井川義次 『宋学の西遷 - 近代啓蒙への道』④    人文書院 2009



 毛沢東が村の村の私塾に通った19世紀末20世紀初頭において、村の私塾は年銀4,5両(1両は銀37.5gほど)と、普通教育とは程遠い裕福な家庭でなければ入れないものだった。それにも関わらず授業内容は生徒を自分の机の前に呼びつけ、自分の後から繰り返させるだけの儒学の書物の暗記だった。読み方も大声で教師の模倣が強いられた。生徒達にいささかの関心も同情も示さず、竹の棒で厳格に権威を守った。その知識をエリートの独占物にすべく、習得をなるべく難しくするかのようだった。
 「『孝』という言葉は誤解の種であり、だまされてはいけない」と十九世紀末頃のアメリカ人宣教師は書いている。「われわれの知る限り、中国人の息子たちはあらゆる人々の中で、最も親不孝で従順さに欠け、自分たちの要求を伝えられるようになった時点から、ひたすら自分の思い通りにさせようと頑固極まりないのである」
(フィリップ・ショート『毛沢東-ある人生』上巻 白水社)
 漢字は権威だった。15世紀朝鮮半島においてハングルが誕生した後も、役人の公的な書記は漢字でなされた。日本においても平仮名が9世紀頃出来た後も、公的な文書では漢字が使用された。中国における官吏の試験、科挙は隋の時代から行われたが、生まれによる貴族階級に代わり、科挙による登用で採用された官僚が士大夫という階級を形成したのが北宋の時代とされる。そのような試験の選抜による官僚統治を体系化するものとして朱子学が形成された。その中心が皇帝で中央集権統治が行われて来た。選挙で選ばれる民主主義ではなく、学問の習得で選抜される統治。これをもって宋代で中国は近世入りしたという歴史観もある。朱子学が形成されたのが12世紀。800年に渡って中国はこの統治体制を維持してきた。現代の中華人民共和国も儒学に取って代わられたとしても、民主選挙が行われていない点でその官僚中央集権体制は続いていると言えるかもしれない。

 宋朝は朱熹が任官した頃に既に北方ツングース系狩猟民族女真族が建てた金王朝により華北から追い出され、華南に追いやられている。そして、13世紀にモンゴル帝国の元に取って代わられた。元においても、当初は縁故を重んじるモンゴル民族から科挙が認められなかったものの、復活された。14世紀になると白蓮教徒の紅巾の乱が起きてモンゴル民族は北に追いやられ、明朝が出来る。明朝の当初の統治は官吏や知識人を弾圧する横暴な統治だったが、科挙は復活され、明代には王陽明が陽明学を形成する。鏡のような理学を重視する朱子学に比べ陽明学の能動的な気風は王朝の空気が形成したものとも言えるだろう。宋朝は他民族からの侵入によって滅びたという側面があるが、明朝の場合は女真族の清が滅ぼしたというよりも、内部の汚職や反乱で自壊したという側面が大きい。李自成、張献忠の反乱による被害の凄まじさがそれを物語っている。清朝は安定したものの、ヨーロッパの武力介入、文化の流入の影響もあるが、これも民衆反乱や軍閥の跋扈等、最後は内部崩壊だった。これが中華民国の時代を通して中国を乱世にした。

 そんな革命直後の長沙に袁世凱は1913年忠実な保守派、湯薌銘を都督として置いた。後ろ盾の袁世凱の死後、1916年に打倒されるまで長沙に恐怖政治を敷き、五千人に及ぶ人々が政治犯として処刑されて「屠夫」湯と呼ばれた。そんな都督について当時22歳の毛沢東はこう手紙に記している。
 ぼくはいまでも湯都督を更迭すべきではなかったと思っている。かれを追い出したのは不正であり、状況はいまやますます混乱しつつある。なぜそれが不正だというのか。湯薌銘はこの地に三年いて、厳しい法律の厳しい施行により支配した。かれは(中略)平穏で友好的な環境を作り出した。秩序が戻り、過去の平和な時代が実質的に復活した。かれは軍を厳しく規律を持って統制した。(中略)長沙は実に正直な町となり、落とし物が持ち主のためにそのまま道ばたに残されたままとなっていた。ニワトリや犬でさえおびえなかった。(中略)湯薌銘は全世界の前に己の無実を訴えることができる。(中略)[いまでは古い湖南軍や政治エリートの]ごろつきどもがそこら中にいて、人々を尋問して逮捕し、逮捕した者を処刑している。(中略)政府のあらゆる役職から盗みにあったとの声があがり、裁判官の意向も無視されている。(中略)湖南の様子は不思議で狂っていることだろう!
(フィリップ・ショート『毛沢東-ある人生』上巻 白水社)
 多くの人々と文化が犠牲になった文化大革命期は、それと同時に職場の規律が自発的に守れたことを文化大革命を経験した中国人に聞いたことがある。中華人民共和国のボルシェビキ体制を萌芽が見て取れる文章だが、それと共にどんなに苛烈な体制であっても、乱世よりはましという動乱時の中国の過酷な現状を示している。

