中世とはどんな時代かF北条氏は1587年の令書で兵士を集めるにあたり「一、よき者を選び残し、夫(人夫)同然の者申し付け候わば、当郷の小代官、何時も聞き出し次第、頸を切るべきこと」とし、村人自身ではなく、村が雇った人夫、傭兵が兵役についていた実態を示している。同時に大名は、略奪ばかり行う傭兵よりも、きちんとした生業を持つ村人の方が戦場においても役に立つと考えていた事実も示している。また、「結城氏新法度」104条では「こなたの膝の下の者共、下人・かせぎもの、あるいは洞中、または近辺の他所にあって、手許の主に使わるるものあるべし」とあり、侍の奉公人でも実態は流れ者の傭兵で主を複数掛け持ちして仕えている者がいた実態を示している。そのような雑兵の奉公人のいでたちは「結城氏新法度」64条で「をどけたる真似、をどけたる衣装」と表現され、人目を引くものだった。 武士の戦さでの手柄は敵の首級をあげることだが、このような下級の雑兵にとっては目的が異なるようだ。四国で伊予の土井清良が逃げる土佐の軍を追撃する際、土井方の武将の桜井某は自軍に向って「下々の乱取りするを、そのままに置き、心任せにせよ」と敵地での乱取り(人攫いと掠奪)を自由に許した。つぎの日、清良がそれを咎めると、桜井某は下々の者は手柄による恩賞が得難く、このようなことで利を得なければ勇まないので、乱取りを禁止しつつも、頃合いを見て許すことが必要だと説いた。(『清良記』)雑兵は人攫いと掠奪で稼いでいたという実態を示している。フロイスは1582年肥前で島津氏が肥前の有馬氏を助けて、龍造寺氏の千々石城を攻め落とす際、山頂にいた指揮官と若干の兵士が略奪品を持って帰るために落城前に引き上げてしまう姿を目撃している。(ルイス・フロイス『日本史』) 大名はこのように戦略にも支障を来す乱取り禁止令を出したが、兵士に恩賞を出さずに兵士の士気を高め、敵地を疲弊させる乱取りをうまく利用もした。このような掠奪と人攫いがさらに農民という生産者を減らし、掠奪者を増やしていく実態は中国の動乱の現状と同じだ。 豊臣秀吉は農地を追われた農民を帰農させていったが、流れ者の傭兵人口の偏りだけはどうにも出来なかった。大阪城建設、京都の大仏の建設等の事業を行い、その非生産人口の吸収を行ったが、それだけでは足りずに朝鮮出兵を行った。傭兵は奴隷とともに海外にも流れた。1583年9月マニラ総督は、国王に「日本人は、この地方において、もっとも好戦的な人民である」と報じていた。イエズス会のカブラルは、1584年日本人を雇い入れて中国を武力で征服しようとスペイン=ポルトガル国王に提案していた。山田長政はシャム(タイ)の内乱で雇われ日本人兵隊を率いて活躍した。江戸幕府成立後、オランダとイギリスはスペイン、ポルトガルとの戦争に日本人傭兵を大量導入しようとした。しかし、1620年将軍秀忠は人身売買停止令、武器輸出停止令を出し、傭兵、奴隷の輸出が停止された。ここに来てようやく戦国時代の負の連鎖が落とした非生産者の人口が収束し、江戸の太平の治世へと向っていった。 前置きが長くなったが、今回は『飢餓と戦争の戦国を行く』(藤木久志著 朝日選書 2001)からその戦国時代という負の連鎖の始まりとされる応仁の乱の発生過程を見ていこう。
日本の場合、王朝側の歴史だけでなく、民間の記録が多く残っているため、乱発生のメカニズムがよくわかる。天災→飢餓→首都への人口流入→流入した非生産者の武装化→周辺農村が武装化し非生産者化→それらの非生産者が兵士とも略奪者ともつかない「足軽」になる。AとGを見ても、兵士も無頼者も武装蜂起する農民もまったく区別のつかない略奪者だったことがわかる。これらが、数々の合戦、海外放出、朝鮮出兵を経てもなかなか減らず、世を不穏にさせた傭兵、雑兵だった。生産人口の減少、非生産者人口が増加し略奪を行うという負のスパイラルがここで開始され、非生産者が生産者から奪い、また非生産者同士がお互いを減らし合う戦国時代に突入する。これは規模と質こそ異なるものの、バブル崩壊以降の中小企業、家族経営の工場、店舗を追いつめた闇金や、一般家庭から金を騙し取るオレオレ詐欺の増加と重なって見えてこないだろうか。 飢餓に貧した非生産人口に対しては@、Gを見ても食べた途端死んでしまうというように、ただ施すだけでは救いにはならないようだ。事業を起し、労働と賃金を与え将来の希望を与えないといけない。15世紀初め、苔寺で知られる西芳寺の僧が難民を救うのに「ただ人に物を食わせ、何のなすことも無うては、その身のためも悪い」と考えて荒れた庭を復旧しようと、飢えた人々をやとい、日ごとの働きに応じて食べ物を与え、めでたく庭も出来たという。