『ふたりの碁』(9)新天地(後編)
ちょうど、ヒカルが見舞いに行った当日──。
ヒカルと入れ替わるように、緒方が病室を訪れた。
「進藤が来ていたんですか? 正面玄関で見かけましたが……」
「うむ。彼にも心配をかけてしまったようだ」
「なぜ、進藤が?」
怪訝そうに緒方が尋ねる。
「あの日、アキラとの対局があったらしいね。私のせいで二人の対局が流れてしまったそうだ。それで、気になっていたのだろう」
「なるほど……」
「ところで、緒方くん。君は、ネット碁には詳しいのかね?」
「ネット碁?」
「ちょっと、興味を持ったのだが」
「そうですか……。では、今度の見舞いの品はノートパソコンにしましょう」
「すまないね」
「どうして、急にネット碁に興味を持たれたんです?」
「進藤くんとその話をしていたんだよ。ネット碁のsaiの話だ」
「saiですって!?」
久しぶりに、それも行洋の口から聞かされた名に、緒方が驚く。
「最近になって、また現れたらしいじゃないか。君たちからもsaiの話を聞いていたから、じかに対局してみたいと思ってね」
そして、いま──。
緒方はちょうど病院を訪れていた。
来たる十段戦最終局を前に、対戦相手である塔矢”十段”の様子を見に来たのだ。
やはり、病気で弱っている相手からではなく、正々堂々と実力で初タイトルを勝ち取りたかった。
病室の前でノックするが、まったく反応がない。室内がうるさくて、聞こえていないわけでもなさそうだ。
「塔矢先生。入りますよ」
一応そう告げて、緒方が扉を開ける。
トイレかと思ったのだが、室内に行洋本人はちゃんといた。
だが、入室した緒方をまったく気にとめていないようだ。
「塔矢先生?」
行洋はベッドで上半身を起こしたまま、簡易テーブルの上にのせたノートパソコンを凝視している。
「ネット碁ですか? 熱心ですね」
そう声をかけたが、全く反応を示さない。よほど熱中しているようだ。
緒方が回り込んで、モニタ画面をのぞき込んだ。
見事な一局だった。
一体、誰と打っているんだ?
白がtoya koyo。
そして、黒は──。
sai?
saiと塔矢先生の対局?
その事実に慄然となる。行洋の実力は言うに及ばす、saiの実力も知っている。
つい先日、行洋自身が口にしていたことではあったが、こうも早く実現するとは……。
(すげぇ……)
佐為と共に盤面を見つめながら、ヒカルが感嘆する。
これまで、ヒカルは二度、このふたりの対局を目にしている。現代における最高峰に位置するふたりの一戦である。
だが、今、初めて、その対局が皆の目に触れようとしていた。
形勢はほぼ互角である。
お互い、相手を侮ることだけは絶対にしない。
相手の打ち筋を読み、自分の応手を選択する。
ある時は攻めに転じ、ある時は受け手に回る。一進一退の攻防を繰り広げる。
綱渡りのような対局である。しかし、自らの踏み込みに躊躇していては、この恐るべき相手からどのような反撃を受けるかわからない。
奇跡のようなぎりぎりの攻防が続く。
そして徐々にその形勢が傾こうとしていた。
まずい……。
隣でのぞき込んでいる緒方が気付いた。
当然、行洋も感じ取っているだろうが、その表情からは心情を察することができなかった。タイトル戦でもそうだったが、行洋は冷静沈着であり、どっしりと落ち着いて、対局時に心情を読みとられるようなことはしない。
佐為が中央の石を絞り始めた。
序盤に打った石が効きはじめたのだ。さすがに、今の局面を想定してのことではないだろう。しかし、早い時期に、その石を利用するよう打ち筋を組み直したのだ。
行洋がその狙いに気付いたのは、saiに遅れること、ほんの数手程だった。だが、それだけで対局は明暗を分ける。
「…………」
長考した行洋が再び、マウスを握る。
その一手を一番先に知ることができるのは、緒方だ。
なるほど。
行洋はあえて中央で反発することをせず、右下に向けて石をのばした。切断するためには、黒もその石を無視できない。
