『ふたりの碁』(17)高段者戦

 

 

 

「なんの騒ぎなんだ?」

 ヒカルは棋院の中が騒がしいのに気づいた。

 その疑問に答えたのは、傍らに立つ和谷がだ。

「なんだよ、進藤知らないのか? なんか刑事が来たらしいぜ」

「刑事!?」

「ああ、なんか事件があったらしくて、棋院に取り調べにきたらしい。冴木さんが話してた」

「事件って、まさか殺人事件?」

「そんなに大きい事件じゃないらしい。なんか、悪質な碁盤屋がいて裁判沙汰になってるらしいんだ。碁盤が高いってのはオマエも知ってるだろ?」

「ああ」

 ヒカル自身も、自分では購入できずに、祖父に買ってもらったことがある。

「その碁盤の加工で手を抜いたり、木の材質を偽ったりする、あくどい業者がいるんだよ」

「へー。ヤな話だな」

「オレも気に入らないけど、まあ、これはたまにあることなんだよ」

「そうなの?」

「だけど、今回は六百万とか言ってるからな」

「六百万! そんな高い碁盤があんの!?」

「いや、普通ならどんなに高くてもそこまではしないぜ。問題の碁盤は本因坊秀策ゆかりのものらしいんだ。秀策の署名まで残ってるって話だ」

「秀策の……?」

 ヒカルがあらぬ方向へ視線を向ける。

 そこには、ヒカルにしか見えない人間が存在していた。

 ──虎次郎の?

 その佐為もまた、ヒカルを見返す。

「……でも悪質っていうと、秀策が使っていた碁盤が、ひどいデキだったってこと?」

「バカ。そんなことなら、騒ぎになるはずないだろ。署名がニセモノだって判明したらしいんだ」

「じゃあ、詐欺じゃん」

 思わず声を張り上げたヒカルの傍らで、佐為が顔を真っ赤にして憤慨している。

 ──許せません! 虎次郎の名を汚すなんて。

 ヒカル自身にも秀策に対する思い入れはあるものの、それはあくまでも佐為が絡んでのことにすぎない。

 この藤原佐為は平安時代に命を失った幽霊なのだが、140年前にも彼は現世に蘇っている。そのときに取り憑いていた虎次郎というのは、本因坊秀策の幼名なのだ。

 秀策は、現代においても最強の棋士として名があがるほどの打ち手なのだから、ネームバリューとしては最高である。六百万円という値段も高額とは言い切れないのだ。

 ……本物でさえあれば。

「でも、なんで、棋院が騒いでいるんだ? 棋院で売ったわけじゃないだろ?」

 棋院はそういう商売をしないと、単純にヒカルは思っている。少なくとも、そんな話がもちあがったのはこれが始めてである。

「ところが、それにプロ棋士が絡んでるって噂があるんだ」

「プロが?」

「どっかのイベント会場に特定の碁盤屋を紹介することで、仲介料として賄賂をもらうとか、そんな事をする人間がいるらしい」

「ひでぇな」

「ああ。そんな人間がいると、真面目な棋士まで、ヘンな目で見られちまうぜ。迷惑な話だよな」

「まったくだな」

 ふたりで憤る。

 だが、哀しいかな、少年に過ぎない彼等はプロ棋士としても、一個人としても、その力は微々たるものだ。

「腹は立つけど、俺たちにはどうにもできないし、とりあえずは今日の手合いだな」

「そうだな」

「進藤、明日は伊角さんと会うんだけど、お前はどうする?」

「悪ぃ。今度の木曜は対局があるんだ」

「木曜に? ああ、本因坊戦の二次予選があるんだったな。相手は誰だ?」

「それが……、変な名前で読めなかった。たしか、七段だったぜ」

 

 

 

 ヒカルが初めて高段者と対局する木曜日。

 多少の緊張もあるのか、ヒカルは何度目かのトイレに行った。

 そのおり、廊下の影からひそひそと話し声が聞こえてきた。

「……ん? なんだ?」

 物陰でふたりの男が小声で言い合っている。

「困りますよ。こんなことは」

「君はなにか、誤解していないか? オレが詐欺を働いたなんて証拠はない。当然だよ。そんな事実はないんだから」

「ですが……」

「素人連中の妬みに決まってるだろ。分不相応にも、払えない買い物をして、騒ぎ立てているだけだよ。迷惑な話さ」

「本当……ですか?」

「ああ、そうさ。それに、秀策だって名前を使ってもらえて、草場の陰で喜んでいるんじゃないか?」

 かん!

