『シロネギまほら』(20)魔法使いになるためのそのに

 

 

 

 まほら武道会の予選に参加してから、すでに一週間は経過している。

 士郎にとって、あの大会への参加はすでに記憶の中へと埋もれてしまっていた。もともと彼の参加意欲は非常に薄い。通りすがりにゲームセンターへ寄った程度にしか認識していないのだから、印象に残らなかったのも当然だろう。

 薄暗い廊下を抜けると、強い光量を受けて士郎が目をしばたたかせた。

「調子はどうだ? どこかおかしなところはあるか?」

 この一週間のうちで、初めて士郎よりも早く起き出した彼女が尋ねてきた。士郎の起床が遅れたのは、昨夜寝入るのが遅れたという事情による。

「特に変わったところはないな」

 士郎自身も気になって、起きがけに魔術回路を確認したところだ。これまでと比べて、なんの変調も感じられない。

「そうか。ならば、これで貴様も一人前の魔法使いというわけだ」

 先達の魔法使いとして、彼女は士郎を笑顔で迎え入れた。

 

 

 

 保健室に寄った後の士郎を、エヴァは自宅へ呼び出した。

 それは、今から七日前――現実世界で7時間前の事になる。

 予選敗退という情けない結果を腹立たしく思ったエヴァは、別荘内で強制的に鍛えてやろうと考えたのだ。

 しかし、程なく彼女はそれが無意味だと悟った。

 彼女の見立てでは、契約執行を行った状態の士郎が二刀流を使えば、魔法使い以外に負ける事などあり得ない。武器が干将莫耶でなくともだ。

 カードさえあれば契約執行はいつでもできるし、木刀だって入手するのは難しくない。できることをしなかったのだから、士郎が敗退した原因はやる気のなさとしか言いようがなかった。

(だが、貴様はそれでいいかもしれんな)

 エヴァはそう結論づけた。

 彼女にとって、向上心のない者は侮蔑の対象となる。だが、それ以上に彼女が嫌悪するのは、自身の実力をわきまえていない者だ。

 実力以上の評価を望む人間、他人の強さを認められない人間、自らが選ばれた存在だと思い上がった人間。

 それらの人間に共通する悪癖として、基本技能が欠けていたり、応用力が乏しかったり、持久力が足りなかったりする。

 つまり、試合など衆目の前で活躍する事ばかりを望み、派手で強力な魔法に頼るのだ。本質的な実力を支える基礎鍛錬には手を抜きながら――だ。

 士郎の行動や思考はその対極にある。

 彼が求めるのは名よりも実。試合などにはまったく興味を示さないくせに、稽古において手を抜く事は一切ない。使う機会がないかもしれない努力を、延々と繰り返すことを当然と考えている。

 それはエヴァにとって好ましい在り方だった。

 そこで、エヴァは方針を変更し、勝つための修行ではなく、士郎を強くするための鍛錬に切り替えたのだ。

 士郎が実戦で使える“魔術”とやらは強化と投影。解析も使いこなせるが、これは戦闘に向いていない。魔術にもそれなりの多様性があるらしいが、未熟な士郎に使えるのはその程度だと聞かされた。

 初めて存在を知った“魔術”をエヴァが教えることなどできるはずもなく、より一般的な魔法を教え込む事にしたのだ。世界の魔力を活用できなくとも、士郎はすでに“魔法の使用”という最初の難関をクリアしているからだ。

 

 

 

