インカにおける文明の衝突についてG宮崎駿の最新作で最後の作品『風立ちぬ』。この作品は理系の人じゃないとわかりづらい作品だと思う。理系は結果が大事なのではなく過程が全てだ。その技術が産業となった、ブランドとなった、あるいは戦争に使われたという結果については無頓着だ。その過程を覆う状況についても気に留めることなく、その過程に対して自分の夢想を追求し、その一刻、一刻に対して誠実であり続けようとし、それが全てとなる。関東大震災ではなんの見返りも求めず他人の女性を助けた同じ人物がゼロ戦を作り、そのゼロ戦が特攻をさせてしまう。そしてその過程を共に過ごした妻も失ってしまう。東日本大震災と原発事故の後、わざわざ自身の矛盾をさらけ出すようにこの作品を出したことは誠実と言えるだろう。 中南米でのコンキスタドールが悪行を繰り返す中、スペイン本国では、その悪行を告発した神父がいた。バルトロメ・デ・ラス・カサスという。自身も1502年から1506年、1512年から1515年まで新大陸にいて、1回目ではコロンブスに同行し、現地の奴隷を使いながら、農場経営をしていた。2回目において改心し、自身の先住民奴隷を解放した。そしてスペインに戻ると王室に対して植民地の実情を訴えた。 スペイン王室はピサロの遠征に対して、降伏勧告を行うことと命令していた。それはラス・カサスの影響が大きかったのだろう。しかし、ピサロは先住民が財宝を持って逃亡されるのを避けるため、奇襲によって村々を襲い、それは破られてきた。 ラス・カサスはその後も新大陸の現状を見て、スペイン本土で議論する中で、布教という大義で新大陸に行っているにも関わらず、先住民がそれを望まないのならそれでも仕方がないとまで言っている。目的よりも過程の中の誠実さを求めた結果であると言える。ただ、その誠実ささえもスペイン王室に利用されることになる。 スペイン王室はピサロ等のコンキスタドールがエンコミエンダ領主として半独立状態でペルーに君臨することを快く思っていなかった。王室への貢物も届くには届くが、それは彼らが搾取、ピンハネした上で利益だった。ペルー征服の利益をエンコミエンダ領主の管理ではなく、スペイン本土の管理で、スペイン本土に還元することを望んでいたのだ。そこで持ちだされたのが、コンキスタドールの悪行の告発というものだった。1542年11月インディアス評議会はインディオ奴隷の廃止とエンコミエンダ制を1代限りにするというインディアス新法を公布した。 1544年5月15日スペイン国王に代わりペルー内で国王の代理として統治する初代ペルー副王、ブラスコ・ヌーネス・ベラがリマに到着した。それに納得がいかない今は亡きフランシスコ・ピサロの弟ゴンサロ・ピサロは蜂起した。ゴンサロ・ピサロはリマに軍を向けると、今度は背後からマンコ・インカがクスコを狙った。スペイン副王側はマンコ・インカとの和平交渉を模索していた。ゴンサロ・ピサロ等コンキスタドール、エンコミエンダ領主達はまさに挟み撃ちになった。 マンコ・インカは当時アルマグロの残党を匿い、西洋の軍事を彼らから吸収した。しかし、アルマグロ残党は最後まで差別主義者の十字軍だった。その恩を仇で返し、マンコ・インカを襲った。アルマグロ残党は逃げたが捕まってしまい、その後20年以上亡骸を晒すというその悪行の報いを受けることになる。マンコ・インカはこの時負った怪我で死亡してしまった。皇帝はその子サイリ・トパックが継承した。当時、スペインが擁立したインカ皇帝パウリュはキリスト教に改宗してしまい、インカ皇帝として権威は落ちていた。タワンティンスーユという世界では再びインカ側が官軍の地位に就きつつあり、そこにキリスト教世界の副王が来るという激しい文明の力学の時代でもあった。しかし、マンコ・インカの死亡により、ゴンサロ・ピサロは背後を脅かされる心配が無くなった。