邪馬壹 壹(イ)の一族魏志倭人伝の邪馬壹国への行程を以下の通り、追ってみた。長い邪馬台国論争では、魏志倭人伝の行程の不正確さばかりが取り上げられたが、魏志倭人伝は実際の地図と比較しても、かなり正確な行程を記載していることがわかる。 ![]() ⑤の末廬国の行程では方角が書いていないため、末廬国=松浦を認めない場合、上陸地点について検討の余地はあるかもしれない。また、傍線行程を日程記載と考える⑨投馬国のみとするか、[動詞]+至を主線行程とし、至のみを傍線行程として⑦奴国も含めるかは、『かくも明快な魏志倭人伝』では前者を取り、『邪馬台国はなかった』は後者を取る。ここでは距離の記載方法よりも文法的解釈から後者で記載した。するとこの奴国は有明海西岸となり、1世紀に漢に使節派遣した奴国の位置、漢委奴国王金印が出土した志賀島とは距離があり、1世紀の奴国とは異なることになる。『後漢書』ではこの使節を倭奴国、つまり、倭の奴国と記載しているが、『後漢書』自体が南朝宋の政治家范曄が5世紀に書いたものなので、三国志が書かれた4世紀よりも後になる。金印の通り、奴国ではなく、委奴国だった可能性もある。こうなると糸島半島の勢力にも見えるが、主線行程にある伊都国も糸島半島から離れている。 従来の九州説、畿内説、古田武彦氏、木佐敬久氏もみな九州への上陸地点、末廬国を東松浦半島の東側、唐津としている。ただ、一大国から千余里という距離を考慮した場合、東松浦半島の西、伊万里あたりまで海路で来たと考えられる。また、奴国を傍線行程とし、伊都国の東南で2万戸を有するならば、そこから佐賀の有明海西岸から長崎南部半島一帯が奴国と考えるべきだ。 委奴国の委奴はイネの語源とも思われる。志賀島の田んぼの中から金印が出土したことも象徴的だ。ともかく、魏志倭人伝の奴国とは無関係で、稲の伝来した時代にまで遡る古い国だったのだろう。伊都国についてはその音から糸島半島に結び付けられてきた。従来の九州説も畿内説もそこに比定してきた。魏志倭人伝を正確に読み解いた古田武彦氏でさえ、末廬国のある松浦から東南ではなく、東北にある糸島半島を伊都国とする従来説を踏襲した。木佐敬久氏は伊都国の読みは漢音ではなく呉音で読み、イツ国としている。糸島半島にはこの時代に平原遺跡があり、邪馬台国にも比定される場所だ。それに対し伊都国は千余戸とあり、奴国(2万余戸)、投馬国(5万余戸)、邪馬壹国(7万余戸)と比較しても小さな国として記載される。大きな国があったことは間違いはないが伊都国ではない。主線行程とはやや離れた場所にあるため、傍線行程にも書かれなかったと考えられる。旁国二十一国の奴国かもしれない。 『後漢書』が記載する奴国は「倭國之極南界也」と記載され、つまり倭国の南端と記載される。金印が出土した志賀島または、糸島半島が奴国だとすると、倭国は九州よりも朝鮮半島が主体だったことになる。とすると『三国志』韓伝の「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接」つまり、韓は南で倭と地続きで接するという記載と一致する。また、『日本書紀』が記載する任那の前身とされる弁韓は三韓の一つで韓に属し、倭には入らない。ただし、長崎半島を奴国と考えれば、北部九州一帯が倭と考えることが出来るので、朝鮮半島よりも九州が主体だったことになる。金印は埋められる前に長く運用されたと考えられるため、出土地を奴国に指定するのも当てにならないかもしれない。(R03.12.27追記)水行20日と委奴国よりもよっぽど遠い投馬国(沖縄)が、わざわざ傍線行程として何故記載されるかは、魏を巡る当時の国際情勢を見る必要がある。そもそも魏が公孫氏を討伐し、邪馬壹国と接触した目的は、江南の呉がそれらの国と結び、包囲網を築こうとしたからだ。邪馬壹国よりも、呉に近い投馬国の行程を記載するのは軍事上最も重要なことだった。また、伊都国に帯方郡の使者が常駐しており、不弥国を通した交易の情報が重要かつ入りやすかったこともある。呉との関係を気にする必要のない九州北部沿岸や本州、四国はそもそも眼中に無かったのだ。それに対し、呉側の海に通じる有明海西岸の奴国、邪馬壹国南部の狗奴国の情勢もまた魏は注視していた。この対応を指揮したのは三国志最後の勝利者司馬懿だ。そういった目的を持つ邪馬壹国への行程の記述は不正確なはずがないのである。 日本に残る唐初に書かれた『翰苑』には晋代に書かれた『広志』の逸文が残る。伊都国、邪馬臺国(原文では『邪馬嘉国』)と続く行程に続く国として斯馬国、已百支国、伊邪国、伊邪久国が記載される。