「今朝の食事は少し遅くなりそうですがよろしいでしょうか?」

「いいけど、なにか問題でもあったのか?」

 茶々丸の申し出に士郎が首を傾げた。

「昨夜はネギ先生達もこちらにいらっしゃいましたので、ご一緒に朝食をとられた方がよろしいかと」

「そういうことなら、かまわない。時間がきたら教えてくれ」

「ハイ」

「それで、使ってみたか?」

「誰に?」

「それもそうか。ここには私か茶々丸達しか……」

 そこまで口にしたエヴァの瞳が怪しく光る。

「ちょうどいい獲物がやってきたぞ」

 エヴァが士郎の後ろを顎で指した。

「んむ……。ふわぁ……」

 目元を擦りながら、あくびを噛み殺している少年がやってきた。

「おはようございます、マスター。……それに士郎さんも?」

 士郎の存在を知らなかったのか、不思議そうに眺めている。

「ほれ、さっさとやってみせろ。それとも私に試したいのか?」

 エヴァの手が、先端にスペードのついた細い棒――小さな杖を差し出した。

「わかったよ」

 受け取った士郎が、杖を振り上げて呪文を呟く。

「えっ?」

 標的となったネギが驚きの声をあげた。

「――氷結・武装解除フリーゲランス・エクサルマティオー

「えーっ!?」

 突然の魔法に晒されて、杖を持たない彼は防御することもできなかった。

 エヴァが教えたのは氷属性の武装解除だ。ネギの身につけていたトレーナーとパンツがあっさりと凍結し、粉々に砕け散った。

「できたぞ、エヴァ」

 面白半分に力を行使する事のない士郎だったが、魔法使い相手に力が通用すると実感できるのは、彼にとっても嬉しいことなのだ。

「それはできるだろう」

 感慨深げな士郎に対して、エヴァが平然と応じる。

「なっ、何をするんですかーっ!?」

 涙目のネギが、必死で身体を隠そうとしていた。

「ワハハハハっ! 油断のしすぎだぞ、ぼーや」

 エヴァは基本的にいじめっ子である。素っ裸に剥かれたネギを見て楽しそうに笑った。

「茶々丸、着替えさせてやれ」

 ククク。笑みをこぼしながら従者へ指示する。

「ハイ。どうぞこちらへ」

「なんなんですか、これーっ!?」

 なにがどうなっているのか、まったく理解できないまま、ネギは茶々丸に連れられていった。さすがに、裸のままで説明を要求するという選択肢はなかったようだ。

「ちょっと、ちょっと、何の騒ぎよ?」

「何かあったのですか?」

「なんや一体?」

「どうしたん?」

 アスナと刹那は不審そうに、小太郎とこのかはのんびりと姿を見せた。

「あれ、士郎さんも来てたんだ?」

「なんで衛宮の兄ちゃんまでここにいるんや?」

「なんでって言われてもな」

「そやかて、衛宮の兄ちゃんは本選に出ないやんか」

「ここを使えるのは本選出場者だけなのか?」

 初めて聞いた使用条件に予選落ちの士郎としては肩身が狭くなる。

「勝手に吼えるな、犬。そもそも、士郎は私の従者だ。部外者は貴様の方だということをわきまえろ」

「ぐ……」

 利用させてもらっている立場なので、小太郎は口をつぐむしかない。

「それより、ネギが騒いでなかった? どこに行ったのよ」

 アスナがそもそもの発端を思い出して、キョロキョロとネギの姿を探してみた。

「なに、士郎がネギに対して武装解除を使っただけだ」

「武装解除って、ひょっとしてアレ?」

 アスナは武装解除と聞くと嫌な思い出しか浮かんでこない。

「そのアレだ。ここ数日をかけて、士郎には始動キーを設定させたからな。実際に使ったのはこれが初めてのことだ」

「そうなん。衛宮さん?」

 このかの確認を受けて士郎がうなずく。

「衛宮さんに先を越されてしもうたなぁ」

 魔法使いを目指しているこのかが多少の悔しさを滲ませる。

 このかはまだ初心者用の魔法を練習しているところだ。身に宿す魔力はネギを上回るほどだが、それを活用するまでには至っていない。

「素質でいったら近衛の方が上だろ。羨ましいのはこっちだ」

 士郎は今でこそ一歩先んじているものの、ただでさえ魔力が少ない上に、世界の魔力を使用できていない。いずれこのかに追い抜かれるのは確実だろう。

「それではネギ先生は着替え中ですか」

