『ふたりの碁』(11)若獅子戦(前編)
「なんか、狭いな」
部屋に入ったヒカルが、身も蓋もない感想を漏らす。
「うるせぇな。それでも、オレ一人だけの部屋なの」
和谷が主張する。彼にとっては、中学を卒業して一人暮らしをする、初めての部屋なのだ。けなされて気分のいいはずがない。
「なんにもないし」
「必要な時に、揃えればそれで十分だろ?」
「そうだな……。一番大事な碁盤だけはあるもんな」
「そういうこと」
そう言って二人で笑う。
ふたりは、15歳と14歳。まだ年こそ若いが、すでに人生の目標を定めた人間だった。
プロ棋士――囲碁を極めるという、果てのない道を目指しているのだ。
「なあ、進藤。この部屋で勉強会をやりたいって考えてるんだけど、オマエもこないか?」
「他には、誰がくんの?」
「冴木さんとか若手の人だよ。あと、院生のみんなも誘ってみるけどな」
「院生かぁ……。なんか、久しぶりってカンジ」
「ああ、俺も思った。半年しか経ってないのになあ」
二人が感慨深げに漏らす。
プロ試験合格を賭けて、院生同士で戦ってから、すでに半年が経過した。
院生からプロへの階段を上れたのは、二人を含めたわずかに三名のみ。
負けた院生達は、もう一年その場にとどまることになるのだ。
院生の頃に比べると、やはり時間の感じ方にも違いは出てくる。
「みんなとも打ちたいし、俺も参加するよ。いつから?」
「具体的なことは、まだ決めてない。参加者の意見を聞いてからだな」
「なんだ……」
ヒカルがつまらなそうに肩を落とす。
「そんなに急がなくても、すぐに対局できるさ」
「……そうだよな」
和谷の言葉に、ヒカルがうなずいた。
5月末の土曜日。
棋院の会場に若い棋士達が顔を揃えている。
第十回 若獅子戦。
それは、20才までのプロ棋士と、プロを目指す院生の上位16名が参加する、若手のための大会だ。
昨年優勝したのは、中学二年生だった塔矢アキラである。
トーナメント表は郵送されているため、参加者の全員が一回戦目の相手を知っている。
しかし、壁に張り出されたトーナメント表の前には、人だかりができていた。
ヒカルもその中に混じって、トーナメント表を見ている。
「そういえば、村上さんは……」
思いついた名前を探してみる。
昨年の若獅子戦で、ヒカルが一回戦負けした相手だった。できれば、今回で雪辱したかったが、組合せを考えると……。
「……無理そうだな」
自分が配置されたのは左側のグループで、村上のいる右側のグループには塔矢アキラがいる。村上では、アキラに勝つのは難しいだろう。昨年の二回戦で行われた直接対決でも負けているのだ。
「俺達も当たりそうだな」
声をかけてきたのは和谷だった。
「ああ」
自分たちが勝ち上がれば、三回戦で対戦することになる。
もうひとりの同期である越智は、右側に配置されており、最大の敵は塔矢アキラとなるだろう。
「塔矢と打てるのは、決勝まで待たなきゃだめかぁ」
「おい、進藤。俺は敵じゃないってのか?」
「別にそういう意味じゃ……」
「くそっ、今回だけは意地でも進藤を負かしてやる」
「なんだよ、それ。オレは負けねぇからな」
「よし、じゃあ、三回戦で勝負だ。負け方がメシをおごる」
「のった!」
一回戦は全て、プロと院生の対局が組まれている。
ヒカルの一回戦の相手は、院生の頃から知っている飯島だった。
「やったじゃないか」
「え? なんのコト?」
いきなりの言葉に、ヒカルが問い返した。
「新初段シリーズだよ。桑原本因坊に勝っただろ」
2月の話だ。ずいぶんと昔のような気がする。
「うん。ありがと。あれは自分でも上手く打てたと思ってるんだ」
「院生になった翌年にはプロ試験合格。あげくは、逆コミとは言え、本因坊相手に白星か。大したもんだよ」
「どうしたのさ?」
突然、褒めちぎられるて、背中がむずむずする。
「もう一度、進藤と打ってみたかったんだよ。オマエのことだから、また、腕をあげたんだろうな」
事実を確認するだけのような、淡々とした口調で飯島が尋ねた。
「ああ」
自信に満ちた声で、ヒカルが応える。
「いまから、見せるよ。どれだけ成長したのか」
対局はヒカルの優位で進んだ。
一度だけ、飯島はヒカルのヨミ筋をかわしたものの、ヒカルの対応は早く、攻め込めそうな隙はすぐにふさがれてしまった。
遅れてその事に気づいた飯島は、なんとか体勢を整えようとするが、逆に地を奪われることとなった。
飯島は終局まで待たず、投了した。
「……ホントに強くなったな」
「飯島さんだって、強くなったじゃん。だけど、ココさぁ……」
飯島の手順に言及する。
「先にこっちに回れば、オレも応じるしかなかったんだよ。それにこの時も……」
「ああ、そうだな」
機械的に飯島が頷く。
ヒカルの指摘は理解できるが、どれも差を縮める程度でしかなかった。その手順を守っても、逆転するにはほど遠い。
