『ふたりの碁』(13)広島紀行
ヒカルの部屋で、部屋の主とあかりが向き合っていた。ちょうど、指導碁が終わったところで、盤上の石を片づけている。
「旅行だって?」
「うん。ヒカルは聞いてないの?」
不思議そうに、あかりがヒカルの顔を覗き込む。
「初耳だぜ」
「私のお母さんが、おばさんと話したみたい。夏休みになったら、二家族揃って、旅行に行こうって」
「どこ行くんだ?」
「まだ、決まってないよ。ヒカルは行きたいところある?」
「別にないけど……、まあ、考えてみるか」
「でも、ヒカルは行けるの? 手合いとか大丈夫?」
「なんだよ。オレが行ったらまずいのか?」
「ち、違うよ! 本当に行くつもりなのか、確認したかっただけ」
「大丈夫だろ。手合いを避けて、週末なら問題ないさ」
「じゃあ、一緒に行けるね」
あかりが嬉しそうに笑った。
数日後――。
自室で、ヒカルがひとりきりで会話していた。
――広島?
「ああ、虎次郎が生まれたところだぜ」
――その広島へ行くんですか?
「そう言っただろ」
――そうですか……。懐かしいですね。
「なんか、調べてみたら、虎次郎ゆかりの地って、いろいろあるらしいぞ。打った寺とか、墓とか」
――…………。
虎次郎との別れの場面を思い返したのか、相手の表情が陰った。
「あ、悪ぃ」
――いいえ。もう、百四十年も前のことですから。
広島まで、新幹線に揺られて4時間半。
「あ〜、ヒドイ目にあった」
ヒカルが半眼で嘆く。
さすがにつらい。
本来ならば、囲碁のようなゲームに向かない、活動的な性格のヒカルである。
狭い椅子に縛り付けられるのは拷問に近い。
「ヒカルってば、ずっと寝てたくせに。寝言がうるさくて、恥ずかしかったんだからね」
横に並んだあかりがむくれた。
「”くそっ”、とか”ずるいぞ”とか、何度も……」
「チェッ……」
それは佐為が悪いんだよ!
実は眠っていたワケではなく、幽霊である佐為と頭の中だけでおこなう目隠し碁をしていたのだ。
午前中に移動となった、旅行の初日。
定番として、原爆ドームや平和公園をまわり、宮島を見物した。
しかし、ヒカルと佐為が一番楽しみにしているのは、明日の予定である。
その、二日目──。
「ヒカル……ホントに大丈夫なの?」
「なんだよ。心配だったら、向こうについていけばよかったじゃん」
もともと、あかりがせがんだから同行を許したのだ。
「別にそうは言ってないじゃない」
ヒカルがどうしても行きたいと主張した因島だったが、両親は息子ほどには、興味がなかった。
親たちは、朝から神戸へ移動している。今日・明日と神戸巡りなのだ。ヒカルは夕食に合わせて合流する予定となっている。
結局、あかりだけがヒカルに付き合った。
まず、竹原の宝泉寺を訪れた。秀策が囲碁を学んだところだ。
――ここは、あのころと変わっていませんね。
百数十年の年月に思いを馳せているのだろうか。佐為が感慨深げにつぶやいた。
現代にも名を残している江戸時代の碁打ち、本因坊秀策──佐為が取り憑いていた虎次郎との思い出だ。
目の前に置かれている碁盤も、その思い出の品である。
「秀策が打った碁盤か……」
――この碁盤も私と同じように、歳月を越えて残っているんですね。
「なあ、あかり。一局、打とうか?」
「え? いいよ。そんなに長くいるわけにもいかないし」
「バ〜カ。オマエ相手に時間なんかかかんねーって」
「むー」
頬を膨らませる。
「こんな機会、滅多にないぜ。秀策の碁盤で、将来の本因坊と打てるんだ」
「なによ。うぬぼれちゃってさ。まだ、プロの一年生のクセに」
「君、プロ棋士なんか?」
説明をしていた人が驚いてヒカルを見返した。
「うん。今年からだけど」
「ほんなら、サインをもらえんかな?」
「え? サイン?」
「やめたほうがいいですよ。ヒカルの字って、汚いですから」
「うるさいなぁ。ひっこんでろよ」
「ええって。崩れている方が、サインらしく見えるじゃろうし」