 困った表情を浮かべて刹那が納得する。裸のままでは姿を見せるわけにはいかないだろう。

「みんなは稽古目的でここへ来たのか?」

「そういうわけではないのですが……。疲れをその、持ち越して大会に臨むのも得策ではありませんし……」

 刹那の説明はなぜか歯切れが悪い。

「中夜祭が朝方まで続いてもうたから、リフレッシュするためなんよ」

 ようするにのんびりと心と体を休めるためらしい。

 生真面目な刹那は休むという事を堂々と口にできなかったようだ。

「ちょっ、ちょっと待ってください、茶々丸さん」

 ようやく着替えを終えたらしいネギの声が皆の耳に届く。

「申し訳ありません。マスターの指示です」

「だって、この服……」

 なぜか焦っているネギが茶々丸に連れられて姿を表した。

「ぶわはははっ! なんやその服っ!」

 一目見た小太郎が容赦なく爆笑する。笑いが納まらずに、腹を抱えてうずくまっていた。

「似合ってるじゃないか」

 エヴァが満足そうに告げた。

「なんでこんな着替えなんですかっ!?」

 ネギが着せられたのは、彼の身長にあわせたゴスロリのドレスだったのだ。

「私の趣味だ」

 エヴァはなんのためらいもなく、堂々たる態度で答えていた。

 まだ幼いこともあって、ネギの優しげな容姿は女の子と言っても通じそうだ。女性向けのドレスを着てもなんの違和感も感じさせない。

「ネギ君は何着ても似合うんやなぁ」

「そうですね。私が着るよりも可愛いらしいかと……」

 ネギにとってはありがたくない評価がくだされる。

「ううぅ……」

 真っ赤になっているネギが恥ずかしさに涙を浮かべた。

「士郎さん、どうしてこんなことするんですか〜。ヒドイですよ」

 ネギはそもそもの発端である士郎へ恨めしそうに訴えた。

「エヴァに命令されてな。俺も魔法の威力を確かめてみたかったし」

 まさか、女の子相手に武装解除を使うわけにいかない。士郎としてもネギ相手の方が一番使いやすかったのだ。

「だからって、人を裸にするなんてあんまりですよーっ!」

 正統なはずのネギの主張だったが、それを受け入れられない人物がここにいた。

「そんなセリフ、どの口が言うのかしらぁ?」

 その口調からは、こらえきれない怒りがこぼれだしている。

 アスナの両手が伸びて、ネギの口を強引に左右へと引っ張った。

「あふふぁはん。ひはいへふ〜」

「アンタ、どれだけ私を裸にしたか忘れてんじゃないでしょうねぇ? 一番新しいのがいつか、教えてあげようか? 昨日よ、昨日っ!」

 笑顔を見せているが、こめかみには青筋が浮かんでいる。無論、笑っているのは表面だけだ。

「ふひはへーん! ほへんははーい!」

 必死で謝罪するものの、そんなことで彼女の怒りが納まらない事は、ネギ自身も察している。

「いい機会だから、どんなに恥ずかしいか思い知りなさい! それが、みんなの……ううん。私のためよ!」

「……あれ?」

 アスナの両手が顔から離れて、ネギは相手の顔を見上げる。そこには、なにか不穏な物を感じさせる笑顔があった。

「あの、アスナさん……?」

 アスナはネギの背後に回っると、彼の両肩をすくい上げて羽交い締めにする。

「さあ、士郎さん。遠慮はいらないから、もう一度がつんとやってやって」

 ネギによってこれまで脱がされまくってきたアスナが、ようやく逆襲の機会を得て満面の笑みを浮かべる。

「ええーっ!? そんなーっ!? 許してくださーい!」

「ほいほい脱がせまくっているアンタが悪いの! さあ、覚悟しない」

「あんまりですよーっ!」

 話を向けられて士郎が躊躇する。

「そうは言われてもなぁ」

 士郎としては魔法の実験はすでに終わっているし、望んだ成果をすでに得ている。

「構わんだろう。本人がいいと言っているんだ」

「だけど、まずくないか?」

「いいから、やれ。問題ない」

 エヴァの承認を受けて、仕方なく士郎は杖を構えた。

「センノケン・マンノケン・ムゲンノケン」

 これが自分で考えて設定した始動キーだ。そして先ほどと同じように武装解除の呪文を唱える。

「――氷結・武装解除フリーゲランス・エクサルマティオー

 士郎の呪文に応じて神秘が実行される。標的の身につけている衣類が凍りついて砕け散った。