(『三体詩抄』) 応仁の乱を招いた将軍足利義政は当時から「ご成敗の不足」と言われ、(『大乗院寺社雑事記』) 批判されてきたが、Gでの寛正の大飢饉での施しを見ても何もしてこなかった訳ではない。また、花の御所の復旧、銀閣寺の建立等の事業も起した。この光景は今の不況で支持率を失った麻生政権とも重なって見えないだろうか。定額給付金のような一時的なしのぎが果たして将来への投資となるだろうか。また、この応仁の乱は畠山家の家督争いと細川勝元と山名持豊の争いが発端と言われているが、それが現在の経済危機の最中の自民、民主の政局争いにも重なって見えないだろうか。 戦乱の後には兵士という非生産者人口を労働に吸収するために大事業が起こる。豊臣秀吉の例、日本の南北朝を統一した足利義満の金閣寺建設もそうだが、中国では、戦国時代の終了とともに、秦の始皇帝の巨大陵墓建設、阿房宮の建設、万里の長城の連結が上げられる。五胡十六国、南北朝時代の戦乱を統一した隋でも、大興城の建設、大運河の建設、高句麗への遠征が行われた。しかし、いずれも非生産者人口の吸収を飛び越して、生産者である農民の徴発まで行い、国を滅ぼした。秦の時代の陳勝・呉広の乱、劉邦の蜂起も徴発した農民の輸送中に起きている。隋の高句麗遠征も113万人という規模の遠征のため、兵粮が追いつかず死者は十中八、九、遼東に帰還した人数は2000人という大惨事だった。(※)楊玄感、李密、竇建徳といった反乱者はその撤兵、脱走兵から蜂起した。 ※ここの記載は語弊あり。「死者が十中八、九」と記載があるのは隋初代文帝の時代598年の高句麗遠征。「遼東に帰還した人数は2000人」とあるのは611年の2代皇帝煬帝の113万の高句麗遠征だが、ここでの記載は113万人のうち2千人しか返ってこなかったのではなく、鴨緑江を突破し、平壌まで70里(当時の長里換算で約32km)まで迫った別動隊30万人が清川河の戦いで大敗し、帰還したのが2700人というもの。588,589年の南朝陳を滅ぼした51万8千の遠征の倍以上のこの高句麗遠征は補給観点から暴君隋を滅ぼした煬帝らしい非常にばかげた遠征に見えるが、黄河と長江を結んだ大運河を北京付近まで延長し、山東半島からの水軍も用意した周到な遠征であった。南北朝統一をもたらし、その後唐にも引き継がれた律令制度の整え、科挙の開始、仏教振興という業績から初代皇帝文帝は評価されてきた。しかし、南朝遠征を行ったのは煬帝であり、文帝は北周からは禅譲で皇帝位を得たもののすぐに北周の皇族とその一族を殺害し、滅ぼしている。魏の曹丕が禅譲させた漢の献帝が漢朝皇帝の中でも長生きし一族は山陽公として西晋まで続いたこととは対照的だ。同様に唐の李淵も煬帝の孫を擁立後禅譲させ殺害している。北周の宇文氏、隋の楊氏、唐の李氏いずれも内モンゴル武川鎮の将軍家出身であり、ライバル心はあっても忠誠は無いのかもしれないが血なまぐさい。隋の楊氏、唐の李氏は皇位を継承するために漢朝功臣の血筋を名乗っているがいずれも鮮卑族である。その中で煬帝は暴君であったかもしれないが、文帝も唐の李淵も源頼朝に負けず陰湿だ。南朝遠征を成功させ、南朝の優れた文物を黄河までもたらした大運河はその後、唐、宋という中華文明の発展の頂点をもたらしており、無能ではない。113万人の高句麗遠征も元は百済からの要請を受けたものであり、日本の聖徳太子の遣隋使も、トルコ系の突厥の高句麗接近含め、北東アジアの情勢を睨んだものだった。文帝期の遠征は伝染病での死者が多く、煬帝の遠征では遼河挟んだ高句麗との戦闘で大量の戦死者を出した。この遠征が気候、高句麗の強さ両面で難しかったことを物語っている。そんな高句麗も朝鮮半島を統一した新羅と唐の連合で668年滅亡している。隋の滅亡は南北朝統一がもたらした人と物の流れの熱を制御出来ずに増大する人の動員が人々を疲れさせ、南朝遠征の倍以上の動員が行われた高句麗遠征の失敗で弾けたことにより起きたと考えられる。H28.07.18追記。戦乱が産み出す非生産者人口を吸収できなかった場合の現代の例としては、ソ連撤退から現在に至るまでのアフガニスタンがあげられる。1979年のソ連侵攻からアフガニスタンの人々や国外からのアラブ人による抵抗が行われたが、その戦乱が政府軍とゲリラ両方に非生産人口を増やしていった。それらの人々がソ連撤退後、安定した政権を作れずにそれまで以上の地獄の内戦を引き起こした。ソ連侵攻に対する抵抗に参加したアラブ人は一旦引き上げるが、定職につくことができずにアルカイダのようなテロ組織を作り上げていった。 不況の時にやらなければいけないことは、将来の投資となる事業だ。80年代以降の日本を見ると景気のいい時に不要な事業を起こし、そのツケが払えずに景気の悪い時に事業を削ってきた。ケインズ理論は日本と中国の歴史を見ても正しい。 H21.02.09 |