「へえ、オレの初めてのサインだ」
ヒカルは嬉しそうだ。
「最初のサインが秀策ゆかりの地か……」
「本当に君が本因坊になったら、このサインの価値はずっと上がるじゃろうね」
そういわれて、イヤなはずがない。
「そっかー。そうだよな。虎次郎に負けてられないもんな」
「ナニ? 虎次郎って?」
あかりが尋ねた。
「秀策のことだよ」
「よく知っとるの。子供の頃は桑原虎次郎いうとったそうじゃ」
「桑原!? へー、そうなんだ」
幼名は知っていたものの、初めてその姓を耳にしたヒカルが驚いた。それは、奇しくも現在の本因坊位と同じ苗字であった。
石切神社。
秀策の生家跡に建てられた記念館を見物し、続いて墓参りもする。
普通の墓地の中に、秀策の墓も並んでいた。
やはり、古いだけあって年月を感じさせる。
──これが、虎次郎の……。
佐為が神妙に墓を見下ろす。
…………。
佐為が両手をあわせたのを見て、ヒカルもそれに習った。
(考えてみれば、俺が佐為と会ったのも虎次郎のおかげなんだよな)
虎次郎が喀血した血の跡。それが見えたのは、あの碁盤が虎次郎に縁のある品だったからだろう。
かつて、汚名を着た佐為が入水し、虎次郎が盤上で水の染みを見たように。
(絶対に、俺も本因坊になってみせるから。見ててくれよな)
一通り回ると3時を過ぎていた。
「さてと……、父さん達との待ち合わせまで、まだ時間あるな」
「じゃあ、喫茶店でも入る?」
「おっ、碁会所あるじゃん。覗いてみようぜ」
言うなり、ヒカルが歩き出している。
「ちょっと。ヒカルってば〜」
ここまできて、囲碁ばっかりなんだもん……。
むくれるものの、あかりには異を唱えることはできなかった。
ヒカルは、自分が夢中になってる時などは、平然と「じゃあ、オマエは来なくていいよ」とか言い出すのだ。
仕方なく、あかりも後についていった。
碁会所では、広島弁が飛び交っているため、言葉を聞いているだけでも、あかりには荒っぽく感じられた。
だが、ヒカルの方はまったく気にしていないらしい。以前の碁会所巡りで慣れたものだった。
「すみません。強い人って何人ぐらいいるの?」
「あん? 何でそんな事が聞きたいんじゃ?」
「一局ぐらいしか打てる時間なくてさ」
「それなら、相手は一人でええじゃろ」
「だめだめ。オレが多面打ちすれば、何局も打てるじゃん。だから、何人か相手が欲しいんだけど」
その言いぐさに、会話を聞きつけた碁会所の客が怒りを見せる。
他面打ち──ひとりで複数の人間と同時に対局するのだ。それは、本人の棋力だけでなく、適性にも左右される。なにより、格下相手でないと成立しない。
「ちょ、ちょっとヒカル……」
あかりはヒカルの今の実力を把握していないのだから、そんな心配も仕方のないことだろう。
――ヒカル。なにも、そんなに怒らせるようなこと言わなくても。
佐為がたしなめてきたので、ヒカルも反論する。
(何言ってんだよ。オマエのためじゃん)
――私のため?
(ここなら、オレのことなんて誰も知らないだろ? 正体がバレても、プロだから勝って当然だしな)
――私が打ってもいいんですか?
(ああ。だけど、一回だけだからな。さっさとしないと時間がなくなるぜ)
――は、はい♪
名乗り出たのは五人だ。
その上、ヒカルが強引に置き石させたものだから、ずいぶんと怒っているようだ。
(ヒカル〜)
あかりはいまにも泣きそうになっている。
しかし、ヒカル自身は平気な顔だ。佐為を信じ切っているのだ。
彼らは碁会所の客としては強い方だろう。
去年の今頃世話になっていた碁会所と似たレベルである。そこの常連だった河合さんぐらいだろうか……。
ただ、一人だけ、飛び抜けている人物がいた。がっしりとした体躯の人で、この人ならプロと比べても遜色なさそうだった。
佐為がヒカルの元に蘇ってから、初めての他面打ちである。
この人相手には手こずるかな……?
