『ふたりの碁』(12)若獅子戦(後編)
「意外とキレイじゃない」
奈瀬に続いて、本田が部屋に入ってくる。
「キレイって言うか、基本的にモノがないんだな」
以前、口にしていたとおり、和谷は院生時代の友人を部屋に招いた。
本田、小宮、奈瀬の三人に、ヒカルも同行している。
「メシは森下先生のトコで食べさせてもらったりするし、洗濯物は家に持って帰るつもりなんだ」
「なにそれ? 全然、自活になってないじゃない」
名瀬が呆れる。
「そうか……、一人暮らしって、そういうことも考えなきゃまずいんだな」
ヒカルが初めてそこに思い至った。
「なによ? 進藤も家を出るの?」
「違うよ。そんなこと考えたことがないから、いま気づいたの」
「まあ、覚えておくのね。アンタが自覚してなくても、親がずっとしてくれていたコトなんだから」
その指摘に、思うところでもあるのか、和谷も真剣な表情になる。
本田が口を開いた。
「オレは卒業後もしばらく家で暮らすつもりだけど、いずれは家を出るんだし、事前に考えた方がいいよな……」
プロ試験の時に、院生とは違う外来の受験者が言っていた。
彼等は、自分の手で金を稼ぎつつ、それでも碁を諦めずにプロ試験へ挑戦し続けている。
仕事の必要もなく、生活の不安もない、自分たちの”学生”という身分はひどく恵まれているのだろう。
「今年のうちに、プロ試験にも合格したいんだけどな……」
「それは本田さんのがんばり次第じゃないの?」
あっさりとヒカルが指摘する。
「そうだけどさ。今年の若獅子戦じゃ、院生は二回戦で全滅だもんな」
「そうよね。たぶん、伊角くんも外来で受験するだろうし、院生の私たちも頑張らなきゃ」
奈瀬も表情を曇らせる。
「そうだ。和谷、勉強会のこと話した?」
ヒカルが水を向ける。
「ああ、そうか。この部屋に集まって、勉強会の計画たててるんだけど、みんなも来ないか?」
6月の第一土曜日──若獅子戦・三回戦。
ヒカルの前に勝ち登ってきた相手は、和谷だった。
森下九段の勉強会も含めて、打つ機会が一番多い相手だ。
「公式戦だと、プロ試験以来になるよな?」
和谷が思い返しながら口にする。
「ああ」
「今日は負けねぇからな」
「返り討ちにしてやる」
ふたりは勇んで席に着いた。
和谷は果敢に攻め込んできた。
いつもは、攻めを重視すると、守りの甘さが目立ってくるのだが、今回はそれがない。
ヒカルが焦って反撃しても、逆に攻め込まれるほどだった。
じりじりと地を削られながら、ヒカルは機会を待つ。
和谷の猛攻に、ヒカルは防戦一方だった。
観客はヒカルの敗北を予想する。和谷自身も勝利を確信していた。
そして、ヒカルが打ったぬるい一手。
和谷が応じる。
この時、すでに勝敗が決したと言っていい。
ヒカルは自分が不利な状況でわざと小さな隙を見せたのだ。
もしも、和谷が見逃していたなら、ヒカルに逆転の機会は訪れなかっただろう。
だが、和谷は気づいてしまった。
勝利をより確実なものにしようとして、和谷はヒカルの石を狙う。そして、その攻防に気を取られたことで、隣接していた布石をヒカルに切断されてしまう。
形成が大きく傾き、二目半でヒカルの勝利となった。
若獅子戦の初日に約束したとおり、ヒカルの昼食は和谷のおごりとなった。
和谷はラーメンにしろとゴネたが、せっかくなので、和谷の好きな回転寿司で昼食をとった。
和谷の財布は軽くなったが、ヒカルはご満悦である。
会場の前で見かけた相手に、ヒカルが声をかけた。
「準決勝、がんばれよ」
「ふん。どうせ僕に負けてもらいたいくせに」
「なんだよ、それ?」
「進藤は塔矢と打ちたいんだろ?」
「そりゃあ、そうだけど、オマエのことを応援する気持ちもあるんだからな」
「ふーん」
気のない返事を返してくる。
「オレだって、勝ち目のない対局って思われたら悔しいしな。みんなをビックリさせてやれよ」
「言われなくても、そのつもりだよ」
つんと、横を向く。
「変わんねーな、越智は」
ヒカルが苦笑した。
準々決勝。
ヒカルの前に座ったのは、よく知らない相手だった。
