インカにおける文明の衝突についてCシエサ・デ・レオンの『インカ記』の第二部(『インカ帝国記』(岩波文庫 増田義郎訳)として邦訳されている。)第69章によるとピサロの第2回目の遠征で1527年トゥンベスでインカの人々と交流をした際、キートにいたインカの11代皇帝ワイナ・カパック(※1)にその情報が伝えられたという。ワイナ・カパックは首都のクスコではなく、現在のエクアドル北部に遠征に来ていた。インカ帝国の征服は基本的に王道らしく懐柔だった。だからと言って彼らが大戦を経験しなかった訳ではない。後の第12代皇帝ワスカルとその兄弟第13代皇帝アタワルパの戦闘では15000-16000人という死者が出ている。ワイナ・カパックはトゥンベスに残った二人のスペイン人について興味を持ち、連れてくるように言った。シエサ・デ・レオンが聞いたところによると、現地人が先にスペイン人二人を殺してしまったのでワイナ・カパックが怒ったという人や、ワイナ・カパックが死んでしまったので現地人がスペイン人を殺してしまったという人や、スペイン人がただ死んでしまったという人がいて、当時(1535-1547年の間)でさえ情報が錯乱していた。そして伝染病が流行し20万人が死亡し、ワイナ・カパックもそれで死んでしまったという。彼が死んだ際は4000人が殉葬されたという。インカ帝国は人身供犠や食人を止めさせたが、殉葬という習慣は残っていた。後にピサロに捕まった13代アタワルパが処刑されてキリスト教式で葬儀が行われた際、妻や妹達が乱入し自分達はインカの墓に贄となって、霊魂の世界に伴い行くのだ口々に言ったという。スペイン人達はキリスト教の神はそんな犠牲を嫌悪すると止めたが、そのうち何人かは家に帰った後自ら命を断ったという。近代日本においても、明治天皇の崩御の際、乃木希典がそれに殉じた。殉死はそれを認めてしまうと人身供犠を認めてしまうことになるが、その心象は様々だ。乃木希典は日露戦争の旅順攻略における多数の死者を思いながら殉じたが、ワイナ・カパックも殉じた人々の心象はどうだったのだろうか。ともあれ、インカの地に残ったスペイン人二人も死に、大陸からやってきた伝染病が猛威を振るい、インカ帝国最盛期を築いたワイナ・カパックにも死をもたらせた。(※2) ※1 シエサ・デ・レオンは実はワイナ・カパックを12代皇帝としている。8代ビラコチャ・インカと9代パチャクティ・インカ(これもシエサ・デ・レオンはインカ・ユパンキと記載している。)の間にビラコチャ・インカの長男インカ・ウルコが即位しているという。シエサ・デ・レオンと同時期にペルーにやってきて共に交流もあったフワン・ディエス・デ・ベタンソスの『インカ史総説』によると沿岸部のチャンカ族が攻めてきた時にビラコチャ・インカとインカ・ウルコは逃げ出してしまい、パチャクティ・インカがチャンカ族を撃退したが、ビラコチャ・インカはその戦勝を妬み、インカ・ウルコに戦勝の儀式をやらせようとした。その間に対立があったとしている。現にシエサ・デ・レオンはビラコチャ・インカを「インカのあの素晴らしい政治への道を開いた」人物としているが、1540年頃キプカマヨクという代々のキープの記述者達をヒアリングした『キプカマヨクの報告書』によるとビラコチャ・インカが讃えられ、パチャクティ・インカが蔑まれている。詳細は柴田秀藤『インカ帝国の虚像と実像』(講談社選書メチエ 1998)の3章を参照。インカ継承を巡るインカ王族の対立はピサロの死後、スペイン副王の時代まで続いている。それはインカ中興時から続いてことを物語っている。もしも、ピサロが来ず、アタワルパの治世が続いたとすればワスカルの即位は削られた可能性がある。中国の殷の系図でも甲骨文字では記載された王がその後の文献資料では削られたり、追加されてしており、その相似が興味深い。