1546年1月18日ゴンサロ・ピサロはペルー副王ベラを殺した。2代目副王もエクアドルで敗死してしまった。しかし、このことはゴンサロ・ピサロやコンキスタドールがキリスト教世界で賊軍になったことを意味する。1548年8月副王に代わり副王軍を組織したペドロ・デ・ガスガはゴンサロ・ピサロを倒し、ゴンサロ・ピサロは誅せられた。 ここでゴンサロ・ピサロが勝っていたらアメリカ合衆国の独立戦争と同じになっていたのだろう。アメリカ植民者達はイギリスに利益を還元すること拒み、イギリスから離れた北アメリカ東海岸にてイギリス支配から自由となる新しい植民領主となることが目的だった。ピサロが南米にスペイン支配から自由なエンコミエンダ領主世界を作りたかったのと同様だ。そのイギリス植民者達も、白人貧困層、黒人奴隷の上に立つ階級社会を作った。帝国主義はこのようにその国からあぶれて自由を求めた人々の手で成されることが多い。近代の日本帝国主義の場合も、統帥権を盾に大陸で軍閥のように跋扈した将校達によって拡大してきた。時にそれは中央政府がコントロール出来ないものとなる。スペイン王室は早い時期からそれをコントロールし、自分のものとしようとしてきた。ただ、ピサロの遠征のようなものは最初から期待していないものだった。中国やインカのような中央集権体制ではそのような勝手は許されない。征服も遠征も中央の意図だった。漢の武帝の時代の張騫の中央アジア探検も中央の意図だった。玄奘三蔵のガンダーラ旅行のようなものは当時国境を封鎖していた唐の意図を信仰心で潜りねけて行われるものだった。ピサロが少なくともスペイン王室のお墨付きをもらっていたのとは異なる。中国からはみ出した者は国家と決別し、華僑のようにその地に住み込む者だった。帝国主義はこのように国家からはみ出した者との緩やかな連携により行われる。中国の中央政権も遠征や征服を行うがそれはいつも一時的なものとなる。むしろ異民族に征服されることにより、その異民族を中華にしてしまうことが多い。現代の資本主義化した中国の民族問題は帝国主義的な要素を持ち始めている。毛沢東時代のキリスト教のようなイデオロギー支配が終わったタイミングが切り替えの効く契機だったが、今はそのタイミングを逃している。文化大革命当時は強制もあったにしろ、ペルーにおける反インカ部族のように、または、ネパールの毛派ゲリラのように、主に貧困層のチベット人紅衛兵、ウイグル人紅衛兵がいたことも忘れてはならない。当時は新疆生産建設兵団や下放を除いて、自ら辺鄙なチベットやウイグルに行く漢人は少なかった。チベット、ウイグルについてはペルー征服とも類似性が高いが、ピサロのような人物は新疆生産建設兵団の王震が当たるだろう。王震は新彊ウイグル自治区で沙皇と言われたが、中央との軋轢も多く、文化大革命期は弾圧されている。チベットについては最初は穏健的だったことからスペイン副王が最初から来たイメージだろう。 話を戻すとピサロ家のペルーでの政治生命はここで絶たれた。ただ、財産は莫大であり、それをスペインに収監されていたエルナンド・ピサロはフランシスコ・ピサロの娘がスペインに戻ってきたの機に結婚し、自分の物としようとした。しかし、ゴンサロ・ピサロの財産はペドロ・デ・ガスガによって没収された。それでもピサロの兄弟の中でなんとか生き残ったのは、アタワルパや、マンコ・インカとも仲の良かったエルナンド・ピサロだった。タワンティンスーユの世界の一部はスペイン本土まで渡っていたのである。 ガスガは共通の敵コンキスタドールが倒された後もインカとの和平を模索していた。1549年スペイン側のインカ皇帝であったパウリュはサイリ・トパックとの交渉を行った。パウリュはペルー副王から保護されすっかりスペイン化していた。ところが、本人がビルカバンバに行く途中、病気になってしまい、死亡してしまった。