーの背は、ガツ、と壁に打ち付けられた。
「偶然、って訳ではなさそうだな・・」
天井を仰ぎ、ゴーグルの重さに耐えかねたようにそれを外す。途端、曖昧になる視界。定まらぬ視線を上へ投げたまま、白銀の髪を梳く。
成歩堂の前では辛うじて失態を晒さずに済んだが、ゴドーはかなり動揺していた。動揺しすぎていて、かえって変調が表に出なかったのかもしれない。
―――成歩堂が、腕の中に飛び込んできたあの時。
抱き止めた肢体に対して瞬間的に身の内を走ったモノが、ゴドーをして愕然とさせた。
劣情を、抱いたのだ。
ゴーグルに隠されていたから成歩堂に目撃されずに済んだものの、ゴーグルの下で、ゴドーは衝撃のあまり限界一杯まで瞠目していた。己の反応が、信じられなかった。
猿並と言われる10代の頃だって、ただ抱き締めただけで、楔に硬く芯が入るなんて経験はなかった。
確かにずっと御無沙汰ではあったが、よりによって『男』に、項を羽根で撫でられるようなざわつきを覚える理由にはならない筈。
しかし、骨格はしっかりしていても柔らかいという印象が先に立った身体や。
初めて間近で見た、生え際とのコントラストが鮮やかな項や。
ゴドーと違ってフレグランスの類はつけていない肌から立ち上る、どこか甘やかな匂いや。
鼻をぶつけた痛みで少し潤んだ黒瞳が。
ゴドーの『雄』を酷く煽った。
「オイオイ、俺に、どんなアロマを味合わせようってんだィ・・?」
成歩堂の事は、認めていた。いずれは千尋やゴドーをも凌ぐ名実兼ね備えた弁護士になると見込んでいたし、その手助けに尽力は惜しまないつもりだった。
扱き甲斐のある、コネコ。それ以上でもそれ以下でもないと、今の今までゴドーは信じ込んでいたのだが。
とんだ誤算が生じた。単なる生理的な現象で片付けたくても、先程の記憶をなぞっただけで下腹部に馴染みのある疼きが又ぞろ込み上げるのだから、否定の仕様がない。
ゴドーは、成歩堂に、特別な感情を持ってしまった。
ドク、ドク、ドクと頭、耳元、胸で鳴り響く音が煩かった。けれど、己の心臓に文句を言う訳にもいかない。
ならば、せめて顔の火照りを静めるべく書類で扇いだり、硝子製のペーパーウェイトを首筋にあてたりしたが、こちらも収まる気配はなかった。
ちら、と給湯室の方へ目を遣り。
珈琲の芳しい香りが漂ってこない事から、まだしばらくはゴドーが戻ってこないと判断し―――はぁ・・・と魂が抜けそうに大きくて深い溜息をついた。
おかしい。
絶対に、おかしい。
ただ、転びそうになったのを、受け止めてもらっただけだ。
確かに体勢はハグの形だったかもしれないが、あくまで偶発的な産物で。
別段、あの妙にフェロモンたっぷりな唇に口付けられた訳ではないのに。
『いやいやいや、何を考えてるんだ!?』
折角引きつつあった紅潮が、ぶり返す。ガシガシと髪の毛を掻き、そのまま頭を抱えた。
決して暇ではない筈だが、定期的に鍛えているらしい腕にすっぽりと包まれた瞬間。ふわりと浮かび上がった安堵を、どう解釈したらよいのか。
女の子でもあるまいし、その包容力にトキメくとは。
普段嗅ぎ慣れているゴドーのフレグランスが、鼻先を濃く漂った時、くらりと酩酊した理由といい、己の乙女な反応を分析するのが怖ろしい。
けれど、多分、もう何もなかった振りはできない。
『あああ、異議ありって叫びたいよ・・』
待った、でもいい。
込み上げてきた気持ちを、止められるならば。
ゴドーに向ける視線を、つい数分前までの『頼りになる先輩』に戻せるのならば。
いつ、男として尊敬するという以外の感情がプラスされたのか、自分の事ながら記憶を辿れないが、いつしか体内へ深く根を下ろしていたようだ。
『・・不毛すぎる』
自覚してしまった成歩堂の感想は、その一言に尽きた。想いに気付いたのと同時に、想いが成就しない事にも気付いたのだから。
美しく聡明でしかも時を止めた千尋とでは、同じスタートラインに立つのも不可能だ。
『トコトン、恋愛運がないなぁ・・』
日頃の行いを振り返ってみるが。悉く想いが実らない事に匹敵する悪行とは、果たしてどんなものなのか。
そう。
成歩堂がゴドーに抱いたのは、特別な想い。
一度意識してしまうと。
それまで何故普通に接する事ができたのかと首を傾げる程、些細な事が気になって仕方ない。
笑顔や声や話し方から始まって。擦れ違った時の匂いだとか、指先の爪の形まで見ないようにしていてもいつしか視界の中心に据えており、目が離せない。
ああ、この年になって。言い出す事も忘れる事もできない『恋』をするなんて。
しかも、恋した相手が振るっている。
男で。
もう居ないが故に、永遠に変わらない姿を保つ千尋を心に残していて。
危うい程に真っ直ぐで――――――沢山の傷を負っていて。
まんまコネコで――――――――――群れない肉食獣で。
人の目を、真っ直ぐに見て―――ゴーグルがなくても、容易に感情を読み取らせなくて。
強情で、諦めが悪くて――――――癖が強くて、一筋縄ではいかなくて。
けれど、どうしようもなく惹かれる、存在。
告げられる訳がない。
告げて、嫌われるという最悪の事態は避けたかった。
だから。
『想いを秘めたままずっと側で』
それ位は、許して欲しい。
この罪深き身でも。