(落合淳思 『殷−中国史最古の王朝』中央公論新社2015 リンク先の書評を参照。)インカも殷も一系列ではなく、系列が併行する相分王朝説が存在する。インカの起源も考古学的に11世紀に遡ることがわかっており、12代で500年となり、嫡子相続でなく、両家が代わり代わりに帝位につく相分王朝ならば落合淳思氏の殷18代武丁から25代帝辛で300年という1代が37.5年という長い治世も可能なのかもしれない。また、ケチャ語では兄弟という言葉が従兄弟も指すとのことなのでそれにも注意が必要となる。H27.10.17追記 ワイナ・カパックは多くの妻妾を持っていて多数の子がいた。ワスカルとアタワルパは異母兄弟でアタワルパの方が年上だったが、ワスカルの母がワイナ・カパックの妹であったため、ワスカルが第12代皇帝となった。アタワルパは一方父と共に従軍してキートにいた。アタワルパの母はキート国王の娘だったという。(※) ワスカルがクスコで皇帝となった後も、アタワルパは遠征に来ていた将軍達と共にキート周辺現在のエクアドルの辺りを実効支配した。この分裂についてはインカ帝国の太陽神を中心とする一極の中央集権体制の脆さでもある。ワスカルとアタワルパの個人的な確執もあるのだろうが、ワイナ・カパックの北方遠征中のタイミングでこれが起きたことが、それに随行した将軍達とその地域部族と、クスコの貴族達の構造的対立を起こした。ピサロの第二回遠征とワイナ・カパックの北方遠征のタイミングが合ってそこで伝染病が蔓延してしまったこと。これがピサロによるインカ征服を容易にしてしまった。ヨーロッパの場合、概念としての世界を象徴するローマ教皇とは別に、各地域に実行支配する王がいた。その王を取りまとめるのが神聖ローマ皇帝で、当時はまさにスペイン王のカルロス5世が神聖ローマ皇帝だった。このようにインカにおける土着神ワカよりも大きい単位で王国があり、それを取りまとめる神聖ローマ皇帝があった。インカの太陽神はローマ教皇と神聖ローマ皇帝を兼ねていた。このような一極支配はタワンティンスーユという4つの州の彼らにとって世界全体が支配されつくして飽和した時、崩れやすい。遠征に出ている将軍達もこれ以上征服して自身の支配を拡張出来ないからだ。このような関係は日本の鎌倉幕府成立から承久の乱にかけての鎌倉幕府と京都の朝廷との対立にも見て取れる。平清盛は京都中央で官職を築き上げることで実権を強めていったが、福原、現在の神戸に移動し、中央に干渉されない体制を築きあげようとする。源頼朝はそれよりももっと離れた関東に政治基盤を置き、中央の影響を排除した。アタワルパもクスコに戻らないことで自らの基盤を築き上げた。そして両者の間に大きな戦いがおき、ワスカルの軍を破った。エクアドルのブナ―島から東にあるトメバンバという地で帝冠を宣言し、13代インカ皇帝となった。この地はピサロが当時いた場所と極めて近い。そして一気に南下し、クスコを占領し、最後ワスカルを残してワスカル派の親族、妻、息子、有力者を殺害した。一見残虐に見えるがワスカルの背景や血統を断ちつつもワスカル自身を殺さなかったことが、個人的な対立よりも構造的な対立であったことを物語る。アタワルパ自身はクスコに入らず、北に戻りカハマルカに駐留した。源頼朝も平家追討は木曾義仲や義経にやらせて自らは鎌倉を離れなかったことと似ている。 ※『ペルー征服』ではアタワルパの母がキート国王の娘としている。シエサ・デ・レオンはその説が当時流布されていたが、キート国王はインカ皇帝であるとその説を否定している。(『インカ帝国記』P.368(岩波文庫 増田義郎訳) 『インカ記』より後に書かれた『インカ皇統記』(『インカ皇統記(四)』P.180牛島信明訳 岩波文庫)によるとやはり残されたキート国王の娘であったという。