『ふたりの碁』(14)再戦
「ホントか?」
『ああ。連絡があったんだよ』
受話器越しの和谷の声も嬉しそうだった。
もともと、ヒカル自身よりも、和谷の方がつきあいは長いのだ。
「そっか……、久しぶりだな」
『去年のプロ試験以来だもんな……』
「強くなってるかな?」
『当たり前だろ。二ヶ月も揉まれてきたんだ』
「じゃあ、今度の日曜だな?」
『ああ』
和谷の部屋。
いつもの勉強会の若手メンバー5人が集まっている。
院生の本田、小宮、奈瀬。そして、部屋の主である和谷に、ヒカルである。
今回はもう一人顔を出していて、本日は主賓でもある伊角だった。
テーブルの上には、ジュースやお菓子が並んでいる。
「えー、ゴホン」
和谷が立ち上がると、芝居がかって咳払いをする。
「では、伊角さんの、中国での修行達成を祝って、乾杯ーっ!」
『乾杯ーっ!』
皆が口々に、伊角をねぎらう。
伊角は控え目な性格をしているため、どうにも居心地が悪い。
「だから、こんな大げさなことしなくて、いいってのに……」
「いいじゃん。オレ達だって騒ぎたいだけなんだからさ」
あっさりとヒカルが答えた。
「そうそう。今だけはいいじゃない」
奈瀬もそう言って、伊角を説得する。
「でもなぁ……」
伊角は自分が所属している九星会での勉強の一環として、中国棋院を訪れた。
短期間で思うような成果を得られなかった伊角は、単独で二ヶ月もの間、中国へ残った。
彼はそこで、己の碁を見つめ直し、自分の感情をコントロールする方法を学んだ。
彼にとっては非常に有意義な体験だったが、それはあくまでも個人的な事情だ。
どうして、こんなお祝いになるのか、正直理解できない。
そんな伊角をよそに、皆が中国の話を聞いてくる。
「とにかく、シビアだったよ。和谷や進藤よりも年下のプロが、同じ場所に寝泊まりして、一日中、碁盤と向き合っているんだ。成績が落ちると、すぐに地元へ送り返されるしね」
楊海(ヤン・ハイ)の部屋に転がり込んだことや、趙石(チャオ・シィ)との賭け碁も話した。一番ウケたのが、和谷そくりの楽平(レェ・ピン)の話である。
皆がこうして喜んでいるのは、単純な理由による。
伊角は皆に好かれているのだ。
彼は生真面目で、面倒見がいい。一番の実力者である彼が、こういう性格だったからこそ、院生の穏やかな雰囲気が培われていたとも言える。
伊角が唐突に院生をやめたことで、プロを諦めたのではないか、と皆が心配していたのだ。特に、伊角を追い抜いて、今年プロになった和谷とヒカルは――。
だからこそ、伊角がプロを目指していることを、そして、そのために成長したことを知って、喜んでいるのだ。
ひとしきり騒いだあと、いつものように、碁盤を床に置いた。
伊角のご指名により、対局相手はヒカルである。
「進藤。オレはどうしても、プロ試験の前に、お前と打ちたかったんだ」
「なんで?」
「プロ試験で打った、あの一局だよ」
「ああ……」
ヒカルが頷いた。
「あのさ……、伊角さん。その対局の事、聞いてもいい?」
おずおずと和谷が尋ねた。
去年のプロ試験本戦で行われた、ヒカルと伊角の対局。越智の説明によると、伊角優勢だったはず碁が、しばらくして伊角の投了で幕を閉じた。
その対局について、当事者の二人はまったく口外しようとしない。伊角にとっても、ヒカルにとっても、それが苦い対局だったためだ。
だからこそ、伊角は今もその対局を引きずっているのだ。
「対局中に、オレがハガシをしたんだ」
伊角が軽く口にした。
「え? 伊角さんが?」
思わず本田が口にした。
ハガシというのは、一度手を離した石を、打ち直すことだ。これは行った時点で負けとなる反則行為である。伊角がルールを破るとは到底信じられることではなかった。
「対局での休憩時間に、越智と話したんだよ。塔矢が進藤をライバル視しているって聞いて、そのプレッシャーから俺は打ち間違えたんだ」
和谷が首をひねる。
「なんで、越智がそんな話をするんだ? アイツもその噂、信じていなかったはずじゃん」
「塔矢に指導碁してもらったらしいな」
「指導碁? 越智のヤツ、一言も言ってなかったけど」
「越智はプライドが高いからな。言えなかったんだろう。……その話を聞いて、オレは進藤に怯んでいたんだ。悪い手だってわかっていながら、石を置いてしまった。それに気づいて、何気ないフリをして打ち直したんだ」