その後も交渉が続けられ、1557年サイリ・トパックはインカ皇帝の身分を捨て投降した。クスコに着いた時、カハマルカでアタワルパを捕らえた部隊の一兵士がアタワルパの房飾りを返したという。 しかし、1561年サイリ・トパックが死亡してしまった。それを機になおもビルカバンバに残る者とサイリ・トパックとともに帰順した者の一部が合流し、ティトゥ・クシを皇帝とし、トゥパック・アマルを太陽神官として再びビルカバンバで独立する。それと同時にペルー中部ではタキ・オンコイ運動というキリスト教から土着神ワカに回帰する運動が行われた。この運動は幕末で行われた「ええじゃないか」と同じように非暴力だが、踊り狂うという運動だった。搾取を行ったエンコミエンダ領主から、平和裏にインカ問題を解決しようとするペルー副王に変わったが、インカの人々にとってはペルー副王の官吏達の搾取も重かった。貨幣経済の導入により貧富の差が拡大し、土着神ワカに基づいたアイユの長クラカと住民の関係も殺伐としたものとなっていた。当初からスペイン側に味方した部族の反乱計画すら発覚した。スペイン本土でラス・カサスはペルーの支配権はインカに帰すのが正当であり、スペイン国王の統治は違法であると言って1566年に亡くなった。 ティトゥ・クシのインカ自体はスペインにとってもはやなんの脅威も無いほど弱小の勢力だった。スペイン国王としては今後の統治として侵略者であるという汚名を雪ぐ必要があった。1565年ビルカバンバで和平交渉が行われた。その時ティトゥ・クシの親衛隊は450人しかいなかったという。そこでスペイン国王はビルカバンバに立て籠もるティトゥ・クシを正当なインカ、そして軍隊を持つ権利を認め、その代わりにスペイン人の官吏と教会を置き、次期にティトゥ・クシがビルカバンバを出てクスコに移るというアコバンバ条約が結ばれた。当時のスペイン国王フィリペ二世はこの条約を締結出来たことを褒めた。スペイン側の狙いはインカの自然消滅だった。ティトゥ・クシをインカ皇帝ではなく、パウリュのように一貴族にすることが目的だった。貴族階級というものはこのように懐柔によって出来上がり、特権を持たせることによって国王への忠誠を誓わせ、さらなる多重搾取構造を作り上げる。 1568年にはティトゥ・クシはキリスト教に改宗する。しかし、ビルカバンバからは未だ出ていなかった。ビルカバンバにはスペイン支配に不満を持つ者が未だ集まっており、改宗を告げることによって条約の履行を示しつつもも、スペインの一貴族という搾取者の一員になるのではなく、その抵抗の象徴としての立場を維持し続けた。ヨーロッパ文明はタワンティンスーユを吸収しつつもビルカバンバに尚もそれに抵抗する空間を作ってしまった。しかし、以前のタワンティンスーユの大らかさと異なり、非常に追い詰められて緊張感のある空間だった。 スペイン王室としてはこのような構造の極が存続し続けることを問題視していた。1569年インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガが「残忍な男」と記すフランシスコ・デ・トレドがペルー副王に就任した。フィリペ二世はラス・カサスに影響された神父達に気をつけろといった。トレドはラス・カサスの著作を閲覧禁止にした。ここに来てラス・カサスに影響を受けた神父達もスペイン王室に利用されるのではなく、その抵抗者になったことになる。まず、コンキスタドールやその子孫のエンコミエンダ領主の弱体化のため、エンコミエンダと住民の間に官吏を入れた。1542年11月にエンコミエンダ領主は一代限りというインディアス新法はその打倒目的であるゴンサロ・ピサロを倒したことにより緩和されていた。エンコミエンダ領主からペルー副王にさらに力を移行するものだったが、その移行期間は2重搾取が発生していたことになる。また、その労働力でスペイン型の町を建設し移住させた。