インカにおける文明の衝突についてA




 これから主にウィリアム・ヒックリング・ブレスコットの『ペルー征服』を追っていきます。本著は1847年アメリカで刊行された。南北戦争、ペリー来航より前になる。当時はマチュピチュも発見されていない。中国は清朝の時代。帝国主義の真っ只中だった。本著の記述もピサロ等コンキスタドールの略奪の非も描くと共に、キリスト教の光といった表現でその他を愚昧な迷信と断じ、欧米中心の世界観を覗かせる。また、帝国主義の内からの記述でもあった。

インカの人民達は彼らを郷土に束縛する卑賤な職業に辛棒強く穏やかに従事した点で、ヒンズー人や中国人のごとき東洋国民に大いに似ており、荒海に運命を開拓し、地球上のもっとも遠隔な地方と通商を開いた、雄壮な気質の大アングロサクソン族とは似ていなかった。
『ペルー征服(上)』石田外茂一 真木昌夫訳 講談社学術文庫 P.104

 これとともに平等よりも個人的権利を尊重するアメリカの建国理念に基づき、このヨーロッパによる新大陸侵略を正当化する記述も見受けらる。

我が共和国の制度とかくも対立する制度の本質及び意義を完全に理解することは容易ではない。我が国では何人も、たとえ卑賤な境遇にあろうとも、国家の最高な名誉を望むことができ、出世の道を選び、思い思いに運命を開拓することができる。知識の光明は選ばれた小数のみに降り注がず、日光のごとく遍く照らし、貧富を問わず等しく頒たれる。また人と人との切磋琢磨は隠れた才能を覚醒せしめ、精力を最高に発揮せしめる。独立の意識は専制政治下の臆病な人民に知られざる自己信頼の感情を育くむ。要するに我が国では政治は人民のために行われ、ペルーにおけるごとくいわば政治のために人が存在するのではない。新大陸その特質においてかくも相反した二種の政治体系が実演された舞台である。インカ帝国は既に滅亡し、その跡に何物も残さなかった。他の一大実験――旧世界で長い間争論された人間の自治能力なる問題を解決する実験――は今現に行われつつある。噫! もしもそれが失敗したならば、人類の運命やいかん!
『ペルー征服(上)』 P.123

 まず、18,19世紀のアメリカ合衆国とインカを比較しても仕方が無いが、自由と権利を尊重するのはよしとしても、一大実験等と言うところなど、毛沢東の大躍進政策も彷彿させる寒気がする記述となっている。150年前に書かれた文章なので仕方が無いが。ただ、個人が知識を持ち、思い思いに未知の領域を切り開くというところが、5世紀にも渡る欧州の帝国主義が他の文明を凌駕したという点は注目出来るだろう。それと対立する容易に理解出来ないとすら記述されるインカの統治というものはどのようなものだったのか。

 カハマルカでピサロに捕まったアタワルパはインカの13代目皇帝とされる。インカでは皇帝の亡骸はアンデス山脈の乾いた空気に自然乾燥されてミイラにされる。そして太陽の神殿に祀られ生前のままのように扱われる。ピサロがアタワルパを処刑し、共に捕らえていたアタワルパの兄弟トパルカを皇帝として擁立していたが、クスコ到着前に死亡してしまった。そこでクスコにいた同じくアタワルパの兄弟マンコ・インカを擁立した。そこでクスコ中で饗宴が行われた。太陽の神殿からは歴代皇帝のミイラが持ちだされ、生きているかのように酒宴に参加したという。そのスペイン人が見たミイラは私が受けた埼玉大学の講義では9代から12代まで4代だったという。(※) そのため1〜8代を日本の天皇の欠史8代のように実在を疑う声も現在ある。初代マンコ・カパックは太陽神の息子とされ、日本の天照大御神から神武天皇の系譜のように、神話の世界から地上世界を繋ぐ系譜となっている。このように血筋と神を神話で繋ぐ系譜は人類学においては珍しくない。キリストの三位一体も同様だ。このようにインカ帝国は神権政治に基づいている。

