『ふたりの碁』(10)囲碁研修
ゴールデンウィークに突入した。
新年度が始まり、初めての大型連休である。中には、仕事に忙殺される社会人もいるだろうし、ごくたまには、仕事に狩り出される学生もいる。
進藤ヒカルもまたその一人だった。
ヒカルは、一台の乗用車に乗り込んでいる。運転してるのは、塔矢行洋門下の芦原四段である。
「へへっ、ラッキーだったなぁ。こうやって、送ってもらえて」
後部座席のヒカルが嬉しそうに笑った。
「別に気にすることはない。どうせ、行き先は同じだからな」
応えたのは、助手席に座っている緒方十段だった。棋院でヒカルを誘ったのは、この緒方本人である。
もともと、図太いというか、物怖じしない性格のヒカルは、特に親しいわけでもない緒方の申し出をあっさり承諾した。
「でもさぁ。緒方先生も芦原さんも、せっかくの連休がつぶされて、悔しくない?」
「いや」
「とくに、気にならないなぁ」
緒方も芦原も、ヒカルに同調しなかった。
「えー!? なんで?」
「進藤くんは、まだ中学生だもんな……」
「なんだよ、それ?」
芦原の言葉を聞いて、不満そうにヒカルが頬を膨らませた。
「違う違う。馬鹿にしたわけじゃない。学校に通っていると、どうしても土日が休日ってイメージになるってことだよ」
「どういうこと?」
「例えばね、学生や会社員にとっては、一週間のサイクルがあって、休みは週末と決まっているだろ? だけど、プロ棋士っていうのは、手合ぐらいしか時間を拘束されないから、それ以外は時間が空くんだ。日曜だから休みとは思わなくなるんだよ。逆に、アマチュア相手のイベントなんかは、休日に行われることが多いしね」
「へー」
「曜日に関係なく、好きに時間を使えるんだ。オマエも、学校を卒業したら、そう感じるようになるさ」
緒方がそう結んだ。
「ちぇ。どうせなら、平日に呼んでくれれば、堂々と学校サボれたのに」
「それは、たぶん逆だね。君の勉強をジャマしないように、わざと連休中の仕事を回したんだと思うよ」
芦原の説明に、ヒカルがむくれる。
「ありがた迷惑だよ」
『ハハ』
緒方と芦原が同時に笑う。
単純にヒカルの無邪気さがおかしかったのだが、こういう子供が自分らと同じプロ棋士という事実におもしろみを感じたのだ。自分たちがよく知っている、大人びた少年とはずいぶん違う。
「……そうだ、緒方さん。後でちゃんと運転替わってくださいよ」
思い出したように告げる芦原に、緒方は面倒くさそうに応えた。
「わかってる。そのかわり、それまでは、寝かせてもらうからな」
日本棋院――。
プロ棋士たちの棋戦や手合いを監理しており、日夜、囲碁の普及に努めている組織だ。
棋院では、囲碁の普及を目的として、催し物を行うことがよくある。
広い会場で棋戦の公開対局をおこなったり、プロ棋士との交流を目的としてイベントを組んだりもする。
このゴールデンウィークは、1泊2日の予定でホテルを予約しており、囲碁ゼミナールが計画されていた。
今回の参加者の中で一番の大物である新十段・緒方は、ホテルまでの移動手段として、同門の芦原に車の手配を命じたのだ。
同じく参加予定となっていたヒカルは、偶然、棋院で顔を合わせた緒方から声をかけられ、同乗させてもらうことになった。
サービスエリアに入って、緒方が運転を代わった。
しかし、運転から解放された芦原は、助手席ではなくヒカルと一緒に後部座席に乗り込んだ。
「?」
不思議そうに見ている緒方をよそに、芦原がヒカルに話しかける。
「さあ、進藤くんやろうか」
「うん」
ヒカルが、リュックからマグネット式の囲碁盤を取り出した。
「おいおい。なんだそれは?」
緒方が訪ねた。
「オレ、いつもこの囲碁盤持ち歩いてるんだ。芦原さんと暇つぶしにやろうって話していて……」
「聞いてないぞ。オレは」
「だって、緒方さん。ずっと寝てたじゃん。起こすなって言ってたし」
ヒカルが口をとがらせる。
「そうですよ。緒方さんは、運転お願いしますね」
「くそっ」
悔しそうに、緒方が車を発進させた。
「さあ、この前の雪辱戦だ」
芦原はやる気マンマンである。以前、塔矢名人の碁会所で負けた一件が、引っかかっているのだろう。
「なんだ、芦原はすでに進藤に負けてるのか? 進藤、考え直せ。やはり、ここは、十段と打った方が勉強になるぞ」
そういって、ヒカルを誘う。
「さっき、約束したじゃないですか。緒方さんはおとなしく、運転していてください」
芦原の言葉に、緒方が不機嫌そうに眉根を寄せる。
「……おい、芦原。塔矢先生の名前にドロを塗るようなマネはするなよ」
「ヘンなプレッシャーかけないでくださいよ」
「ハハハ」
ふたりのやり取りにヒカルが笑った。