「っ!?」

 廊下に立っている灰皿が音を立てた。

 聞き耳を立てていたヒカルを、ふたりが見る。

「なんだ、お前は?」

 背の低い貧相な男がこちらに詰め寄る。

「どういう意味だよ?」

「あん?」

「詐欺に名前を使われて、秀策が喜ぶだって!?」

「……ああ。死んじまった棋士なんて、いずれ忘れられるのがオチだ。こうして、思い出してもらえるんなら、嬉しいだろうさ」

「あんたにはわかんないのかよ! 秀策の存在にどれほどの価値があるのか!」

「わかってるさ。確か600万だ」

「なっ……!?」

「ふん。どんなに強かろうが、死んじまった棋士に何ができる。もう、棋譜だって増える訳じゃない。金にはなるんだから、せめて、名前だけでも働いていればいいのさ」

 なんてヤツだ!

 憤然とヒカルが口を開く。

「アンタに秀策の何がわかる! 秀策がどれだけ素晴らしい棋譜を残し、どれだけ囲碁に貢献してきたか……」

「いい加減にしろ、このガキ。大人の話に口を出すんじゃない」

「てめぇ……」

「ふん」

 にらみ付けるヒカルを無視して、彼は対局室に入っていった。

 

 

 

 碁盤の前に立つヒカルを見て、対局者が驚いていた。

「またお前か! こんなところにまで入ってくるな! そのぐらい、わきまえろ! ガキが!」

「……ふーん。これは”ごきそ”って読むのか。知らなかったよ、オレ。まさか、アンタが相手だなんてな」

「相手……? まさか、進藤っていうのは……」

「オレだよ」

 さすがに御器曽が驚く。こんな子供がプロで、しかも、高段者と戦うほどに勝ち抜いて来たというのだ。

「絶対にアンタを許さねぇ」

「……は、はは。思い上がるなよ、このガキ。運良く勝ち上がったくらいで、オレに勝てると思ってるのか? オレが教えてやるよ。人生の厳しさってヤツをな」

「絶対に後悔させてやる!」

 ヒカルがどかっと腰を下ろす。

 ──ヒカル!

 切実な佐為の声。

 佐為が何を望んでいるか、ヒカルもすぐに悟った。

(わかってる。オマエが打て)

 ──はい!

 ヒカルなりに秀策は大切ではあるが、佐為にとっては、当時、共に暮らしていた大切な人間である。

 秀策のために打つのならば、佐為にこそ、その資格がある。

(早めに頼むぜ。みんなに見られるとマズイからな)

 ──わかりました。

 

 

 

 どんなに腹を立てていようとも御器曽は、初段のヒカルを侮っていた。

 若いヒカルの手を平凡な、あるいは未熟な手と考え、自分の打ちたいように進めていく。

 佐為の深い読みに気づけず、御器曽は読み違えたまま地を広げていった。

 だが……。

 ヒカルが打つ石は、全て佐為の指示によるものだ。

 中盤を待たずに、破綻し始める。

 手が進むにつれて、佐為の石が頑強に補強され、御器曽の石はあちこちで切断されていく。

 それだけでなく、御器曽の地は荒らされ、大石まで取られていく。

 佐為と御器曽では地力がまったく違う。御器曽の確信した優位は表面上のものに過ぎなかった。その優位はすぐに奪い返され、あとは差が開く一方だった。

 ほとんどの石が死に石となり、御器曽の対処はすべて後手に回る。

 焼け石に水だった。

 逆転の手段などあるはずがない。

 それでも御器曽は無駄な手を打ち続け、時間だけが浪費されていく――。

 

 

 