「わぁぁぁん」

「うそっ!?」

 上がった悲鳴は二つ。

 ネギだけでなく、アスナの服もまた、氷片と成り果てていた。

「士郎さん! なんで私まで!?」

 彼女は身体を羞恥に染めながら叫んでいた。

 アスナはネギに背後から抱きつくことで、どうにか裸身を隠そうとしている。

 ネギは逃げ出す事もできず、両手で股間を隠していた。

「無茶言うな。ネギだけなんて器用なマネができるわけないだろ」

「最初に言ってよ!」

「いや、やれって言ったのは神楽坂だし」

 士郎に使用を迫ったのは、アスナとエヴァだ。アスナに自覚はなかったようだが、エヴァはこうなることを知っていて実行させた。

 このかは楽しそうに眺めながらも頬を染め、刹那は顔こそそらしたものの視線をネギに向けていた。

 二人の少女も異性に対してそれなりの興味があるらしい。

「着替えが必要でしたらこちらへ」

 茶々丸の招きにアスナが喜んで応じる。

「待ってください。僕はあんな服はもう……」

「いいから、アンタも来るの!」

 アスナは問答無用でネギを引きずり、奥の部屋へと消えていった。

「なあ、なあ、エヴァちゃん。アスナは魔法無効化能力者やったんと違うん?」

「そうだよな。俺もそれを聞いていたから武装解除を使ったんだけど」

 士郎も同じ疑問に首を傾げる。

「端的に言うなら、神楽坂明日菜の魔法無効化というのは万能ではなく、限定的なものだからだろう」

「だけど、レベルの低いはずの武装解除を消せないなら、他の魔法にも通じないんじゃないか?」

「無効にできるかどうかは、神楽坂明日菜の気分次第だからだ」

「なんだ、それは?」

「例えば、契約執行や治癒魔法ならばあいつにも有効だ。あの力は自分に害がない、或いは、危険がないと感じた場合には働かないということだ。今のところは、“完全”でも“自動”でもなく、任意”で働く力というわけだ」

 あらゆる魔法を消滅させるわけでなく、アスナ本人の意志が介在し対象を選別しているのだ。

「でも、今のは通じたぞ」

「士郎が標的を指定できると思い込んでいたようだし、『武装解除』が危険な魔法でないこともあいつは知っている。もしかすると、自分の身体に直接危害を与えない魔法にも通じない可能性があるな。やつが本当の意味で使いこなせれば、効果対象や効果範囲も自在に変更できるだろう」

 現在の力であってもアスナは魔法使いにとって天敵と言える能力者なのだ。真祖たるエヴァの魔力障壁を素手で破れるくらいに。

「話は変わるが、……桜咲刹那。貴様にすこし手伝ってもらいたいことがある」

 話を向けられて刹那はわずかな危険を感じる。エヴァの笑みが何かを企んでいるように見えたからだ。

「どんなことでしょうか?」

「士郎と立ち会ってみろ」

「衛宮さんと?」

「うむ。ちょっと変わった稽古だと思えばいい。なに、大した時間はとらせん」

 

 

 

 場所を中央の広場へ移して、士郎と刹那が対峙する。

契約執行シス・メア・パルス 180秒間ペル・ケントウム・オクトーギンタ・セクンダース! エヴァンジェリンの従者ミニストラ・エヴァンジェリン『衛宮士郎』エミヤ・シェロー

 士郎の体にエヴァからの魔力が流入する。

「士郎、干将莫耶を構えろ」

「わかった。――投影、開始トレース・オン

 干将莫耶を実体化させると、士郎は双剣を両手の中でくるりと回転させて逆手に握り替えた。

 対して、刹那は抜きはなった夕凪を青眼に構える。

「あとは何もするなよ」

「ああ」

 エヴァの奇妙な指示に士郎が頷いた。

「桜咲刹那。本気を出さねば怪我をしても知らんぞ」

「え?」

 刹那の気が逸れた瞬間を狙ったかのように、士郎が斬りかかっていた。

「くっ……」

 士郎らしくない行動に刹那が戸惑う。

 夕凪は干将莫耶を受けきったのだが、剣を交えるごとに刹那の動揺は大きくなっていった。

 目の前に立っているのは士郎のはずなのに、彼は刹那の知る士郎とはまったく違う。

 契約執行状態の士郎と戦うのはこれが初めてとはいえ、刹那を迷わせる原因はそこではない。士郎が強化したように、刹那もまた気による強化を行えば、身体能力による差は無いも同じ。むしろ、刹那の上昇率の方が上なのだ。