田名部三段。
特に名前も覚えていないし、対局室で見かけた記憶もない。
まだ、プロ棋士生活が短いヒカルは、碁界とのつながりが薄く、知らない人間の方が遥かに多い。
こうして対局しながら、新たな棋士と出会っていくことになるのだろう。
田名部との対局は、ヒカルにとって面白みのないものだった。
驚きの一手が打たれもせず、打ちもできず、淡々と打ち進める。
派手なところもなく、意外性もなく、とにかく田名部の打ち回しは手固い。
和谷に打ったような奇手が全くの不発に終わる。ヒカルの攻め手が空回りしていた。
田名部を強いとは感じなかったものの、その結果は一目半での勝利という、危ないものだった。
特別な一手に頼らない堅実な打ち回しには、そこにしかない強さがある。今の対局はそういう一局だった。
「進藤。決勝を楽しみにさせてもらうよ」
観戦者の中に、アキラの姿があった。どうやら、自分の対局をすでに終わらせていたらしい。
「ああ。オレもだ。それより、また対局放棄なんてゴメンだからな」
「わかってる。そっちこそ、遅刻したりしないでくれ。負けた口実に、つまらない、いいわけはされたくない」
「一言多いんだよ」
むっと二人でにらみ合う。
越智の姿は見えない。おそらく、例によってトイレに籠もっているのだろう。
さいわい、対局を見ていた冴木から詳しく聞くことができた。
ちなみに、当の冴木はその前の三回戦で、アキラに敗れていた。師匠の森下から激しい叱責を受けることだろう。
越智は果敢に攻め込んでいったらしい。
地を固めるよりも、お互いが攻めを優先させた――観戦者にとって、見ていて楽しめる対局だったらしい。
しかし、アキラの攻めで、右下の石を分断された越智の投了で決着となった。
ヒカルの部屋。
碁盤を挟んでヒカルの前に座っているのは、彼の師匠である幽霊――佐為であった。
「アイツ、また腕をあげているのかな?」
今度の対局は、ふたりにとって1ヶ月半ぶりの対局になるのだった。
若獅子戦のトーナメント表が送られてきてから、ヒカルは塔矢名人の碁会所に顔を出さなくなった。
いつもの延長ではなく、若獅子戦を真剣な勝負の場にするためだった。アキラも同じ思いなのか、棋院で顔を合わせても、理由を聞いてこないし、誘おうともしなかった。
――彼ほどになれば、それほど急激な変化はみられませんよ。ヒカルは、相手を気にするよりも、自分が強くなることを考えるべきです。塔矢アキラに勝とうなんて考えずに、自らを鍛えることでことですね。
「チェッ」
佐為の指摘にヒカルが悔しがる。
――考え違いしないでください。
「え?」
――ヒカルはこの数週間で、また棋力が上がっています。自らの力を伸ばすことを願えば、さらに成長できるはずです。
「そうなの?」
――ええ。成長度だけならば、塔矢アキラよりも、ヒカルの方が上だと思いますよ。
「そっか、じゃあ、明日の対局も……」
――それは、対局すれば、おのずとわかることです。まずは、目の前の対局に集中してください。
「ああ。わかった」
若獅子戦・決勝──。
院生の研修日だった先週をはさみ、やっと土曜日がやってきた。
若手プロと院生の総勢32名が参加したが、最終日の対局は、決勝戦と、三位決定戦の四名のみ。
しかし、敗れたはずの皆が、見学のために棋院を訪れていた。
決勝戦――ヒカルとアキラの対局である。
アキラの実力は誰もが認めている。この大会でも、すべて中押し勝ちだった。
そして、決勝の相手となるのは、今年プロになりたての中学生だった。
同じく若手だからこそ、若いプロ棋士にとっては注意すべき相手となる。
院生たちは、ヒカルがアキラへのライバル心を燃やしていることを知っている。大番狂わせを期待して、観戦にきていた。
注目の中、決勝戦が始まった。
アキラが先手。ヒカルは後手となった。
早々に、ヒカルは攻勢に出る。
アキラは自分の手筋を変えて、軽く受け流す。
アキラの守りの前に、ヒカルは攻めあぐね、盤面が膠着し始める。
長考していたヒカルが、やっと打った。
──これは?