一台の車がホテルに到着した。
後部座席から、楽しそうなヒカルと、意気消沈している芦原が下りてくる。
対局の勝敗に触れる必要はないだろう。
「芦原。このことはちゃんと名人に報告しておくからな」
「そんなにいじめないでくださいよ。この前は中押しだったのに、今回は三目半でしのいだんですから」
「全然、自慢にならんぞ」
緒方は冷淡だった。
「このホテルか〜」
ヒカルは二人の様子を気にとめず、ホテルを見あげていた。
旅行することが滅多にないらしく、普通の観光ホテルでも物珍しいのだろう。
「ホントに子供だな」
緒方が評する。
「それでも、プロ棋士なんですよね」
芦原の言葉には感嘆が込められていた。
「どうだった?」
緒方が何を聞きたいのか、芦原にも察しがついた。
「強いですよ。アキラくんがライバルと認めるのも分かります」
「ライバル?」
「碁会所で会った時に、アキラくんがそう言ってましたよ」
「そうか……」
あれだけ意地を張っていた、あのアキラくんがね。
「あ、進藤くんだ」
「ホントだ。ヒカルー」
ロビーに固まっていた客の一団の中から、若い声があがった。
「え? な、なんだよ? オマエラ」
声をかけてきた相手に気付いて、ヒカルがうろたえる。
予想もしなかった相手がそこにいたのだ。
そこにいたのは、ヒカルの通っている葉瀬中学の囲碁部の面々である。
それも、三谷や金子といった面子も含め、六人全員が顔をそろえていた。
「何しに来たんだ?」
「へへー。あたしたちも、囲碁ゼミナールに参加したの」
代表してあかりが応えた。
「だって、高いんじゃねーのか? よく知らねぇけど」
ヒカルはゼミナールに参加して金をもらう方なので、参加料金がいくらなのか全く知らないのだ。
「お金なら、大丈夫。ほら、創立祭も成功だったし、タマコ先生が頑張ってくれて、たっぷり部費が入ったんだ」
「遊びに部費を使っていいのか?」
「遊びじゃないよ! これはあたしたちの合宿なんだから」
「合宿?」
「そうよ。だって、あたし達にとっても、今度の夏の大会が最後になるんだし、レベルアップと思い出作りとして、参加することにしたんだ」
「ちぇー。いい身分だな。オマエラ」
あかりに変わって、別な少年が口を開いた。
「何言ってんだよ。そういう進藤は、そのカネをもらって、ここに来てるんだろ? こっちこそ、羨ましいぜ」
皮肉げに応えたのは三谷である。
「こっちはこっちで、いろいろあるんだよ。オレは仕事だから、みんなの相手できないと思うぜ」
「何言ってんのよ。あたしたちだって、お金を払ってまで、ヒカルの指導碁を受けるつもりないわよ。他のプロに教えてもらうんだから」
「そりゃあ、そうだな。じゃあ、楽しんでくれよな」
「進藤くんも頑張ってね」
夏目が声をかける。
「ん。サンキュ」
緒方十段が初段の女性を相手に公開早碁対局を行った。解説を行うのは芦原だ。
それ以後は、講習や、参加者同士のトーナメント戦、指導碁が行われる。
予定されたスケジュールを消化して、夜も更けていった。
ホテルの大浴場から、浴衣姿で三人の少女がやってきた。テレビを見ていて入浴が遅くなったのだ。
「あれ? まだやってるのかしら?」
つぶやきながら、あかりがホールを覗き込んだ。
「あ、ヒカル……」
もうそろそろ十一時になろうかという時刻なのに、ヒカルは大人を相手に指導碁をおこなっていた。
「ジュースの差し入れでもしてやったら?」
金子がそう勧める。
「ううん。やめとく。邪魔しちゃわるいもん」
「進藤くんは、もうプロなんだね」
久美子が感心したようにつぶやいた。
「そうだね……」
昼に彼自身が口にしていた通り、ヒカルは仕事としてここに来ていたのだ。
当の本人が、仕事をつらいとは感じていないようだったが……。
三人はそっと扉を離れると、部屋へ戻っていった。
しばらくして、飲みに行っていた緒方がホールに顔を見せた。
「まだやっているのか?」
「え? あれ、もうこんな時間か……」
初めて時計に目を向けたのか、予想以上に時間が経過していることに驚いた。
「ずいぶんと熱心なんだな」
「やっぱり碁が好きだし……。プロならみんなそうでしょ?」
「フ……。人それぞれさ」
「?」
緒方の言葉に、ヒカルが首をかしげる。
「明日はどうするんだ?」
「帰りも緒方さん達に乗せてもらおうかと思ってたけど……」
そう口にして、ふと考える。
「でも、明日はほとんど仕事がなさそうだから、先に帰ろうかなぁ」
「じゃあ、昼間は何の予定もないんだな?」
「うん」
「よし。じゃあ、オレと対局しろ」
「え? なにそれ?」
「え、じゃないだろ。もともと、オマエに目をつけたのはオレの方が早いんだ。それなのに、芦原や桑原先生とまで打つとは……」
