聞けない:2
狩魔のエリート教育を受けて育った冥は、大抵の人間を『馬鹿』呼ばわりして憚らない。
成歩堂もその範疇に含まれ、遠慮もなく鞭まで喰らわしていたが、実は冥が成歩堂を認めている事を御剣は知っている。
その証拠に、今成歩堂の前に立っている冥の笑顔は『狩魔』で躾けられたのとは違い、年相応の、かつ警戒を解いたものだった。
綺麗にマニキュアを施された指が成歩堂の胸を突き、突かれた成歩堂が困ったように眉尻を下げる。
「お願いだから、御剣には内緒にしてくれって」
「あら、私は是非言いたいんだけど?」
カツン、と高いヒールを鳴らし、いかにも楽しそうに成歩堂を弄んでいる。
心情を表すように軽快に舞った鞭をすんでの所で避け、成歩堂はだらだらと汗を流しつつ、冥の攻撃を躱そうと必死になっていた。
「か、勘弁して下さい…。あ、そうだ!これなんだけど――」
何事か思い出したのか、慌てた様子で鞄を掻き回して一つの紙袋を取り出す。
「真宵ちゃんから、気に入ってるって聞いたから」
紙袋にプリントされたロゴを見るなり、冥の表情がますます和らいだ。
「あら、フェスタ・ロッソじゃないの。馬鹿も馬鹿なりに、偶には洒落た事をするのね」
そのブランドには、御剣も記憶があった。最近人気で、限定数が少ないから入手困難だと冥とのティータイムで話題に上ったスイーツだ。
「だからと言って、今夜の約束とは別よ?分かっているでしょうね?」
冥らしくなくイソイソとショルダーバッグに仕舞い、ついでに鞭も一動作で巻き取って定位置に収める。冥と成歩堂はコートを着ており、これからどこかへ出掛ける様子が見て取れた。
「ちゃんと、連れてくって。………それより、さっきの話。ホントに秘密にしておいてくれよ?」
成歩堂は全面降伏の証に苦笑しながら両手を挙げ、しかし最後に一言付け加えた。酷く真剣な口調で。
ちらりとそんな成歩堂を見上げた冥が、一歩、成歩堂の方へ身を寄せて囁きかける。
「――……なのね?」
前半部分は、よく聞き取れなかったが。
御剣には、その言葉を聞いて浮かべた成歩堂の表情だけで、充分だった。
「うん、まぁ…」
含羞むように、目の際をほんのり染め。
照れて視線を泳がせながらも、口元に描かれた笑みはどこまでも柔らかくて。
――それが、限界。
文字通りその場から逃げ出した御剣は、その後の行動がすっぱりと欠落してしまった。ふと我に返った時には、自宅のソファに呆然と座り込んでいた。
「フ……」
実際に御剣の唇から零れたのは、吐息に近いものだったが。
御剣は己の間抜け振りに、いっそ哄笑したかった。
そう、成歩堂と冥の逢瀬を目撃するまで、御剣は愚かにも自惚れていた。
――成歩堂が、御剣に好意を寄せてくれている、などと。
再会して、反目し合って、二人で様々な事件を乗り越えていく過程の一体どこで、そんな気持ちを抱いたのか、やはり定かではないけれど。
いつの間にか、『想い』が御剣の内に芽生えていた。
成歩堂を、親友以上の存在として見ている自分を知った。
そして、もしかしたら成歩堂も同じ気持ちを抱いているのでは、と思う事があった。
何故なら、ふと身体のどこかが触れた時に、成歩堂がさっと朱を上らせ、しかしそれを悟られないようにする所とか。
御剣に向けられる、ちょっとした言葉とか、笑顔とか。
その端麗な容姿故に女性から秋波を送られる事の多い御剣は、性質こそ違え、根底では彼女達と同一の色を湛えた眼差しを、見分けてしまった。
嬉しかった。
歓喜に、心が震えた。
禁忌の想いだと、報われぬ恋だと、己を律しようとしていただけに。
それでも、成歩堂を想う余り都合の良いように受け取っているのではないかと、それまで以上に注意深く成歩堂の動向を観察したり。
やはり、公には認められない関係に成歩堂を引きずり込んでいいのかと躊躇いを捨てきれなくて、それから数ヶ月間、行動を起こせなかった。
だから、なのだろうか。
御剣の思い込みではなく、成歩堂も御剣を想ってくれていたとしても、御剣が勇気をもって一歩を踏み出さなかったから。
先に成歩堂が見切りをつけ、異性へ――冥へ気持ちを移してしまったのだろうか。
あの、冥へ向けた、成歩堂の笑顔。
あれは、つい数瞬前まで御剣だけに与えられていたものに他ならなかった。
決して見間違える事のない、御剣が何より心惹かれた微笑みが――今は、冥に。
もし男同士という事が障害になり、成歩堂が気持ちを抑えようとしているのならば、全身全霊で成歩堂と御剣の『想い』を守る覚悟は固まりつつあったけれど。
極自然に成歩堂が異性に惹かれ、冥との将来を考えているのならば。
御剣の胸は、ずたずたに引き裂かれるだろうが。
絶対に祝福などできないが。
想いを、御剣しか知らぬ深淵へ封印してしまおう。
おそらく一生思い切る事などできない位に、御剣は成歩堂に囚われていても。
成歩堂の幸せと引き替えだとしたら、御剣の苦慮など、些細な問題に過ぎない。