 刹那を困惑させたのは、なによりも士郎の剣術だった。剣の握り方に留まらず、その太刀筋が今までと違いすぎた。

 それに、刹那の死角や隙をつく戦術、刹那の太刀筋を受け流す技能、瞬時に攻守を選別する状況判断。

 どれをとってもいつもの士郎と異なっている。戦いを優位に進めているのは士郎の方だった。

 相手の強さを実感すると、刹那の頭の中では迷いが薄れていき、次第に戦意が満ち始めていた。

「二人とも凄いんやなぁ」

 このかはそう評した。体術に疎い彼女は戦いの詳細を理解できず、傷も負わず血も流れない戦いをダンスのように眺めていたからだ。

「変やなぁ。刹那姉ちゃんの方が強そうやのに」

 小太郎の述懐をエヴァが鼻で笑った。

「ガキだな」

「なんやて?」

「戦いとは力の強さだけで行うわけではなかろう」

 素質に優れた者は、才能頼みの戦い方を選びやすい。

「単純な攻撃力で劣るとしても、敵の攻撃を受け、かわし、活用するのが技術というものだ。私は魔力を封じられても、貴様等に負けるつもりなど無いぞ」

 エヴァの確固たる自信。そう口にするだけの自負が彼女にはあった。

 この学園に封じられた15年を、彼女は無為に過ごしたわけではない。奪われた時間を代償にして得たものもあるのだ。

 

 

 

 士郎の戦い方は嫌らしかった。刹那の予測をことごとく裏切り、刹那が嫌う攻撃を繰り返す。

 刹那が強引に攻め込もうとするとするりとかわし、タイミングを計ろうとすると呼吸をずらし、わざと見せるフェイントには無反応だ。

 力や剣速でなんとか凌いでいるものの、戦術や剣技で翻弄されている。剣士としてこれほど悔しい事はない。

 何合か斬り結んだ後、士郎が間合いを取ろうと退いた。

 追撃しようとした刹那の行動を読んだのか、機先を制するように士郎は右手に握った莫耶を投じる。

 キン! 刹那が咄嗟に夕凪で莫耶を払い落とす。

 この時、士郎は初めて瞬動を使用した。瞬動には使用に適した距離が存在し、長くても短くても難易度が上がる。この近距離において、この精度で行うなどあり得ないことだ。

 しかし、刹那には驚くだけの余裕は許されなかった。

 士郎が踏み込んだのは、振り抜いた夕凪の届かない位置――刹那の間合いの内側だった。

 左手に握った干将が、がら空きとなった刹那の頭部目がけて振り下ろされる。

(まずいっ!)

 予想される惨劇に恐怖して、士郎はとっさに投影品である干将を消し去っていた。

 だが、士郎よりも一瞬早く刹那は反応していた。

 近距離での対応が難しいと悟った彼女は、自ら夕凪を手放していたのだ。

 刹那は素手となった両手で、士郎の両手首をそれぞれ捕まえると、身体を傾けながら士郎の身体を腰に乗せる。重心の流れた士郎は、刹那の身体を中心にぐるんと一回転して、背中から地面へ叩きつけられていた。