そんな事を考えていたヒカルだったが、佐為の示すままに打ち続けていると、あることに気付いた。
(あれ? もしかして……)
それを感じ取ったのはヒカルだけだろう。
相手の客達は皆、なんとか生意気な小僧を叩きのめそうと必死なため、そこまで思い至らない。いや、普通なら、この時点で気付くはずがないのだ。
一局目が終わった。
整地を終えると、客が悔しそうに呟いた。
「くそぉ、持碁や」
(やっぱり……)
ヒカルが傍らの佐為を横目で眺めた。
――こればかりは、人がいないとできませんからね。わたしもずっとやりたかったんですよ。
佐為が満面の笑みを浮かべる。
これは、去年の夏に、碁会所のマスターに勧められた練習だ。
盤面の目算を正確にできるよう、全ての対局を引き分けに持ち込むのだ。一目欠けても、多くても失敗という、勝つだけよりも遙かに難しい対局である。
あのころ、自分の対局する傍らで、佐為が羨ましそうに騒いでたっけ……。
ふたつみっつと、終局していく。
客達の目の前で、そのことが明らかになる。
終局した盤面が全て持碁だった。
「……そんな馬鹿なことあるかい」
客は無理にでも否定しようとするが、その眼前で、四つ目の持碁が完成する。
「なんて、奴じゃ……」
こうなっては、頼みの綱は、最後の一人だけだ。
「周平。がんばりや」
「そや。勝たんでもええきから、持碁だけはさけるんじゃ」
口々に残った仲間へ声をかけた。
「だーっ!」
たまらずに、周平が叫ぶ。
「気の抜ける応援はやめぇ。わしは勝つつもりでおるんじゃ、ここまで舐められて、黙っておれんわ!」
最後の終局。
ヨセが終わった時点で、どちらが優勢なのか観客には判断できなかった。
ヒカルと周平が整地をはじめる。
「まさか……」
客がざわめく。
二人の勝敗が微妙だから、差が少ないのだろうか?
それとも――。
整地が終わると、誰もが驚嘆のため息を漏らした。
持碁である。
彼らの顔には、すでに怒りはなかった。
ただ呆然と盤面を見つめている。
「さすがじゃのぉ。進藤初段」
周平が、そう話しかけてきた。
「え? オレの事、知ってたの?」
「ああ。新初段シリーズでは見事に本因坊を破っとったじゃろ」
「なに!? プロなんか、こいつ」
どよめきが起きる。
相手がプロ棋士であれば、その強さにも納得できようというものだった。
「置き石を増やして、もう一局、打ってくれんね?」
「んー、そろそろ、電車の時間だし……」
「どこまでいくんじゃ?」
「家族で旅行中でさ、これから神戸で待ち合わせなんだ」
「ほんなら、わしが車で駅まで送っちゃるけん。早碁でも相手してくれんね?」
熱心に周平が引き留める。
「ああ。いいよ」
「きゃーっ!」
あかりが思わずヒカルにしがみつく。
周平の運転で二人は駅へ送られているのだが、なにしろ運転が荒っぽい。
時間に間に合わせようと、周平が急いでくれているのだが、もともと、運転が乱暴なのだろう。
「のう、進藤初段」
「え?」
「来月、国際アマ大会があるのを知っちょるか?」
「そうなの?」
「今年の日本代表はワシなんじゃ。来月、東京まで行くけん、もう一度打ってくれんね?」
「うん、いいよ。そのかわりがんばってよ」
「おお。これで、来月の楽しみが増えたわ」
そう言って、周平は豪快に笑うのだった。
親とも合流して、翌日は神戸巡りとなった。
広島〜神戸と回った旅行だったが、ヒカルや佐為にとって思い出深いのは、やはり、二日目の出来事である。
二人にとって、すでに碁は欠かせない物なのだ。
あとがき:
……広島弁なんて無理(T_T)。
ヒカルの旅行そのものには興味がないので、囲碁関連だけ抜粋してます。