「そんなの、オレに言われても……」
ヒカルが返事に詰まる。
「明日はフリー対局の時間があったから、今日みたいに、早碁の公開対局をやるぞ。オレが話を通しておく」
「ホント?」
「ああ。せっかく来たんだし、オレ達も楽しもうぜ」
なにしろ、十段である緒方の言葉だ。
あっさりとプログラムの変更が通ってしまった。
昨日の公開対局と同じように舞台が組まれている。
解説の芦原、聞き役の西川恵美三段も、同じく舞台上に姿を見せている。
「やりますね。進藤くん」
西川の言葉に、芦原が頷いた。
「ええ。ここは、手拍子で受けてもおかしくないのに、冷静に先を読んでます」
「ひょっとして、進藤くんは早碁が向いているんでしょうか?」
「持ち時間が短いほど、センスにかかってきますからね。老練というには若すぎますが、経験を積んだ緒方さん相手には、早碁の方が差が縮まるかも知れません」
「芦原さんは、進藤くんの力をどう見ますか?」
「それが……。僕は進藤くんと対局したことがあるんですが、一度も勝ったことがないんですよ」
「あ、あの、ホントですか?」
驚いて聞き返された。
芦原が頷く。
「まあ、対局したのは、2回だけなんですが……。だから、初段とは言っても入段間もないためで、実力で言えばとても初段とは言えません」
「それじゃあ、大番狂わせがあるかも知れませんね」
「ええ。こちらへ来るときにも、僕はその件で緒方さんから嫌味を言われたんですよ。是非とも、進藤くんには勝ってもらって、今度は僕の方から緒方さんに皮肉の一つでも言ってやろうかと」
そう告げた芦原を緒方がジロっとにらむ。
「じょ、冗談ですよ。緒方さんが勝つと確信してますから」
慌てて弁解する芦原に、客席から笑いが起きる。
「すごいね……」
ぽつりと、あかりが感想を漏らす。
こうして百人以上が見守る中で、緒方十段を相手に対局しているのだ。
「そうだな」
三谷も頷いた。
雑誌などで名前を見かけるのとは違って、目前でこういう仕事を見ると、確かにプロだと実感できた。
まだ、自分たちと同じ中学三年ではあるが、ヒカルはすでにプロ棋士としての道を歩んでいるのだ。
残念ながら、自分たちのレベルでは知ることすらできないところまで、ヒカルは上っていってしまった。
「あたしらも頑張んないとね」
金子の言葉に、あかりがしっかりと頷いた。
大方の予想通り──まあ、進藤初段が勝つと考えた人間はいないだろう。
結果は中押しである。
ヒカルは緒方の猛攻を耐えきることができなかった。
序盤、ヒカルの棋力を確かめようと考えていた緒方は、ずいぶんと甘い手を打っていた。ヒカルはそれを見逃さず、激しく攻め込んでいく。ヒカルの攻めを凌ぎきるのが難しいと考えた緒方は、守るよりも先に、ヒカルの石を狙っていった。
力づくで勝利をもぎ取ろうとする緒方に、ヒカルもまた攻めを優先させる。お互いが攻めを重視し、結果的にヒカルの攻撃はわずかに及ばなかったのだ。
ほんの数手早ければ、ヒカルが勝っていたが、その数手があるからこそ緒方も応じていたのだ。
二人の実力差は確実にある。しかし、ヒカルの才能を感じさせるには十分な一局であった。
ヒカルは最後までゼミナールに参加することになった。
「……客と一緒に?」
「うん。バスで駅まで乗せてもらって、学校のみんなと一緒に電車で帰るからさ」
そう緒方に告げる。
「じゃあ、失礼します」
「ああ」
緒方の前を辞したヒカルが、友達の元へ駆けて行った。
「ホントに子供ですよね」
芦原の素直な感想である。
緒方も同感だった。
ヒカルはまだ若い。だが、実力は確かにある。
芦原の例を挙げるまでもなく、ヒカルはプロとして十分に通用する。塔矢名人や桑原本因坊が目にかけるのも間違っていない。
だが……。
プロにも二種類ある。
終着点としてのプロと、出発点としてのプロだ。
同じプロといっても、スポーツや格闘技のプロとは大きく違う。碁は、場所や道具に左右されない競技なのだ。
本人にその気さえあれば、いつでも、どこででも、碁の勉強はできる。
どこまで碁にのめり込めるか? どこまで碁に注ぎ込めるか?
そういう点が道を分かつ。
素質がある人間は、あっさりとプロ試験を合格しうる。
しかし、プロとは、その難関をくぐり抜けてきた者ばかりなのだ。
素質のある人間ならば、ここまではこれる。
だが、ここから先は、むしろ、素質以外の点が試されるのだ。
進藤がプロであり続けることができるか?
全てはこれからだった。
あとがき:
原作と比べて、ヒカルと緒方が気安い関係となっています。
これは、緒方から”saiについて追求されていない”ため、ヒカルには緒方を避ける理由がないためと考えてください。