ヤマトと古代東日本の大王について


 『ヤマト王権の考古学』(坂靖 2020)によれば、古代王権を考える上で古墳も大事だが、その王権が権力を行使した拠点、つまり、居住区が大事だとしている。ヤマトでは唐古・鍵遺跡とそれに続く纒向遺跡が上げられる。それによれば、纒向遺跡を中心にしたヤマト王権は、奈良盆地の各地域勢力からなる王権で、その影響力は奈良盆地に限られるとしている。『考古学から見た邪馬台国大和説』(関川尚功 2020)によると纒向遺跡のヤマト王権の影響力は、西日本どころか、東日本と比較しても小さく、当時の倭から見るとローカル王権だったことがわかる。唐古・鍵遺跡や纒向遺跡は西日本の弥生遺跡に比べると防御設備が無く、専制的な王権よりも平和でゆるい王権だったようだ。土器からみると東海地方の影響が大きく、東海地方に影響を与えたというよりも東海地方から影響を与えられたぐらいの勢力だったという。

 そのようなローカルな勢力に突然、箸墓のような巨大古墳が作られるようになる。『ヤマト王権の考古学』によると周辺の纒向遺跡の土器から3世紀に遡るとしているが、『考古学から見た邪馬台国大和説』では周辺ではなく、古墳の墳上にある土器、埴輪から年代を推定すべきで、それによると3世紀に遡ることはないとしている。つまり、巨大古墳を築造する力も権力も無かった3世紀の纒向遺跡ヤマト勢力の地は4世紀に外から大きな力が働き、巨大古墳を作る事態になった。これが前回『邪馬壹 壹(イ)の一族』で書いたイニヱによる邪馬壹の東遷だろう。

 イニヱの東遷により、唐古・鍵遺跡、つまり磯城の勢力は滅ぼされたと考えられる。これが師木津日子のタマテミ、スキトモだろう。纒向遺跡の勢力は恭順して拠点を明け渡したのだろう。つまり、それ以前のヤマトは師木津日子(唐古・鍵遺跡)、ヤマト根子日子(纒向遺跡)と併存して統一すらされていなかった。ある意味平和な共存王権だったと言える。

 今回はヤマトと東日本を中心にこの時代を見ていこうと思う。
 埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘にはオホヒコ、タカリノスクネ、タケヒシワケ、タサキワケ、ハテヒ、カサヒヨ、ヲワケの系図が記載される。オホヒコは記紀に8代孝元天皇に比定されるヤマト根子日子のクニクルの子でイニヱの時代に北陸を遠征した将軍として記載される。ただ、埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘にはオホヒコが初代でクニクルの名は無い。オホヒコはその名自体が大日子という大王級の称号であり、始祖的な存在と考えられる。クニクルの子としたのはその末裔がヤマトの傘下に入ったからだろう。そしてタカリノスクネは記紀に記載される、オホヒコの子であり、イニヱの時代に東海に遠征をした将軍タケヌナカワワケと私自身が考えていた。ところが、2代綏靖天皇に比定されるカンヌナカワミミもまたタケヌナカミミの別名を持つ。ワケは王(wang)の意味なのでタケヌナカワワケとほぼ同名であることがわかる。つまり、タケヌナカワワケの祖先がカンヌナカワミミであることを示唆している。イニヱの時代の東国遠征は父が北陸、子が東海を遠征したことになっているが、これを遠征ではなく、その地の勢力と考えれば、両者の間に父子関係は考えられない。稲荷山古墳出土鉄剣銘のタカリノスクネとタケヌナカワワケは別人で、オホヒコは東日本北部及び内陸部の勢力、タケヒシワケは東海の勢力と考えるべきだ。

 南松本駅から見える弘法山古墳は3世紀末に遡る前方後方墳だ。甲府の甲斐天神山古墳もまた3世紀末に遡る前方後方墳だ。しかも甲斐天神山古墳は古墳時代前期の古墳としては前方部が発達した立派な前方後円墳であり、規模は劣りながらも箸墓型の前方後円墳が既に東日本にあったことになる。そして、稲荷山古墳のあるさきたま古墳群ここまでがオホヒコの勢力範囲と考えられる。3世紀末から4世紀初頭にかけて大王と呼べる勢力があったと考えられる。オホヒコの次はタカリノスクネという宿禰で呼ばれる代があり、その後タケヒシワケ、タサキワケと王の称号を持った代があり、その後、ハテヒからワケが無くなる。この勢力はタカリノスクネの代で邪馬壹国に臣従し、イサチが死に、吉備のオシロワケが邪馬壹国を凌駕した時代に、また独立したと考えれる。そしてオキナガタラシヒメの時代にヤマトに臣従したのだろう。

 沼津には3世紀中頃の前方後方墳、高尾山古墳が存在する。また、千葉内房、東京湾東側には3世紀の最古級前方後円墳、神門古墳がある。タケヌナカワワケの勢力はここまでの勢力を持っていたと考えられる。千葉内房には古墳が非常に多い。現在の東京は江戸時代からの開発で古墳は少ないが、かつては大塚などの地名から古墳がかなりあったものと思われる。さらに東に行けば千葉外房の香取神宮、茨木南部の鹿島神宮があり、伊勢神宮と並ぶ3神宮に数えられる。古代においても伊勢との関係が深かったのだろう。タケヌナカワワケは伊勢の力が強かったこともあり、邪馬壹国の力は及ばなかったと考えられる。イニヱは伊勢に娘のイモトヨスキヒメを送っている。