インカ・ガルシラーソ・デ・ベーガはシエサ・デ・レオンの『インカ記』も読んでいる。 アタワルパはスペインがインカを征服し、スペインが解放者ではなく、侵略者だとわかった後もインカの人々からインカ帝国を滅亡させた帝国の簒奪者と見られたらしい。それほどアタワルパがインカの人々に恨まれたことがピサロに大義を与えた。まさにピサロ本人の知る由もない絶好のタイミングだった訳だ。しかし、アタワルパは無能だった訳ではない。少し太り目であったが筋骨隆々とした30代の若い皇帝だった。ピサロに捕らえた後すぐにスペイン語を理解した。サイコロやチェスを覚えすぐに上手になったという。また爪に彼が初めて知る文字、スペイン語の語句を書き、ピサロは文盲で読めなかったが、その反応を見て楽しんだという。 話をピサロの第3回遠征に戻す。ブナ―島に終結したピサロの軍勢370名は、トゥンベスの人々と戦争をし、最初は快く出迎えたブナ―島の原住民と衝突する。その戦闘は20日間にも及んだ。そこで3、4人の死者と怪我人を出した。トゥンベスに偵察に出した二人も殺されてしまった。この滞在でインカ帝国においてワスカルとアタワルパの争いの情報も手に入れた。そしてトゥンベスに到達し、5年前とはうって変わって荒れ果てたトゥンベスの町を見た。さらに南下し、トゥンベスから90マイル(145km)離れた河口にサン・ミゲルと名づけた港町を建設しここを基地として偵察を行った。そして1532年9月24日歩兵110名、騎兵67名、火縄銃12丁、ボウガン20丁、軽大砲2門という軍隊を率いて出発した。五日目に部下を集めて本心から遠征に従軍出来ない者、些かな疑念を抱く者は帰れと言った。これにより4人の歩兵、5人の騎兵は帰ってしまった。ピサロはこの不満者が他の者に悪影響を及ぼすのを見逃さなかった。ピサロには2回目の遠征でもガーリョ島の砂地に剣で線を引き、富を欲し危険を覚悟する者と、貧乏のままで安易と快楽を願う者を分けている。(※)また、ピサロは全部隊に公平に食料を配分する等、その兄弟エルナンド・ピサロが部下にあたるのとは対照的だった。一兵卒を長いこと経験し一兵卒のモチベーションを上げることに熟知した老練な叩き上げの現場監督だった。このような人物が大軍ではなく、数百人ほどの軍勢を率いると強い。ピサロの部隊は第1回の遠征からこのような冒険で鍛えあげれた部隊でもあった。ピサロの容貌は均整がとれていたが、服装は無頓着で首にはタオルをいつも巻いているという出で立ちだった。またでしゃばることはなく、後のアタワルパ処刑についてもピサロが何を考えていたかがわかりづらかった。ある者にはピサロがアタワルパに同情しているようにも思えたが、ピサロは、アタワルパと仲が良かったエルナンド・ピサロをスペインに遣り、陣中をアタワルパが反乱をそそのかしていると思っている兵士で固め、暗にアタワルパ処刑の準備をしていた。また、実行に際しては大胆で容易に目的を変ずることはなかったが、物事を直ぐに決定せず、人から何かを懇願されるとまずノーと答え、熟慮して可能と考えれる場合のみイエスと答えた。最初からイエスと言って約束守らない解放的だが軽いノリのアルマグロとは正反対だった。心のうちを明かさず何を考えているかわからない狡猾な人間という表現も合っているが、ある意味ではイエス・ノーをはぐらかし、その場のモチベーションと結果を重んじる日本人的だったとも言えるかもしれない。このようなピサロの振る舞いが長く付き合った兵卒ほど深い信用を生んだと考えられる。また、スペイン兵であってもピサロのクスコ入城後、500人を率いてやってきたペドロ・デ・アルバラードが歩兵500人、騎兵250人、マヤ人の荷担ぎ数千人を率いてやって来るが、行軍中多数の死者をだし、キートのインカ帝国の総督ソペ・ソパワの砦を包囲するが落とせなかった。