※ビルカバンバでスペインに抵抗していた17代インカ皇帝ティトゥ・クシが1570年スペイン皇帝に宛てた文書(ティトゥ・クシ・ユパンギ『インカの反乱−被征服者の声』染田秀藤訳 岩波文庫で邦訳されている。P.126)では、1539年のゴンサロ・ピサロによるビルカバンバに立て篭もるティトゥ・クシの父15代皇帝マンコ・インカに対する追討戦で、8代ビラコチャン・インカ、9代パチャクティ・インカ、10代トパ・インカ、11代ワイナ・カパックのミイラが奪われたとしている。アタワルパの暗殺者に殺されたとされるワスカルはミイラ化されていなかった可能性もある。ただ、この文書はティトゥ・クシの兄だった16代インカ皇帝サイリ・トパックが弟とされ、その戴冠すら認めておらず、アタワルパだけでなく、ワスカルも皇位の簒奪者としている。また、マンコ・インカの1536年の蜂起の前に、パスカクという父マンコ・インカの兄弟がマンコ・インカの暗殺を謀って事前に見つかり殺されたとあるが、実際パスカクは従兄弟でマンコ・インカの1536年クスコ包囲時はスペイン側について1537年に死亡している。皇位継承については非常に恣意的な記述となっている。H25.09.14追記。

 ゴンサロ・ピサロに奪われた先祖の亡骸の中にバナカウリという名も記載されている。前回追記時はインカ皇帝ではなく、ミイラでもないためにあえて記載から外したが、グワナカウレとも言われ、1540年頃キプカマヨクという代々のキープの記述者達をヒアリングした『キプカマヨクの報告書』では初代マンコ・カパックは石像に変身した兄弟を携えてクスコにやってきたという伝説があり、その石像のことである。第3次遠征から参加したペドロ・サンチョの『ヌエバ・カスティーリャ報告書』では、クスコで目撃したワイナ・カパックのミイラと共に、石膏や粘土で作られた像もあり、頭髪と爪を付け、生前来ていた衣服を身に着けていたという。(フランシスコ・デ・ヘレス ペドロ・サンチョ『インカ帝国遠征記』増田義郎訳 中公文庫2003 P.230) ミイラ化できなかったインカ皇帝はこのように石膏、粘土像として祭られていたようだ。H27.10.19追記。

 インカ帝国とここでも呼んでいるが、インカとはインカの王を指す。当時はタワンティンスーユと呼ばれていて意味は「四つの州」つまり、全世界を指していて、中国における中華思想に近い。インカをここでも皇帝と呼んでいるが、中国の皇帝が世界の王を指したように、ここでも皇帝と呼ぶようにしている。当時のペルーの人々が行くことが出来る、その外から見れば南米西側の閉ざされた世界だったが、彼らにとってみればそこが世界全てだった訳だ。ただし、現在のエクアドル、当時キートと呼ばれた地には別の王国があり、そこを征服したのはアタワルパの父11代皇帝ワイナ・カパックの時代で、当時としても彼らの全世界を統治したのはスペイン人侵入まで間もないことで、その閉ざされた世界の中でも己が世界の皇帝であると帝国と帝国が帝国主義をしていた訳だが。

 インカ帝国では金や銀、銅が豊富に存在していたにも関わらず貨幣経済が存在しなかった。しかし秤は持っていてそれで物々交換は行われていた。また、インカ帝国では貨幣経済は無かったが、貨幣は知識としては知っていた。ペルー西部のチンチャでは銅が貨幣として使われた。キート王国でも貨幣経済があった。インカ帝国の統治では貨幣経済を否定したのだ。ここにインカ帝国の統治の本質がある。