伊都国の南に邪馬臺国と奴国、不彌国、投馬国が省かれた記載になっている。奴国、投馬国の行程は傍線行程であることを裏付ける内容となっている。不彌国は邪馬壹国に隣接または邪馬壹国そのものだから省かれている。(ただし、『広志』自体ではなく、『翰苑』の著者は「邪」を覗いた「馬臺国」という記載をしており、「邪」を「奴国」を考える混乱が起きている。)伊邪久国は『隋書』「琉球国伝」に「夷邪久国」として記載される。投馬国、斯馬国の「投」と「斯」の音は異なるので同一とは言えないが、邪馬壹国行程記述で沖縄方面は意識されていたことは伺える。『隋書』「俀国伝」の「都於邪靡堆,則《魏志》所謂邪馬臺者也」の記載は邪馬壹国説に対する反証になりうる記載だが、既に邪靡堆(ヤマト)に都していることがわかっていたので『後漢書』の通り「邪馬臺国」の記載が正しいということが当時の共通認識になっていたということを示すまでだろう。(R03.12.27追記)水行十日陸行一月は漢書西域伝を見ても最後に全行程を書くのが倣いなので、全行程である。また、別途、郡(帯方郡)から女王国まで一万二千里と書かれており、⑦奴国の傍線行程を除いた主線行程の里数の合算10500里とは1500里の差がある。②~⑤までは余里と書かれているので、実際の地図を見てこのこの差を余里に割り振ると②7300里、③1300里、④1300里、⑤1100里程度となるだろう。この合算11700里程度を一万二千里と記載したと考えられる。②の7千余里は①と②を合わせた帯方郡~狗邪韓国の行程となる。②乍南乍東とは南進と東進を繰り返すという意味になるので、直線距離ではなく、ジグザグに進む行程となり、南進の直線距離と東進の直線距離の合算値、またはそれ以上の距離となる。 韓国行程は陸行にしなければ、「陸行一月」は成立しない。①の通り、水行したのは帯方郡から韓国までの行程だ。そうしなければ③の始めて海を渡るという記載も成立しなくなる。(R03.12.27追記)魏志倭人伝には邪馬壹国の奴婢の殉葬について記述がある。ところが日本の古墳にはその痕跡はみつかっていない。行程から導いた邪馬壹国の位置、その勢力範囲には吉野ケ里遺跡がある。ここは紀元前4世紀縄文時代からの遺跡だが、古墳時代にはその役割を終えている。ここには首なしの人骨を治めた甕棺もみつかっている。判明していないか、残っていないだけで、邪馬壹国には殉葬の習慣があったと思われる。 前回書いた『熊曾とは何か? ヤマトとヤマイの古代史』からその後の考察を経て、古代日本勢力の系図を見直してみた。前回、また、石上神宮に剣を奉納し、池沼池などを作ったのはオシロワケの業績にしてしまったが、古事記に記載されるのは同時代のイニシキの業績なので訂正した。 |
イニヱ、イサチの皇統を見る上で両者とも頭にイを持っていたことがわかる。前回では、その系統を記紀の記載の多いホムツワケまでとしていたが、イサチの長子としてきちんとイニシキは記載されていた。イで始まる系統は続いていたことがわかる。イニシキは事績も多い人物だ。
魏志倭人伝に戻ると、卑弥呼の後、名の記載が無い男王が立った後、十三歳の壹與を立てたとある。『邪馬台国はなかった』によると当時の中華では、中華に対して貳心がある、つまり下心があることを貳と呼び、西域の貳師のように背反する国や異民族に対して、貳の字が当てられた。邪馬壹の邪馬は異民族に付けられがちなあまりいい字ではない表音文字だが、壹の字は中華に貳心が無いという意味の尊称だった。つまり、卑弥呼の後の壹與はその壹の字を名乗ったことになる。 イニヱ、イサチについてはその壹を名乗った後継と考えられる。つまり邪馬壹国の本体がそれまで隔絶の地で旁国21国の邪馬国でしかなかったヤマトまで至ったことになる。イニヱの称号、御眞木入日子とは初めて御眞木に入った日子という意味だろう。イサチのイクメイリビコもヤマトからも見ると継続して外から来た(入った)日子という意味だろう。記紀は、イニヱによる邪馬壹の奴婢の殉葬の習慣の持ち込みについて記載し、それに対するヤマト側の嫌悪感も記載している。それは三輪山の大物主命の怒りを生み、疫病を齎した。 古事記では系図の記載しかないトモモソヒメだが、日本書紀では箸墓の主で、古事記にイニヱの事績として記載される事績がトモモソヒメの事績として記載される。魏志倭人伝に記載される壹與は後漢書以降、壹の字は臺の字の誤りとされてきた。それは後漢書を書いた范曄が倭王讃の使節に接し、彼らがヤマトを名乗ったためだ。こういう経緯で壹與は臺與、つまり、トヨとして伝わった。名前がトで始まる、ヤマト根子日子の系図にあったトモモソヒメが比定され、その歴史認識からこの記載が生まれたと考えられる。