アルバラードはアステカ帝国征服に従軍した部隊長で残忍だが、けして無能では無かった。それだけピサロの遠征軍だけが鍛えぬかれた部隊だったことも示している。パナマ総督やスペイン王室の契約も綱渡りの中こなし、これだけ指揮官の空気を読み士気の高い部隊を作り上げたピサロの個人的な資質がカハマルカでの出来事の大きい要素となっている。 ※柴田秀藤『インカ帝国の虚像と実像』(講談社選書メチエ 1998 1章の3)によると、ガーリョ島の砂浜に線を引いたのは総督の命令で全員を帰還させにきたフラン・タフール。17世紀初頭に書かれたアントニオ・デ・エレーラの『十年代記』。それ以前には類似したことをピサロが言ったことは記載されている文献が一部あるが、代表的なものには記載すらないという。その場合、ピサロの扇動家としての能力よりも、帰還したがっている乗組員を前にして懸命に引きとめようとするピサロの悲壮感あふれる姿しか思い浮かばない。ピサロが砂浜に線を引いたと初めて記載したのは、ガルシラーソ・デ・ベーガの『インカ皇統記』。コンキスタドールとワスカル派のインカ王族の血を引く彼は、その後来たスペイン副王に対しては敵対心をもっていたが、ピサロに対しては好感をもって記載している。事実をもって何かを主張する時に事実以上のものを語り、それを読んだ別人がそれを繰り返す時に事実とかけ離れていくことには、私の文章も含めて注意が必要になる。相反する主張を足して2で割れば事実に近づくのではなく、事実が伝えられた経緯を追っていく必要がある。H27.10.15追記 ピサロは陸路進んだ。その間はインカ側の抵抗は無かった。アタワルパは何回か贈り物を持たせた使者を送っている。そこでピサロはアタワルパがカハマルカにいることを知る。使者からアタワルパへの報告はスペイン人た重い鎧で登り道をよろよろ歩いてる様子を見てたいした連中ではないといった報告だった。見たものはなんでも欲しがり若い女や金銀のコップ、上質の衣類なんでも我が物にし、何も残さない170-180人の指導者なしの放浪人で盗賊と報告している。火縄銃や馬、大砲の報告もされていたが、この報告でアタワルパはピサロを随分と過小評価して、もはや意に返さなかったようだ。アタワルパの叔父もサン・ミゲル付近の酋長だった通訳の使者がスペイン人がいかにすごいか、大砲が多くの人を殺すかを力説したが、その大砲も2門しかないではないかと取り合わなかった。従兄弟のペドロ・ピサロはもしも気にしていたら兵力の1/3を山脈の登り道に配置させ、待ち伏せにしていただろうとしている。ピサロはアタワルパの使者に対して、アタワルパを称えつつ、友情を望むならアタワルパの征服を助け、戦争を望むならアタワルパよりも強大なものを打ち負かしてきたキリスト教徒は打ち負かすと、友好と脅しを交ぜた回答をしている。そして、11月15日運命の地カハマルカに達する。 カハマルカ郊外の山麓には一面に天幕が張られ、アタワルパとその軍勢がいた。ピサロはカハマルカの町に入り、エルナンド・ソト15騎、兄エルナンド・ピサロ20騎をアタワルパの元に送った。先住民の通訳を通して自分達が海の彼方に君臨する強大な王の臣下で、王の大勝利の噂を聞いて助力するために、かつ彼らが有する真の信仰の教理を伝えるためにやって来たと伝えた。アタワルパは断食中を理由に何も答えず、明日自ら訪れることを伝えた。 カハマルカの中央には広場があり、その中央に宿舎があった。ピサロ一行はそこに泊まっていた。その様子は町の女達は笑っていたらしい。それだけの小勢で大軍を従える威厳のあるアタワルパと渡り合う姿は当時の空気としてよほど滑稽に見えたのだ。しかし、ピサロはコルテスがアステカ皇帝モンテスマ二世を捕虜にすることでアステカ征服を成功させた事例をここで再現させることを固く誓ってその準備を整えていた。