中世とはどんな時代かA今回は中国の動乱期における人民のサバイバルの現実を探っていきます。主に『中国史における革命と宗教』(鈴木中正著 東京大学出版社 1974)からの引用になります。中国は紀元前221年の中国の統一以来、何度も内乱が起き、革命が起き王朝を変えている。まずはその現状を追ってみよう。 東晋末の399年から412年にかけて孫恩による道教の反乱が起きている。時は五胡十六国時代。三国時代を西晋が統一し、すぐ後に匈奴が侵入し、西晋は滅び、その王族が華南に築いた王朝が東晋(317〜420年)だ。時代は漢の時代(紀元前206〜紀元後220年)に比べれば既に乱世に入っていたが、華北からの攻勢にも持ちこたえ、比較的に安定していた。それがこの反乱により一気に瓦解してしまう。東晋の統治の主要地域だった華南東部が主な主戦場になり、各地域の都市は戸口が半減、またはほぼ全滅するありさまだった。反乱の平定軍にもまともな糧食が割り当てられず、平定軍も反乱軍も飢民しかいない状態だったという。(『晋書−孫恩伝』『資治通鑑−晋紀』) 時代は随分翻るが清末の太平天国の乱(1850-1864年)を見よう。この乱もまた華南で起きた乱だ。一応キリスト教を御旗に掲げた乱だが、占領地域の父母から子供を取り上げ、兵士として育てる、また、男女の同居の禁が課せられ禁を破った者は殺されるなど、家族を解体し、組織の管理に入れる政策が取られ、カンボジアのクメール・ルージュに近い統治が行われた。その結果、安徽省、江蘇省、浙江省の十一州県の人口減少率は知りうる戦前と戦後の人口数から見ると88.2%から40.2%の間という。(地方誌の研究からの引用としているが詳細は不明。"Ho Ping-ti. op. cit., pp. 236-248"と記載。中国本土の研究者のもの?) 中国ではその地域の人口の半減というものが古代から近代にかけても見られたようである。無論、その半分が全員死んだというわけではなく、流民になり、他地域に移動した者も多かったと思われる。流民という現象は中国においてよく発生する現象となっている。三国時代の曹操の元に下った青州黄巾党も青州(現在の山東省東部)から南皮(現在の河北省)に移動し、寿張(山東省西部)で曹操にぶつかっている。また、中国共産党の長征にしてもよく村が移動していると表現されている。その土地を持たない集団は匪賊となって土地を持つ者から奪うか、青州黄巾党のように権力の元に下るか、集結して王朝自体を滅ぼすか、新しい土地を開拓するかだった。 匪賊については『中国革命を駆け抜けたアウトロー達』(福本勝清著 中公新書 1998)が詳しい。1922年老洋人という匪賊が万余の大部隊を率い、安徽省の阜陽という城市を襲った。殺人、略奪、放火が行われ、城内は瓦礫の山となった。商店は奪い尽くされ、数百人が殺傷され、数千人が人質として連れ去られたという。(蘇遼『民国匪禍録』) 集結して王朝を転覆する例としてはほとんど王朝末毎にあるといっていい。秦末の陳勝・呉広の乱(紀元前209-紀元前206年)、新を滅ぼした赤眉の乱(18-27年)、後漢末の黄巾の乱(184年)、唐末の黄巣の乱(874-884年)、元を滅ぼした紅巾の乱(1351 - 1366年)、明を滅ぼした李自成の乱(1641-1645年)。いずれも苛烈な破壊を行うが、紅巾の乱を除いて、それに代わる生産手段を確保できずに滅び、新しい生産手段、根拠地を持った者が次の王朝を作り上げるという図式を繰り返している。劉秀は河北に兵站基地を持ち、新の後の後漢を作り上げる。曹操は屯田制を実行し、流民を帰農させていった。金泳三韓国元大統領は「改革は革命より難しい」と言った。革命は次の生産手段を提供出来なければ破壊で自らも滅ぼしてしまうのだ。 新しい土地を開拓する場合はより辺境へと向った。険しい山に囲われる四川盆地はそのうってつけの場所だった。成都から重慶の間に大足というところがある。ここには9〜13世紀の仏教、道教の石窟が並ぶ。それを作った人々は中原から逃れてきた人々だった。しかし、この地においても明末に凄惨な戦禍がやって来ることになる。
再び『中国史における革命と宗教』を見ていこう。明代の将校の腐敗はすさまじく、当時反攻に転じた蒙古の侵攻に対する北方防衛が明の課題だったが、将校はまじめに戦わないだけでなく、平民を殺して敵の首級を得たと虚報した。また、兵糧の運搬も地域の人民に強制された。(『明史 倪岳伝』)その上、1628年この北方地域陝西省で1年間降雨がなく、大飢饉が発生した。そんな中、飢餓民、逃亡兵士、そして蒙古人までが加わり、蜂起が起こった。それを統率したのが、李自成、張献忠だった。精鋭は常に2,3頭の馬を連れていて、蒙古帝国の軍のような馬賊の部隊だった。李自成は北京に向ったが、張献忠は四川省に入った。そこで1645年から1,2年にかけて史上希に見る組織的大虐殺が行われた。 李自成が北京を落とし明朝を滅ぼすと、焦ったのは張献忠だった。張献忠はすぐにでも四川から出て、李自成の根拠地、陝西を奪いたかった。ただ、四川を空けてしまうと四川人民が蜂起し背後から襲われる危険がある。