「最初に、油断さえしなければ……」

 口惜しそうにつぶやくが、油断がなかったとしても、勝敗そのものは変わらなかっただろう。

 半ば呆然となって、御器曽が投了した。

 御器曽が佐為の強さをどれほど理解したかは不明だ。だが、彼は真実、本因坊秀策と対局したのだった。

 その佐為の棋譜を、プロ棋士に見られるとまずい。以前の塔矢アキラのように誤解して詰め寄ってくるだろう。

 ヒカルはさっさと石を崩して、自分の石を片づけ始めた。

「わかったろ? 秀策の碁は、ちゃんと俺たちを導いてくれるんだ。たとえ、いま、存在していないとしても、その棋譜や、その思いが俺たちを導いてくれる」

 うなだれる御器曽を一瞥して、ヒカルが腰を上げた。

「アンタが秀策を語るなんて、千年早いんだよ」

 そう言い残して、ヒカルが対局室を出て行った。

 

 

 

 対局室に残っていた人間がどよめいた。

 まだ、昼前だ。

 打ち始めて二時間と経っていないというのに、初段が七段を圧倒したのだ。

 それとは別に、ヒカルの生意気な態度に眉をひそめる人間もいる。

 そして、その逆に、ヒカルを容認する人間も多かった。今回の騒ぎで、御器曽の行動や態度をうとましく思っていた棋士達も少なくないのだ。

 アキラもヒカルを気にしていたのだが、肝心の対局は位置が悪くて見ることができなかった。

 これまでにないほど真剣なヒカルの一局。それも、二時間弱で決着した棋譜には強い興味が沸いたものの、全ては後の祭りだった。屈辱の完敗を喫した御器曽が教えてくれるとは、とても思えない。

 

 

 

 棋院から帰り道、ヒカルが一人でつぶやいている。会話の相手は佐為だった。

「どうだ、すっとしたか?」

 ──ええ、少しは……。

 だが、佐為の表情は晴れなかった。

 ──あのような者でも、プロなんですね。

「そうだな……」

 プロ棋士。

 プロというシステムが成り立つのは、組織があるからでも、制度があるからでもない。

 言うまでもなく、そのプロを支えているのは、アマチュアと呼ばれる人々の存在だった。

 プロの対局を楽しむ人が、プロの教えを請う人がいるからだ。

 皆が望まないところに、プロなど存在しない。

 プロがアマチュアを食い物にすることが、どれほど恥ずべき行為なのか、御器曽はそれをまず考えるべきなのだ。

 ──塔矢名人のような者もいれば、あのような輩まで……。

「仕方ねぇさ。どこの世界だって、いろいろだろ? ほら、平安時代の指南役にだって、インチキするヤツがいたんだし」

 その相手こそ、佐為が入水自殺した元凶であった。

 ──そうですね……。

 そうかもしれない。

 生活の糧として囲碁に関わる以上、純粋に囲碁を愛し続けることが難しい時もあるだろう。

 自分達が知らないだけで、あの者にもやむを得ない事情があったのかも知れない。

 ……だからと言って、罪が許されるわけではないが。

「それよりも……」

 ──?

「いや、ひとりだけ、こっちの盤上を覗いていた人がいてさ。あの人には棋譜を見られたかも」

 ──そうなんですか? 全然、気付きませんでした。

 

 

 

「おい塔矢。アイツのこと、知ってるか?」

 不意に話しかけられて、アキラが振り向いた。

「アイツ……? もしかして、御器曽プロと対局した棋士ですか?」

「ああ。お前の同期とか、そのくらいじゃないのか?」

「進藤初段ですよ。今年の入段者です」

「初段っ!?」

「どうかしたんですか?」

「いや……。そうか、今年の新人なのか……」

 一人で頷いている。

「あの、倉田さん?」

 アキラの呼びかけに気付かず、彼は真剣な表情でなにやら唸っていた。

 

 

  つづく

 

 

 
あとがき:
 春先に囲碁フェスティバルに参加しなかったことの収支決算の回。
 御器曽との対局をそれなりの話にしたかったので、こうなりました。