 風土記にはあるが、記紀には富士山の記載が無い。東日本はこれらの大勢力により、独立した状態が長く続いたことが想像される。2代綏靖天皇に比定されるヌナカワミミが神とされていることもこれが由縁と思われる。ヌナカワミミ自体は没年45歳と記載され、実在した人物と思われるが、水という恵みや水害という災厄両方を齎す河川の神というイメージを持っている。アマテラスという西日本の日の神と対比した東日本山脈の河川の神としてイメージされてきたのだろう。『アマテラスの誕生』(筑紫申真 1962)によるとアマテラスが女性神になったのは持統天皇の影響でそれ以前はアマテルという男性神で、現在も阿麻氐留神社の名で名が残っている。伊勢では天照大神を祀っているのに何故滝を祀っているのかと天の神が山を伝って、滝になって降りてくるからだという。川や滝のイメージである蛇がアマテラスだという伊勢の伝承も伝えている。壬申の乱の政治事情から生まれて架空の存在だと思われるイハレヒコ、ただ、その東征という事績についてはイニヱの東征の事績だと考えられる。イハレヒコを実在と考えるとイニヱが初国知らしし御真木のスメラミコトとされることが成立しなくなる。そのような架空の日子であるイハレヒコと河川のイメージを持つヌナカワミミの和風諡号にだけ、神と付く訳は、大和朝廷が西日本と東日本の統合王朝であることを知らしめている。そしてイハレヒコを作り出した天武天皇以前は神と付くのはヌナカワミミだけで、ヤマトは東日本縄文文明をルーツとする王朝であることが強調されている。侵略をしてきた弥生鉄器文明を縄文文明が最終的に打ち破った事績を伝えているのだ。

倭の五王について(R03.02.22追記)

 430年、460年、477年の使節は『宋書』の周辺異民族を記載した夷蛮伝になく、それぞれ本紀の文帝記、孝武帝記、順帝記にあり、送った倭王の名が記載されていない。438年は倭王讃が死んで倭王珍が使者を送り、何を求めて何が認められたかという事績は夷蛮伝にあり、年代は本紀文帝記にある。443年は夷蛮伝にあり、倭王珍が死んで倭王済が立ったことが記載される。478年は倭王興が死んで倭王武が立ったことが夷蛮伝にあり、事績は夷蛮伝、本紀順帝記に記載される。以前は460年のみ別人としてイザホワケとしていたが、430年、477年も倭王の名は記載されていない。夷蛮伝で以前の王が死んだことが書かれているので前の使節はその死んだ王のものという類推だ。

 以前は460年の使節をイザホワケに、462年の倭王興の使節をミズハワケにした。しかし、その後の477年の使節までには15年のブランクがある。イザホワケとミズハワケ、その間のスミノエノナカツミコの間は争いが見られ、スミノエノナカツミコはイザホワケの命でミズハワケに殺されている。このブランクはその混乱期を表していると考えられ、462年倭王興はイザホワケで、ミズハワケの代は使節は送られなかったとも考えられる。460年の使節は素直に倭王済つまり、オホサザキの使節と見た方が良さそうだ。

 稲荷山古墳出土鉄剣銘に辛亥(471年)天下を治めるワカタケル大王とあることから、477年の実権は既にワカタケルにあったことがわかる。しかし、名目的な王は別途いたのかもしれない。だとすると477年の使節はアナホノミコとなるが、ワカタケルとアナホノミコは共にオアサヅマワクゴの系統で、共にオホサザキの他の系統と争いあった兄弟だ。アナホノミコが、イザホワケとミズハワケの弟オホクサカノミコを殺し、オホクサカノミコの子、マヨワノミコがアナホノミコを殺している。また、ミコの名のままで伝わるアナホノミコは即位したと考えづらい。この事件はワカタケルが実権を握った471年より前に起きたと考えるべきだ。

 477年は倭王武が実権を持ったままの時期に、倭王興の死を知らせず、クーデターのように行われた使節と考えられる。それを防ぐ上で478年の倭王武の使節があったことになる。とすると、477年の使節を送った人物としてイザホワケの子、イチノヘノオシハ、ミマノミコ、ミズハワケの子、タカラノミコが考えられる。イチノヘノオシハのみワカタケルに殺害されたことが伝えられる。古事記のワカタケル崩御年489年を信じ、その後8年ヲケノイワスワケが統治し、記紀共に一致しているヲケノイワスワケの寿命38歳を信じ、478年をイチノヘノオシハが殺された年とするとその時、ヲケノイワスワケは19歳だったことになる。477年のこの使節は浦島太郎伝説の元となったものので、ワカタケルの子、イイヨドノミコが白髪大倭根子命と和風諡号を持つことからもそれが裏付けられる。イイヨドノミコとイチノヘノオシハとで画策したものなのではないか。失敗し、その失意がイイヨドノミコを白髪にしたのではないか。

 イチノヘノオシハはワカタケルと出かけた狩りで、ワカタケルに射掛けられ、殺された。夜明けに先に出たイチノヘノオシハを追って、ワカタケルが射掛けたと描写されるが、それはまさに477年と478年の使節の関係をよく表している。


R03.02.14

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