そのために全四川人民の虐殺が決定された。 思い出すのは1997年にアフガニスタン北部マザリシャリフで起きた事件だ。マザリシャリフも険しい山に囲われていて陸の孤島だ。そこを実効支配していたのはドスタムでそこにタリバンが攻め込んだ。そこでドスタム派のナンバー2であったマリクが裏切りタリバンに投降した。ドスタムはマザリシャリフを追われた。ところが次にマリクはマザリシャリフとアフガン中部との間の道を封鎖し、侵入したタリバン兵を孤立させ虐殺した。陸の孤島におけるサバイバルというかマキュベリズムはすさまじい。 虐殺の過程は以下の通りだ。まず科挙の名の元に地元郷紳を集めて殺害する。そこで反攻の中核が無くなることになる。それから全人民に対する虐殺が行われた。その間に殺された人口について平東一路で男5988万余、女9500万余、撫南一路で男9960万余、女8660万余、安西一路で男7900万余、女8800万余、定北一路では男7600万余、女9400万余という当時の中国の人口からいっても桁を1桁2桁削っても信じがたい数字が上がっている。(『蜀記』) 実際どの規模の虐殺だったかについて、アメリカ人学者James B. Parsonsによると明史地理史の1578年の四川の人口(310万余)と1736年の四川通志所蔵の数を比べ、3分の2は生き残ったとしている。("The culmination of a Chinese peasant rabelion: Chang Hsien-chung in Szechwan 1644-1666")ただし、1655,1656年に寄稿された『蜀難叙略』によると大虐殺後の四川について虎が多く、人民は数十家が高楼に集まり、虎に脅かされていたという。1659年清軍が成都に入った時、成都城中は草木が茂りぱなしで鹿が縦横に駆け回り、昔の商店・住宅・官営など識別出来るものは無かった。清軍に伴って他地域の住民が住むようになったが、その中に元来の成都人は千百人中1,2人もいなかった。城中には虎・豹・熊などがうろつくといった状況はその後1,2年も続いたとされている。また、清の康煕帝の時代に入り、1671年から四川回復のため招民政策が行われ、その後数十年の間に大分回復されたという。つまり、1736年の数字を比べても他地域からの入植者がほとんどで当てにならないということだ。 南京大虐殺についても事前と事後の南京市の人口を比較して大虐殺など無かったとする論が未だ続いているが、中国の場合は動乱時、流民が大量にいるので当てにならない。治安が安定するとそこには流民が大量流入するのだ。 四川省に張国Zのような残酷な独裁者が出てくる土壌は既にここにあった。張献忠もまた、まるで共産主義のように冠婚葬祭の儀礼の制限、五日一験・三日一点といった厳罰つきの人民点呼制度、成都城内にスパイを放って市民の行動を監視するといった体制をとった。四川省の成都に私は1992年に行ったが、当時四川省が中国最貧であったこともあったかもしれないが、人々の雰囲気は険しかったことを今も思い出す。成都駅は布団を持ち込んだ人々でごった返し、成都から出る列車の切符は行列に並んでもすぐ売り切れ、なかなか買えなかった。また、四川省には様々な少数民族が住むが、チベット系のカンパ族は勇猛な部族と知られている。それもこのような凄惨な歴史があったからとも考えられる。
今回の最後としてそんな動乱時の中国で日中戦争時の日本軍の行動を2例あげよう。1例目は『恩故1942』(劉震雲著 中国書店 2006)に描かれる。1942年に河南で大干ばつによる300万人が死ぬ大飢饉が起きた。それでも国民党はなんの対策も施さなかった。ところが1943年ここに日本軍が侵攻してきた。日本軍は軍糧でこの地域の救済を行った。この地域の農民は災害の放置と国民党軍の残忍な巻き上げに憎しみを持っていたため、国民党軍を襲った。日本軍6万に対し国民党軍は30万の戦いだったが、農民による国民党軍の武装解除のために、国民党軍は全滅した。 2例目は『参謀本部の暴れ者-陸軍参謀朝枝繁春』(三根生久大著 文藝春秋 1992)から。1940年中国山西省の太源に司令部を置く北支那方面軍麾下の第一軍は山西軍閻錫山といった軍閥、国民党軍、八路軍に包囲されている状態だった。そんな中、田中隆吉少将は「灰燼作戦」という殺戮作戦を実行する。田中は田中玉という中国名を持つほど流暢な中国語を操り、達者な毛筆で毛沢東等の敵味方関係なく書簡をしたため、敵側からも思わぬ情報を得ていたという。また、買春などの性癖も持っていた。田中は中国の王朝の歴史から見て、今まで通りの作戦ではだめだとし、一部落を占領したら焼き払い、子供に至るまで皆殺しにする命令を出した。そしてそれは実行に移された。辻政信のシンガポールでの華僑虐殺はこの経験に倣ったとされている。また、それとは別に、朝枝繁春氏は八路軍の軍記の厳正さを評価する。ある時、八路軍の教範を入手したが「一毛を犯すなかれ」と書いてある。たとえ一粒の米であっても民家から奪ってはならないということだ。そんな中、日の丸の鉢巻をつけたまま、八路軍に加わった日本兵もいたという。 H21.01.11 |