ヒカルは、あれからさらに強くなった。
もともと、ヒカルが院生になったのも、碁を覚えて一年ほどだと、耳にしている。
プロ試験の予選で、飯島はヒカルのモロさに気づいた。しかし、ヒカルはすぐにその弱点を克服して、本戦に挑んできた。
飯島が予想したように、後から来たはずのヒカルは、誰よりも先へ走り抜けていった。
結果は、初めてのプロ試験で一発合格である。
やはり、こういう人間こそが、プロ棋士となっていくのだろう。
「聞いてる?」
「ああ……」
どうにも反応の薄い飯島に、ヒカルも検討する意欲をなくしたようだ。
「オレ、和谷の対局を見てくるよ」
ヒカルが立ち上がった。
「進藤、これからもガンバレよ。応援してるからな」
「え……?」
キョトンと飯島を見返したヒカルが、力一杯頷いた。
「うん。きっと、優勝してみせるさ」
そう応えてヒカルが去った。
どうやら飯島の言葉の真意に気づかなかったようだ。
飯島はこの一週後に院生をやめた──。
「進藤。仇を取ってくれよな」
声をかけてきたのは、ともに院生として学んでいた本田である。
「え? 本田さん、負けたの?」
「惜しかったんだけどな。去年は塔矢が相手だったから仕方ないけど、今回は……」
まだ敗戦が納得できないほど悔しいようだ。
「進藤、私たちも応援してるからね」
そう告げた奈瀬だけでなく、後ろに並んだ院生も、期待を込めてヒカルを見つめる。
「あのヒト、嫌われてるんだなあ……」
思わず苦笑いしてしまう。
正直言って、自分も好きな相手ではないが、かすかに同情心までわいてしまった。
ヒカルと同じように院生出身で、一年早くプロ棋士となった先輩。
ヒカルの次の対局相手は、真柴初段だった。
二回戦は昼食後に開始された。
「院生出身だって?」
「うん」
「じゃあ、負けるわけにはいかないよな。一年間もプロにもまれてきたオレとしては」
その言葉に、この碁盤を囲む院生達が、ムッとなる。
真柴の言葉の端々に、自分は格上だという、見下した態度が感じられるのだ。
……なんで、こう、嫌われるような発言ばかりすんのかなぁ。
ヒカルは挑発にのらず、呆れてしまう。
しかし、ある意味、ヒカルの方こそ、相手を軽く扱っているのだ。まったく真柴が眼中にないのだから。
「……そういえば、真柴さんの新初段シリーズの相手も、桑原先生だったって?」
「……っ!」
その指摘に、真柴が言葉に詰まった。
ヒカルが口にしたとおり、去年のシリーズで真柴の対局相手は桑原本因坊だった。そして、真柴が敗れた桑原本因坊に、ヒカルは今年勝っているのだ。本因坊側にはハンデがあったものの、ヒカルも真柴も条件は同じである。
真柴に反感をもっている周りの院生達が、くすくすと笑う。皆、プロ棋士を目指しているため、ヒカル達の戦歴についても知っているからだ。
「……チェッ、桑原先生も歳だからな。そろそろ下り坂なんじゃないの?」
真柴は、悔し紛れに、そんなことまで言い出した。
さすがに、ヒカルも聞き捨てならない。
「桑原先生は強いよ」
「じゃあ、わざと負けてくれたんじゃないか? 相手はチビっ子だしな」
「アッタマきた。コテンパンにしてやる!」
対局相手として不足だったが、おかげでやる気が出てきた。
圧勝してやる!
二人の対局を、観客は終始、楽しく見ていた。始まりから、終わりまで、まったく、ハラハラすることもなく……。
「マケマシタ……」
顔を歪ませて、真柴が告げる。勝敗はもう少し早くから決まっていたが、ここまで足掻いたのは、真柴の意地だった。
真柴の攻め込みは全て防がれ、逆にヒカルの手は全く読み切れないままだった。真柴の石はあちこちで分断され、盤上に残る石もずいぶんと少ない。
ヒカルの完勝と言える。
「ふん。相手はチビっ子だしな。弱い者いじめみたいで、本気になれなかっただけさ」
そう言い捨てると、碁石を片づけもせずに、さっさと帰っていく。
「なんなのよ、アイツ!」
奈瀬が憤然と、背中をにらみつける。
みんなで、真柴への不満をぶつけあう。プロになったとたん、態度が豹変した真柴は、院生内では評判が悪いのだ。
まだ、厳しい世界の手前にいる彼等には、彼の苦しみを察してやることができずにいる。
プロ試験に合格してしまったのが、ちょっとした運だということを彼自身も自覚していた。
現在、彼の周りにいるのは、全てが敵であり、自分よりも強い棋士ばかりなのだ。
いきおい、後ろから追いかけてくる相手は、警戒の対象にしかならない。
彼自身も辛いのである。
あとがき:
わかる人にはわかりますが、作中に嘘があります。
奈瀬の番外偏によると、飯島は3月いっぱいでやめたらしいので、若獅子戦に参加していないはずです。話に使えそうなのでこちらでは、もう三ヶ月ほど頑張ってもらうことにしました。
ちなみに、次回の後編で、若獅子戦は終了予定です。