ヨーロッパ文明に吸収されつつも残ったタワンティンスーユの残滓をこれで取り除こうとした。その姿はかっての侵略者コンキスタドール達にもインカ時代の郷愁を惜しみ、反感を持つ者がいた位だった。 ティトゥ・クシは新しいペルー副王を脅威に感じ、直接スペイン王室に対して交渉している。そこでスペインのペルー侵入とピサロのアタワルパ処刑は正しかったとしている。インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガが『インカ皇統記』でアタワルパに対して否定的で、ワイナ・カパックの予言でスペイン支配を肯定していることもこのへんの事情があるのかもしれない。ティトゥ・クシはトレドへの歩み寄りを模索していた。 ところが1571年ティトゥ・クシは死んでしまう。ビルカバンバにいた神父ディエゴ・オルティスが治療のため飲ませた薬に毒が盛られたためとされて、ディエゴ・オルティスは虐待の上殺されてしまった。だが、ディエゴ・オルティスはそのような神父ではなく、わざわざビルカバンバのような奥地まで来て、神父というよりも医者として現地でも尊敬されていた人物だった。むしろ、ラス・カサスに影響されて来た神父と言えるだろう。スペイン人に裏切られ続け、アンデス山脈に閉じこもったインカは内ゲバ殺人を行った連合赤軍のように歪んでしまった。18代皇帝トゥパック・アマルが擁立された。歩み寄りを見せていたティトゥ・クシと異なり、教会を焼き、国境を閉じ、アコバンバ条約を破棄した。ティトゥ・クシは内ゲバで殺されたとも、トレドの放ったスパイに殺されたという説もある。先々代のサイリ・トパックについてもそのような説もある。 ![]() Aで引用した通り、1847年アメリカで刊行された『ペルー征服』で著者ブレスコットは「インカ帝国は既に滅亡し、その跡に何物も残さなかった。」としたがそうであろうか。18世紀にはホセ・ガブリエル・コンドルカンキが最後の皇帝トゥパック・アマルの末裔を名乗ってスペインに反乱を起こした。ブレコットの死後、マチュピチュが発見されたが、農村ゲリラ、センデロ・ルミノソはインカのようにマチュピチュのある山岳地帯に立てこもり、80年代はこの地に足を踏み入れることは出来なかった。ビルカバンバの場所は一時期マチュピチュとも言われ、その場所が分かったのは近年になってからだった。また、都市ゲリラはトゥパク・アマル革命運動を名乗り、1996年には日本大使公邸占拠事件を起こしている。80年代は抵抗のシンボルとしてペルーでもパンク・ロックが流行した時代でもあった。また、アメリカではブラックパンサー党の息子のヒップホップMCがトゥパック・アマルを名乗っている。2001年にはペル―で初の先住民の大統領アレハンドロ・トレドが就任した。もし、スペイン人が来なかったとしてもインカ帝国はその後100年保ったかどうかわからない。しかし、スペインの暴虐があったからこそ、その抵抗のシンボルとして現代に至るまで生き残った。植民地政策が作った搾取の構造は現代に至るまで抵抗の素地を作ったのだ。それが追い詰められた緊張の中で矛盾に満ちていたとしても。 スペイン本土の構造の矛盾がピサロやアルマグロのような悪の十字軍を作り、タワンティンスーユの調和を侵食した。ラス・カサスの信仰への真摯な態度も結果としてスペイン帝国主義に利用された。しかし、ラス・カサスに影響された神父達は、オルグに失敗する共産主義者のように、過去のスペイン十字軍の裏切りの中で歪んだ先住民に虐待すら受けつつも、抵抗の側に立った。銃、病原菌を作り出した家畜、鉄という文明の利器もその作られる過程においてはその後災厄の結果は知らない。最後はその災厄の結果を作る帝国主義についてどう対処するべきなのか。今まで見てきたインカにおける文明の衝突から導き出していきたい。 H25.09.11 |