アステカで起きたこと、そしてアステカ自体、インカでは知られていなかった。アタワルパは輿に乗りながら、数千人々が掃き清める道をゆっくりと行進した。軍楽隊のように歌い踊りながら共に進む人々もいた。アタワルパにとってはこの大軍で来た時点で勝利は確定しており、後は皇帝の威厳を見せるだけで懐柔出来ると考えていたようだ。 戦争の勝敗は戦う前の戦略でほぼ決まるとされる。アタワルパの敗因はタワンティンスーユというピサロ等、キリスト教の概念世界から見ると狭い世界でしか知る由もなかったことだった。馬、銃、大砲という見たこともない兵器の情報も得つつも、数の圧倒的な違いによりもはや戦闘を行う必要もない戦力差と認識し、ピサロの思惑を理解出来なかったためだ。実際スペイン側の唯一の損害が、アタワルパをかばい、部下に負わされたピサロの手の傷のみだった。いくらインカ側の武器が貧弱で、スペイン側は甲冑に身を固めているとしても、インカ側が少しでも抵抗したとするならばこれは有り得ない。アタワルパが伴ったのは掃き清める人々、踊り手というもはや戦闘をする隊列ではなく、インカ皇帝の威光をスペイン人に思い知らせる行列だった。(※)そして八万の軍勢の後方にいるのではなく、わざわざ自らの姿を見せて威厳をみせつけた。それほどタワンティンスーユではインカ皇帝は絶対的存在だった。タワンティンスーユの外にいたピサロは銃と鉄でそれを迎えようとした。また、皇帝自身がスペイン人を興味本位で見たがったというのが皇帝一極体制の弱点でもあっただろう。分権的な体制であれば絶対的な皇帝自ら行く前に、現場判断でピサロを殺すか捕縛しようとしただろう。ピサロは何回かの使者を通しての接触においても、わざと見くびらせるのではなく、インカ側を威圧して強行な態度に出た。ピサロ側もアタワルパがここまで見くびっているということをどこまで理解していたかも不明だ。決死の探検を繰り返し、黄金への欲望を満たす確率は極めて低い大博打に出ていたことは確かだ。ピサロ、アタワルパ両者はお互いの思惑を把握しきれていない状態で、結果から見ると序盤の戦闘の勝敗はこの前段階で決まっていた。ただし、アタワルパにも逃げ切り後方の大軍に頼むという選択肢もあり、ここで決まっていたのは序盤の戦闘で、ピサロの戦略目標のアタワルパを捕虜にすることが確実になった訳ではない。そうならなかったのはその時何が起きたかを見るしかない。結果が決まっていいないここまでの前段階において、当時のスペイン人から見ても、ピサロが八万の大軍を前にわずか168人でこの計画を変えずに実行したことは異常だった。ユーラシア大陸の文明と南米西岸の文明の衝突はこのカハマルカの事件が無くても、あるいはピサロがここで死亡してもいずれユーラシア側に決着が着いていたと考えられるが、ピサロがペルーを征服出来たのは両者の世界観の違い、そしてピサロ個人の資質があった。また、ピサロのような現場の叩き上げが提督になれるというスペインと、皇帝や貴族という一部の支配層に大多数の人民が依存するインカとの社会構造の違いもあった。 ※フランシスコ・デ・ヘレスによると、アタワルパ側の使者が前日ピサロ側の使者が武装して来たので武装させた部下を連れると答えたが、ピサロが友人、兄弟として迎えるつもりだと答えた。一度戻った後使者は再び来て、部下達と町の中に泊まりたいから武器無しで行くと伝えたという。ピサロの奸計がここで成功していたようだ。勿論ピサロ側としてはアタワルパが油断させるためという可能性もあったので腹の探り合いではあった。アタワルパ側に偵察に行ったスペイン人がシャツの下に投石機を隠し、密かに武装していると報告していることがその疑いを示している。しかし、あくまで遠くから見て推測したもので、アタワルパが非武装であったことは間違いないだろう。H25.08.28追記。 H25.08.26 |