 インカ帝国を構成する社会単位は百人以上のアイユという単位にクラカという長が置かれた。この単位は相互扶助の単位としてあった。個人が富を持つのではなく、アイユで富が共有され、働けない者に対しても食料は分配された。人民公社のような単位だった。ブレスコットはこのような制度は土地に対する愛着心や土地を改良する欲望を殺してしまうと非難している。人民公社の末路を考えればそれは当たっていなくもないが、アイユにはワカという土着神があった。そのワカに対する奉仕を物ではなく労働として人々は提供した。ワカに提供する労働としては神殿の建造が行われた。インカの建物の石と石の間の隙間が無い石積み技術は当時の世界でも類例を見ない技術だった。その報酬として三日間の断食の後行われる祝祭があった。農耕民族の信仰らしく、4つの季が祝われ、玉蜀黍の酒やリャマの肉が振る舞われた。南北アメリカ大陸、特にアステカでは人身御供の生贄が行われたが、インカ帝国ではそれが戒められ、そこがインカ帝国が大帝国になった理由でもある。その制度をミッタ制という。スペイン副王がこの地に統治を始め、労働と収穫の再分配であったのが納税が貨幣で行わるようになった時、その重税にペルーの人々は苦しむことになる。最初に征服者としてやってきたエンコミエンダ領主は領内を私物化した。その後やってきたスペインの官吏もまた中央の目を盗んで搾取を行った。労働サービスであれば搾取するにしても限界があり、また貯めこむことも出来なかったが貨幣制度の流入とともにそれは際限のない搾取に変わったのだ。インカ帝国の統治に不満がありスペイン人を解放者として迎えた部族もこれで昔の方が良かったと思い知る。

 小さい単位のアイユの上に大きい単位のアイユがあり、その上にはタワンティンスーユつまり4つのスーユ(州)があった。州の長官はアポクーナと呼ばれた。その下に小地域の地方長官トクリクック、巡査役トクイリクックもいた。そしてその上にインカ皇帝と絶対神である太陽神がいた。地方が貯蔵する食料は中央に上納される。このような経済としてインカ帝国は成り立っていた。その大きな単位の労働で行われた事業として帝国を縦断する道路や溝渠、水路の事業だった。インカ帝国はべレスコットの死後アメリカで行われたニューディール政策の先駆だった。マックス・ウェーバーが描く『プロテスタンティズムと資本主義の精神』で行われた際限のない富の蓄積ではなく、蓄積出来ないあるがままの労働でそれは行われたのだ。そして統治を行うインカ皇帝の元で法令が作られた。文字を持たない文明の法令のため単純苛烈なものであったが、太陽神の権威の元でそれは運用され、下級法廷から上級法廷を通してインカ皇帝まで裁判の経過は報告され、法の濫用は抑えられた。また、キープという縄文字をもって戸籍が作られ、全国の出生や死亡が登記された。『銃・鉄・病原菌』の作者ジャレド・ダイアモンドは社会の発展について集権化を挙げるが、その中央集権化においてインカは相当進んだ社会でもあった。

 ただし、ブレスコットの引用のように自由のある社会では無く、硬直した中央集権社会でもあった。当時清朝であった中国のように未知の発見よりも模倣が重視されるとブレスコットに評される技術でもあった。キープが使えるのも高級官吏に限られて一般の人々には盲従が強いられた。神殿建設の石積みの技術にしてもそうだった。結婚は宗教の元で行われる集団結婚で自由恋愛は無かった。また、太陽の神殿には神に仕える処女が国家的に集められた。後にスペイン人侵略者達はそれを陵辱した。北朝鮮やキューバを見ても最初は世襲を否定していても、体制を維持するために世襲に走らざる得ない社会原理がある。また、その他の共産主義国でも宗教を否定しつつ、指導者の銅像やモニュメントを建設し、宗教的にしか見えない国家構造を作り上げる。貨幣経済も無いインカ帝国はある意味、最も共産主義国的だったとも言えるだろう。中国においても秦の始皇帝から始まった中央集権体制は、宋代朱子学において文と権威で競争させる中央集権官僚体制を作り上げた。満州族という異民族が統治した清朝においてもそれは受け継がれ、19世紀帝国主義の時代にその鈍重さを晒すこととなる。それでもインカ帝国はキート王国を征服したばかりで、その重さに耐えかねる帝国ではなく、まだ活気のある帝国でもあった。次回はこの帝国と欧州帝国主義の衝突を追っていきます。




H25.08.18

back