佐為が驚きを表した。
これまでの打ち筋とあきらかに違う。突如として別な箇所に手を入れたのだ。
左上と中央をにらむ絶妙な一手。
アキラは左上に手をかけて守りを固めようとする。ヒカルはアキラが出遅れた中央を狙って攻め込んでいく……。
──そうではありません!
佐為が思わず口に出した。
――あ……。
幸運にもヒカルは対局に熱中していて、気づかなかったようだ。
慌てて口を押さえた佐為は、ヒカルが反応しなかったことに、ほっとため息を漏らす。
自分は対局中のヒカルに助言しようとしていたのだ。それは、なによりも、ヒカルのためにしてはならない事だ。
目先の勝利よりも、大切なことがある。
佐為はヒカルを、”勝つだけの棋士”にしたくはなかった。ヒカルを”強い棋士”に育てたいのだ。
彼の持つ、素質に見合うだけの……。
若獅子戦はアキラが優勝した。四目半の差でヒカルは準優勝に終わった。
賞状をもらったアキラは嬉しそうで、いつも冷静な彼らしくない。
彼が、”ヒカルへの勝利”を喜んでいるのを知っているのは、ごく限られた人間だけだった。
新入段のヒカルだったが、このアキラとの決勝戦により、これ以降、彼の名も棋士達の話題に上っていくようになる。
帰路、ヒカルは佐為相手に悔しさを漏らしていた。
──ヒカルは勝てましたよ。
佐為はそう応じた。
「どこで?」
──あの左上と中央を分断した一手です。
「ちぇっ、いけそうだと思ったんだよ」
──勘違いしないでください。あの一手は正しいんです。問題はその後の打ち回しです。
「え?」
──あれは確かに妙手でした。しかし、あの一手だけでは足りないんですよ。あそこで、左上に手をかけておけば、切り崩すことも可能だったはずです。素晴らしい一手ですが、ヒカルはそれを活かすことができなかったのです。
「そうか……、気づかなかった」
──そうでしょうね。
「ふん。どうせ、オレは未熟ですよ」
ヒカルがむくれた。
──ええ。まだまだですね……。
佐為の言葉は諭すような口調ではなかった。むしろ、喜んでいるように、感じとれた。
「?」
ヒカルが首をひねる。
未熟――ヒカル自身が口にしたとおり、ヒカルは未熟だ。言葉通り、成熟していないという意味だ。
恥じることではない。
ヒカルにはまだまだ成長する余地があるのだ。
どんなに強い打ち手であろうと、誰がどこまで伸びるかなど、推し量れる物ではない。
ヒカルがどこまで強くなれるか……。
以前にもヒカルはその閃きで、自分を驚かせたことがある。
たとえば、緒方に連れ込まれた碁会所で、初めて名人と向き合ったとき。
たとえば、中学生囲碁大会で、アキラと佐為が対局したとき。
いずれも、佐為の対局を奪うような形で、ヒカルは自身の一手を放った。
そして、今日──。佐為は再び、ヒカルの才能に触れたのだ。
確かにヒカルは成長している。順調と言ってもいい。
だが、ヒカルの素質は、さらにそれを上回るのではないだろうか。
まだ、本当の才能を発揮するには、地力が足りない。だからこそ、せっかくの閃きを、活かすことができないのだ。
なんという幸運か――。
改めて佐為は思う。
千年の時の果てに、自分は得難い二つの宝を手にしたのだ。
最強の好敵手。
そして、最高の弟子を――。
あとがき:
……苦労しました。
原作ではほとんど転用できる情報がないため、どうにかこうにか、組み立ててみました。