しかし、イニヱの時代に邪馬壹がヤマトまで東遷したと考えれば、その歴史認識が別の根拠も持っていたとも考えられる。トモモソヒメではない壹與も邪馬壹東遷に関わっていた可能性だ。3世紀中頃13歳で即位した壹與は3世紀末または4世紀初頭まで存命した可能性もある。箸墓の主が壹與である可能性もゼロではない。 即位の記述は無いが、イサチの長子イニシキも同様と考えられる。イニシキもまた入日子だった。イニシキの子については記紀に記載が無いが、美濃の神社の伝承としてイチハヤオの名が残る。こちらもまたイで始まる。ただ、邪馬壹の系統でありながら、東日本にその名を残すイチハヤオの存在は、邪馬壹の力がヤマトを通り越し、東日本までに及んでいたことを示している。記紀ではイニシキの兄弟とされるオシロワケだが、オシロワケ、ワカタタラシヒコ、ナカツヒコはタラシ日子の系統であり、その祖先は欠史八代中、6代孝安天皇に比定されるオホヤマトタラシヒコのクニオシヒトだ。古事記では欽明天皇以前でスメラミコトで記載される3代で、後から皇統に入れられたことを示している。また、ワカタタラシヒコ、ナカツヒコは事績が少なく、日子という称号のみが和風諡号になっており、名前が見当たらない。ヤマトにとっては詳細を知りえない外の人物だったことを伺わせる。また、ナカツヒコの宮は下関や筑紫であり、ヤマトというよりも中国地方や九州北部の勢力だったことを伺わせる。 ヤマトの外の勢力であったもオシロワケは記紀で事績が大きく語られる。そして天下を治めたと称せられる。つまり、東西に伸びた邪馬壹において、オシロワケの台頭が邪馬壹を分断、弱小化させたと考えられる。吉備に天皇の陵墓に指定されない、日本第四位の大きさを誇る造山古墳がある。この古墳はオシロワケの陵墓と考えられる。 ただ、オシロワケの代でタラシ日子が邪馬壹を凌駕したわけではない。石上神宮に千振の刀を送ったとされるイニシキは百済からの七支刀を受け取った人物と考えられる。まだ、日本の主は邪馬壹だった。イチハヤオは美濃の伝承に残るのも邪馬壹の権威が美濃まで残っていたことを示している。 それが覆り出すのが伊勢のタケルの武力によるだろう。古事記ではタケルの曾孫がオシロワケの后になったことが記載される。これはタケルがオシロワケの子ではなく、伊勢の一族で、オシロワケはこの伊勢の一族と婚姻関係による同盟を結んだことを示している。この系統はオアサヅクゴの宿禰(允恭)を経てワカタケルまで続く。オアサヅクゴは宿禰であり、宿禰は大臣の称号で即位はしていない。オホサザキから皇統に使えた大臣だろう。ワカタケルの代に簒奪して即位を行った。ワカタケルは伊勢のタケルの陵墓を改葬し、ヤマトに葬り、伊勢のタケルはヤマトタケルになった。それを記紀では白鳥になってヤマトに移ったと記載している。なお、タケルの子にはワカタケノミコという名もある。これがワカタケルが伊勢のタケルの一族であることを示している。そして古事記に記載されるオシロワケにいいように使われながら、その猛々しさを疎まれたヤマトタケルの姿はそのままワカタケルの心情であり、ワカタケルの皇位簒奪の動機となるものであった。オシロワケは2m(1丈2寸)という巨漢だった。ワカタケルが仕えたミズハワケもまた185cm(9尺2寸半)と高い身長が記載される。 ヤマトタケルの後、邪馬壹が来る前からヤマト在来の王だったヤマト根子日子の皇統、そして北陸の新羅王の系統、アメノヒホコの合同女王オキナガタラシヒメが立ち、オシロワケの系統を駆逐する。そして力の衰えた邪馬壹と合同で新羅遠征を行い、その後の倭の五王、ホムダワケから系統が朝鮮半島にまで影響力を持つようになる。力を失った邪馬壹は筑紫君という筑紫島つまり九州に影響力が限られ、ヤマトには臣従した勢力になる。それはヤマトの内紛を経て、ヲホドのオオキミが倒したイワイまで続くことになる。邪馬壹の一族はイワイに至るまで壹の一族だった。『釈日本紀』に残る筑後国風土記逸文には筑紫君の祖として甕依姫の名がある。当時筑前筑後の国境の坂に荒ぶる神がいて行き来する人の半数が死んだとされる。そこで甕依姫を祀るとそれは収まり、筑紫神となったとある。イワイが滅ぼされ邪馬壹が屈服し、筑紫は筑前筑後に分割されたが、邪馬壹を再び祀ることでその憎しみを抑えたことが連想される。また、卑弥呼が女王になったことで倭国大乱が収まったことも遠く連想させる。日本書紀の公式見解では卑弥呼は150年年代がずれるオキナガタラシヒメに比定されていて、邪馬壹の卑弥呼は無視している。しかし、風土記には卑弥呼は残っていた。 R03.01.24 |