 京都神鳴流では武器を選ばない。そこで学ぶ技術は剣術に限定されず、素手での格闘術にまで及ぶのだ。

 柔道で言う“袖釣り込み腰”のような体勢のため、両腕の自由を奪われた士郎は受け身すら取れなかった。

「ぐっ!」

「す、すみません。身体が自然と動いてしまって……」

 士郎が干将を消し去ったのは自分への気遣いだと刹那も察している。

 だが、士郎が刀を消さずとも、刹那には対応できるだけの自信があったのだ。

「フン。興醒めだな。だから何もするなと言っただろう」

 エヴァもまた刹那と同じ認識を持っている。

「ああ、悪かった」

 士郎は素直に謝罪を口にした。

 エヴァと刹那の達人同士の戦いにおいて、その域に達していない士郎が介入して中断させた形なのだ。

「まあ、目的は果たせたのだし、それで良しとするか」

 一応は納得できたのか、エヴァには再試合を望む意志はなさそうだ。

「衛宮さんにはこれほどの実力があったのですか?」

  刹那が怪訝そうに尋ねる。

 今日の士郎はいつもと戦い方が違いすぎて、まるで別人に思えた。これほどの力を秘めていたとは、手合わせを終えた今でも信じられない。

「それは、根本的な認識ですでに間違っているぞ」

 刹那の疑問に対して回答を与えたのはエヴァだった。

「根本的……ですか?」

「正確に言うなら、貴様が戦ったのは士郎ではなく私だ。貴様と戦った士郎は、人形使いである私の武器だったのさ」

人形使いドールマスター』もまたエヴァの異名の一つなのだ。

「契約執行で流し込む魔力を利用して、私が士郎の身体を操った。300体の人形を操る事に比べれば造作もないことだ」

 魔力を制限されていたため、学園内では使う機会がなかった。魔法の行使にすら難儀する状態で、使用できる技能ではないからだ。

「どうだ、士郎? 貴様にはこれだけの戦いを行える可能性があるんだ」

 これまで学んだ剣術を捨てるというわけではない。違うアプローチ、別な方向性があるということを試しただけだ。

 魔法ならではの特殊な見取り稽古である。茶々丸やチャチャゼロとも立ち会っており、今回は刹那を相手に行ってみたのだ。

「まあ、私並みの魔力と私並みの経験があって、初めてできることだがな。指標ぐらいにはなるだろう」

 さっき使った剣術や瞬動はエヴァの技であって、士郎の身体で実行できることは証明できたものの、彼の意志で再現する事は難しいだろう。

 人間の身でエヴァにどこまで迫れるかははなはだ疑問というところだ。

「エヴァンジェリンさんは剣も扱えたのですか?」

「使えないといった覚えはないぞ。手札を全て明かすわけにいかんだろう」

 ニヤリ、と挑発するような笑みを浮かべる。

 刹那は知らないが、我流を極めているチャチャゼロに基礎を教えたのはエヴァ本人である。

 また、エヴァの魔法の中には、剣を創り出す魔法や、剣技を必要とする魔法もあるため、彼女自身にとっても必要な技能なのだ。

 刹那に対して優勢を保てたのは、近衛詠春の技を間近に見ていた経験があり、刹那の神鳴流に対する理解度が大きいという事情もある。

「ところで、士郎。貴様は実に面白い素材だな。人形使いである私にとって非常に興味深い」

 エヴァが指摘しているのは、従者としてよりも、あくまでも道具としての評価だった。

「どういうことなんだ?」

「まあ、貴様にわからなくて当然だ。人形使いにとって操りやすいかどうかは重要な要素だが、人形自身にとってはあまり意味がない特性だからな」

 エヴァが改めて説明する。

「一つ目は肉体面。貴様の身体にある魔力通路は肉体と直結している。正確に神経と重なっているため、魔力を通しやすく、タイムラグも少ない」

 それは士郎自身も知っていた。

 肉体構造と魔術回路とはあまり関連を持たないはずだが、士郎の場合は神経そのものが魔術回路となっているのだ。これは向こうの世界でも珍しい特徴だった。

「もう一つは精神面。普通の人間ならば、自己保存の本能が非常に根深い。どのような行動であれ、身の危険は誰でも避ける。しかし、貴様はそうではない」

「そんなことないだろ。俺だって死ぬのは嫌だぞ」

「自覚していないなら、貴様の歪みは重傷だな。太刀筋を見切れたとしても、至近距離で走る刃には誰もが恐れを抱く。しかし、貴様は危険に対する拒否反応が非常に薄いため、操る障害とならないんだ。ついでに言えば、攻撃についても似たような事が言える。骨や筋肉の損傷を怖れて、普通の人間は全力を出し切る事を避ける。だが、貴様はそのリミッターが外れやすく、俗に言う火事場の馬鹿力と言うヤツが出やすいんだ」

 士郎の身体能力が高い理由は、筋繊維が太いとか多いとか強いという先天的な優位性によるものではない。安全マージンを少なく設定する事で、筋肉を酷使し続けているのが原因だった。日常的に危険を冒しているようなものだ。まだ肉体が成長しているからこそ、どうにか釣り合いが取れている状態だった。

「何かを為そうとした時に、貴様は自分の身体や命を失う事を覚悟する。……いや違うな。貴様が行動を起こした時には、目的以外の全てを捨て去ると言ったほうが正しいだろう」

 それは人間と言うよりも、機械の在り方に近いものだ。

“善人”としか思っていなかった士郎に、驚くほどの歪みを感じて、エヴァの好奇心が刺激される。

「貴様は私の従者となるために、生まれてきたのかもしれんな」

「勝手な事言うな」

 

 

  つづく

 

 

 
あとがき:刹那の決め技が対アスナ戦と同じ流れになってちょっと残念です。他に思いつきませんでした。