 官僚中央集権統治は上からの裁可が必要で図体が大きければ大きいほど遅く、また、地域への執着が無いために機能しずらい。金や元に宋朝が追いやれたのもそれが原因と言える。モンゴルは独自の統治システムを持っていたが、中国を統治する中で中国化した。しかし、モンゴル帝国の統治者であり、中国で統治者であるという二元性の問題を常に持っていた。その二元性はモンゴルにとって重荷だっただろう。元を北方に追いやった明は官僚中央集権体制であったが、より皇帝の独裁が強まった。しかし、それは皇帝と末端の乖離にも繋がっている。地方の自由度は高まるが汚職も増える。清は女真族の王朝だ。辮髪の強制等の皇帝の権威面には満州族の風習を取り入れるが、統治については中国型の統治をそのまま採用した。中央集権統治は安定と革命による乱世の繰り返しだ。

 儒学においては目上の者に対する忠が強調されるが、それとは別に『孟子』において王が民衆を顧みなくなった時、革命が肯定される。殷の湯王が夏の桀王を討った夏殷革命、周の武王が殷の紂王を討った殷周革命について以下のように激しく語る。
 曰く、其の君を弑す、可ならんや、と。曰く、仁を賊(そこな)う者、これを賊と謂う。義を賊(そこな)う者、これを残と謂う。残賊の人、これを一夫と謂う。一夫紂を誅することを聞く。未だ君を弑するを聞かざるなり、と。
(『孟子』「梁恵王下」篇)
 つまり、仁義をそこなう王は君ではなく、一夫だから殺していいということだ。皇帝の権威の元での中央集権体制。逆に言えば皇帝一点に寄りかかる体制だ。それは人としての皇帝ではなく、そのシステムそのものなのだろう。『礼記』によると夏、殷、周では8歳から14歳まで小学という学校に入り、普通教育が行われ、15歳から王、貴族、有力者の長男や優秀な者が大学に入れた。これを以って中国では祖先を崇拝し、古代国家にユートピアを見る。

 殷墟の発掘において大量の首の切断された遺体がみつかっている。西方甘粛省辺りの異民族の遺体だ。殷は祭祀と占卜により統治を行った。その際に生贄となった遺体だ。(※1)殷の紂王が周の武王に討伐された後、殷の末裔は周の支配下で宋という国を建てた。この国は戦国時代まで残った。武力よりも旧来の制度に重んじる国だった。孔子もまた殷の末裔という説もある。(※2)儒教の古代をユートピアと見る発想はここから来ているのかもしれない。しかし、殷はユートピアとは真逆であり、一夫以下の狂信的な殺戮体制だった。夏の遺跡とされる二里頭遺跡では殷が夏を滅ぼす際の死体が大量に見つかっている。(※3)殷はまた青銅器文化で、当初は宋のような儀礼国家ではなく、覇道で中原を統治した。その統治は紀元前16世紀から紀元前11世紀まで600年にも及んだ。周も戦国時代まで入れれば800年の統治だが、春秋時代が始まる紀元前8世紀には力を失ったことを考慮すれば実質300年に満たない。

※1 『殷-中国最古の王朝』(落合淳思 中央公論新社)によると戦争捕虜であるらしい。H27/03/21追記。

※2 『殷-中国最古の王朝』(落合淳思 中央公論新社)によると宋は周王朝が殷の末裔ということにしたが系譜の改竄によるものとしている。H27/03/21追記。

※3 二里頭遺跡でも殺害された人骨はみつかっているが、二里頭遺跡後期のものであり、殷によって殺害されたものかどうかは不明。私が勘違いしたのは2012年10月14日(日)に放映された『NHKスペシャル|中国文明の謎 第1回中華の起源 ~夏~』で放映された陶寺遺跡で牛の角で陰部刺された女性人骨が出土したもの。陶寺遺跡については二里頭遺跡から北西に山岳地帯を越えた先にあり、また、紀元前25世紀から19世紀の龍山文化の遺跡と、距離も年代も離れていて、殷が夏に対して行ったものではない。殷は夏を監視するために二里頭のすぐ東に偃師商城を築城したが、その後も二里頭で宮殿は増築されており、殷が夏を滅ぼし尽くしたのではなく、殷に服属しても、両者はしばらく、両立していたようだ。夏から殷への革命は後代の中国の革命に比べてそれほど苛烈なものではなかった。H27/04/12追記。


