聞けない:1




「あれ?御剣?」
 どんな喧噪の中でも決して聞き間違えない声に、御剣は速度を上げた鼓動を自覚しつつ、わざと何気ない素振りで振り返った。
「ム……成歩堂。そんな間抜け面をして、どうしたのだ?」
 御剣が発した言葉は刺々しいものだったが、眉間の皺とは裏腹に、切れ長の涼しい双眸は優しさを湛えており。
 また成歩堂の方も御剣の物言いに慣れているのか、目くじらをたてる様子はなかった。
「いやいや、今日は出張だって言ってただろ?会うとは思わなかったから、ちょっとビックリしたんだよ」
 小走りに駆け寄った成歩堂はくるんと瞳をひらめかせ、真っ直ぐ御剣のそれを覗き込んだ。
 ――オニキスの輝きを持つ漆黒の鏡に映し出される事が喜びになったのは、いつからだろう…?
 ――記憶力に優れている御剣ではあったが、どうしても思い出せない。
「相手方の都合で中止になってな。…全く困ったものだ」
 肩を竦め、首を振るお決まりのポーズに、成歩堂が笑いを堪えつつ御剣の胸をポンと叩いた。
 ――そう、こんなたわいもない接触に脈が跳ね上がるようになったのと、同時期だという事だけは覚えている。
「お忙しい御剣検事の時間を無駄にしたんだから、損害賠償請求したらどうだ?」
「結果が分かりきっている訴訟などに、興味はない。それこそ時間の無駄だ。それより――」
 尊大に断言し、ちらと腕時計を見遣った御剣は、ほんの少しだけ――成歩堂には悟らせない程度に躊躇してから続けた。
「今日はこれで終わりにしようと思っているのだが…。そちらが直帰ならば、食事にでも行くか?」
 時刻は検事局の就業時間を1時間近く過ぎており、用事があって検事局を訪れたのだとしても、もう片付いただろうと踏んでの誘いだった。先日の電話でも、緊急の案件は抱えていないと言っていたし。
 が。
 大概ぱっと表情を綻ばせて同意する成歩堂が、今日に限ってすまなそうに、ばつが悪そうに眉根を寄せたのだ。
「ごめん――。これからちょっと、用事があるんだ。また今度でいいか?」
「…そうか。では、次の機会に」
「悪いな。また連絡する。御剣も、たまには早く休んだら?」
 口先だけの謝罪ではない事は、伝わってきたけれど。
 御剣は敏感に、成歩堂の違和を察知した。
 嘘をついているのではなく。
 何かを――隠している。
 成歩堂の『癖』なら大抵は知っていたから、分かってしまった。
「成歩堂も、暇を持て余しすぎて体調を崩すなよ」
「一言、余計!」
 成歩堂とは違い、受けた動揺を欠片も表情に出さなかった己への皮肉な思いを噛み締めながら、御剣は軽く手を振って歩き出した成歩堂の後ろ姿を、ずっと見詰めていた。



 執務室に戻って帰り支度をしていても、思考を占めるのは先程の光景ばかりで。
 更に、成歩堂の向かった場所が気に掛かって仕方がない。
 用事があると言った成歩堂は、検事局の出口に通じる方ではなく、反対側へと歩いていったのだ。
その通路の先にあるのは、検事達の執務室だけ。
 となれば、必然的に成歩堂の用事は検事達の誰か、になる。
 まさか。
 あの奇妙なマスクを着けた、ゴドー検事の所だろうか…?
 最初は一方的な敵意を浴びせられて戸惑っていたようだが、今は時折執務室でゴドーのいれた珈琲を御馳走になる位には親しくなったのだと、どこか嬉しそうに話していた事がある。
 ギュッと、鞄を持つ手が白く色を無くした。
 焦燥が御剣の内を灼く。
 このままには、しておけない。
 成歩堂の様子を見るだに、それ程重要な隠し事ではなさそうだったが、もしも相手がゴドーだったりしたら話は変わってくる。
 バタン!
 乱暴に執務室の扉を閉め、御剣は足早に成歩堂の後を追った。
 幸いにも、明日行動を共にする検事の執務室が、その並びにある。成歩堂にばったり会っても、打ち合わせなり確認なりに赴いたとの言い訳が成り立つ。
 そこまで一秒足らずで弾き出すと、御剣の形相に戦いた職員達がさあっと道を開けていくのにも気付かず、御剣はただただ速度をあげて歩き続けた。



 最後の角を曲がり、緩やかにカーブしている通路に差し掛かった所で。
「……嫌だなぁ。そんな事、言わないでくれよ」
 探し求めていた成歩堂の声が聞こえ、御剣は素早く柱の影へ身体を滑り込ませた。
 角度を計算して、向こうからは見えない位置に立ち直して再度窺った御剣が目にした光景は。
 予想していたものとは、違っていたけれど。
 予想以上の衝撃を、もたらした。
 成歩堂が柔らかく、楽しそうに笑って話していた相手はゴドーではなく――御剣もよく知っている、狩魔冥だったのである。


                                          


 時系列(と登場人物)を捏造しております。まず御剣を疑心暗鬼で動かすには、とりあえずゴドさんがいいかな、と思ったので。