「それで、ハガシ……?」
「ああ」
「……じゃあ、全部、越智のせいじゃん!」
和谷が声を跳ね上げる。
「違うよ、和谷。オレの弱さが原因なんだ。オレは、そのとき、進藤が気づかなければいい。ごまかせるはずだって。そんな事を考えていた。そんな卑しい事を考えた自分が許せなかった。惨めな気分になって、その後、連敗してしまった」
その時の伊角の対局相手は、和谷本人とフクだった。和谷はともかく、フクに負けることなど、普通ならあり得ないことである。
「越智の言葉に動揺したのも、ハガシを誤魔化そうとしたのも、全てはオレの心が弱かったからだ。中国棋院でそのことがよくわかったよ。プロになる強さというのは、決して棋力だけじゃない。精神力も必要なんだ。俺には合格するだけの実力がなかったんだよ」
伊角はやっとそう納得することができた。
「確かに悔しい思い出だけど、そのおかげでオレは強くなれた。自分の弱さを克服できたんだ。だからこそ、もう一度、進藤と打ちたい」
「……オレもだよ」
ヒカルが頷く。
「あの時、本当は逆転を狙う手も考えていたんだ。勝てる自信があれば、伊角さんらしくないあのハガシなんか気にせず、自分の碁を打てたはずだ。だけど、オレは目先の勝利に飛びついた。勝負を挑むことよりも、楽に勝つことを選んだ。それが情けなくて、次のフクとの対局で負けちゃったんだ」
「……悪かったな。オレのせいで」
伊角の言葉に、ヒカルが首を振る。
「伊角さんも言ったじゃん。これだって、オレが弱かったせいだよ。自分の碁に自信を持っていれば、ためらわずに対局を選べたはずなんだ」
「お前の言いたいこと、わかるよ」
ヒカルの言葉は、伊角にも納得できた。あの対局に勝った進藤までも、それを引きずっていたのか……。
すべては自分の心の弱さから始まったことだ。
だが、そのことを悔やんでいるからこそ、さらに強くなれる。
「オレからも頼むよ。オレ、伊角さんと打ちたい」
「ああ。もう一度、打とう」
伊角の成長は、その碁を見れば明らかだった。なにも、精神面だけのことではない。その棋力はさらに上がっている。
もともと、伊角はプロ試験に合格しないのが不思議なほどだったのだ。
原因はすべて、精神面の弱さにある。
中国棋院で悟ったように、伊角は生来の性格として諦めていた精神的脆さを、意識して乗り越えようとし続けた。受けた重圧を無視することから始まり、逆に緊張感を保つために利用する。そうすることで、より以上に、深くまで読み切れるようになった。
一方、ヒカルもこれまで遊んできたわけではない。
プロの世界に入り、トッププロの実力にも触れた。
アキラとの対局も重ね、佐為や行洋の碁を見てきた。
確実にヒカルも成長をしている。
二人の対局は、仲間内だけで見ているのがもったいないほどの一局だった。
ヒカルが頭を抱えた。
「くっそ〜! オレってバカだ。今の展開もちゃんと読めたはずなのに……」
悔しがるヒカルとは対照的に、伊角は満足そうに笑みを浮かべた。
6目半で伊角の勝利である。
ヒカルのわずかな見損じを利用して、伊角は地を削ることに成功したのだ。
「残念だったな」
「あーっ! オレってば、プロ試験本戦を除けば、伊角さんに勝ったこと一度も無いじゃん!」
その事実を思い返して、ヒカルが嘆く。
「ありがとうな、進藤。これでプロの世界でもやっていける自信がついたよ」
「納得できない! 伊角さん、もう一局だ。今度こそ勝ってやる」
「おいおい、せっかく手に入れた自信を取り上げる気か?」
伊角が苦笑を浮かべる。
「もうちょっと、我慢しろよ。今度こそ、オレも合格してみせるからさ。次に進藤と対局するときは、お互いプロとしてだ」
「……ちぇっ。絶対だからね」
「ああ。約束する」
そう口にした伊角の顔を、院生達は複雑な表情で眺めていた。
伊角が中国から戻ってきた理由――それは、プロ試験に参加するためだ。
来週から、彼等同士によるプロ試験予選が始まる――。
あとがき:
初めての伊角登場です。天才であるヒカルやアキラとは違い、”秀才の伊角”という印象がありますが、やはり頑張ってもらいたいものです。
ちなみに、プロ試験そのものは書く予定はありません。ヒカルは参加しないですから。