 最古の漢字は殷の甲骨から見つかっている。夏の時代の文字は見つかっていない。甲骨文字は占卜に使用される。漢字は国家統治の宗教として使用された。異民族の生贄を伴う邪悪な権威として漢字は始まった。ヨーロッパでは、宗教はローマ教皇が担い、国家は皇帝が担った。夏、殷、周ともに地域毎の国家群による連邦体制だったが、殷の時代生贄をとられていた地方から現れた秦は、各国を解体し、制度を均一化して、初の中央集権国家を作り上げ、皇帝を称した。その後、中央集権体制は漢、唐の400年、300年の安定体制を築いた反面、その間の400年は北方遊牧民も含めた動乱の時代だった。科挙は唐から始まり、宋で体制に浸透した。皇帝の一極支配の元、学問さえ身につければ支配層に就けるシステムが確立された。漢字は祭祀から始まり、祭祀から民衆が身を建て、統治をする学問になった。また、学問の持つ祭祀性が皇帝に権威を求めた。宗教と国家を一元化し、皇帝は君臨した。漢字の持つ残虐性を裏に隠し持ちながら、学問上はひた隠しにされた。朱子学は鏡のように磨かれた完璧な徳を求めるが、その冷たさはその反対の力に裏打ちされなければ成り立たない。青年期の毛沢東が「屠夫」湯を評価しなければならない現状はそこにあった。それ故に体制としては脆く、革命も必要とされた。それでも800年に渡り、地域毎に体制がある封建体制や、王や貴族に対し民衆の権利を保障する法治に代わり、その体制は権威を保ち続けた。書物の読み方にまで弟子が教師から真似ることを用いて。まず体に染み込ませてその上で官吏として統治することを通して。また、その一極集中と完璧さから溢れた大多数の人々も抱えていた。

 現代の中国において、農民戸籍という人々がいる。民工として都市に出稼ぎは出来るが、大学を卒業しなければ都市に戸籍を移せない人々だ。中国の人口の2/3を占める。貧しさのために大学に行けずに、公害の犠牲となり、都市に訴えでても私服警官に捕まって追い返されてしまう。7年前に中国人に聞いた話だが日本入国のビザの発給についても規制があり、発給されるのは申請者の半分とされる。農民戸籍には発給されずらくづらくなっているのだろう。1992年の映画で『秋菊の物語』という映画がある。村内のトラブルを訴えるのに最初は村、次は県と訴える先が大きくなり、最後に国に訴えるが、その時に既に和解出来たのだが、事が大きくなり過ぎてそれでは済まなくなってしまうという話だ。出来るだけ訴えないように教育する映画だ。中国では宋代から科挙で民間から官吏が選抜されると言っても、選ばれた士大夫は1%にも遠く満たない一部で、その他の人々はその士大夫を縁故にしたり、それすら出来ずにいた。中央集権社会では、封建社会ほど地縁が効力を持たない。官吏は他の地からやって来た人物だったりする。それが国と村を分離させる。村は国を信用しない。官吏や他の村に対し村が起こす械闘のような闘争の地盤となる。未だにパトカーがひっくり返され、警察署が放火されるような暴動が起こる背景はここにある。毛沢東が永久革命で徹底的に破壊しようとしたシステムは未だに残っている。

 儒教の語る統治がうまくいった事例は歴史上どれだけあるのだろうか。儒学の学問としての価値観はこれまでに述べた。そして実践としてあるということも。しかし、その価値観の起源も、その実践の成果も矛盾に満ちている。それは中国という大地と人口の大きさのためなのか、宋代というあまりに早い時期にほぼ完成してしまったためなのか。しかし、どの宗教や文化であっても起源に矛盾を孕んでいないものは無いはずだ。近年の中国の経済発展は矛盾を残したまま、その矛盾こそが発展させたように見える。完成されてしまった社会はその後長きに渡って先に進めない苦しみを残す。その先例をこの歴史に見ることが出来るのではないか。



H25.02.04

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