これなら、saiの攻め手を遅らせることができる。
カチ、カチ、カチ。
何度かマウスをクリックして、不思議そうに行洋がマウスを見る。
「緒方くん。これは、一体……?」
「ちょ、ちょっと、待ってください」
緒方が慌ててマウスを手に取る。
そのころ──。
「遅れて済みませんでした」
そう告げて、アキラが玄関をくぐった。
若手のプロ棋士が行う勉強会に呼ばれたのだ。
「塔矢くん!」
アキラの声を聞いて、数人が駆け寄ってくる。
「な、なんです? いきなり」
その出迎えに、アキラが驚いた。
「塔矢名人はどうしてる?」
「どうって、元気そうでしたよ。来る途中、お見舞いに行ってきましたから」
「じゃあ、もしかして、君もsaiを知っているのか?」
「え、ええ。知ってますよ」
『誰なんだい!?』
口をそろえて尋ねてきた。
「そんな……、正体なんて知りませんよ。ボクの方が教えてもらいたいぐらいです」
「え?」
「一度、ネットで打った事があるだけですから」
「じゃあ、塔矢先生もsaiと直接会ったことはないのか?」
「なぜ、父がsaiを知っていると思ったんですか?」
「……君は、ふたりの対局を知らないのかい?」
「対局……?」
「今、ネット碁で、塔矢名人とsaiが対局していたんだよ」
「な、なんですって!?」
saiとお父さんが?
「それで、どっちが勝ったんですか?」
思わず詰め寄った。
アキラの前で、先輩棋士達は、同時に同じようなリアクションを見せた。
がっかりしたような、落胆を思わせる仕草。
「父は負けたんですか?」
その問いに、そろって首を振る。
「じゃあ、勝ったんですね?」
またしても首を振る。
「それでは、一体……?」
「ちょっと、長すぎねぇか?」
佐為に声をかけるが、返答はない。
対局のことしか考えてないのだ。
気がつくと、盤面だけでなく、行洋の持ち時間のカウントまでが停止していた。同じ数字を表示したままなのだ。
「すみませーん」
店員の男性に声をかける。
「なんか、動かなくなったんだけど」
声をかけられた店員が、マウスを操作して状況を確認する。
新しくブラウザを立ち上げて動作を確認する。
「んー。パソコンじゃないですね。どうも、サーバー側が原因みたいですよ」
「サーバー側って?」
「この碁のソフトを置いているサーバーで障害が起きて止まったみたいですね。アクセスが集中したりすると、こういうことが起きるんですよ」
「いつ動くの?」
「さあ? 1時間後とか、2時間後とか……」
「え? そんなにかかんの?」
「サーバー側の事情にもよりますから、ここではわからないんですよ」
「じゃあ、この対局はどうなんの?」
「これまでの記録をセーブしていたりしなければ、これっきりですね」
「えーっ!?」
──そ、それではっ、この対局はどうなるんですか?
(聞いてただろ。コレで終わり)
──そんなぁ。対局はこれからじゃないですか!
(オレだって残念なんだぜ。どうにもなんねーよ)
──せっかく、いいところだというのに。
佐為がじんわりと涙を浮かべる。
佐為の気持ちはよくわかる。
しかし、どうにもならないものは、どうにもならないのだった。
世界中でどよめきが起こっていた。
莫大な観戦者が──存在したこと自体が原因ではあるが──それぞれに悔しがった。中には諦めきれずに、何度も表示の更新を行った人間もおり、それが負荷のかかった原因の一つだった。
結局、ネット碁で繰り広げられた、sai vs toya koyoは幻の対局となってしまった。
翌日──。
ヒカルは行洋の病室を訪れていた。
「昨日は残念だったよ」
他でもない、行洋自身がそう口にした。
「佐為も悔しがってさ」
ヒカルが苦笑してみせる。
「ちょっと、あの続きを確認したいのだがつきあってもらえるかね?」
「いいですよ。佐為もずっとあの対局のこと考えてたから。オレもつきあってたんです」
二人は、昨日の対局を盤面に並べ始めた。
「実は中断する直前に、こう打とうとしていたんだ」
行洋が次の一手を並べる。
「なるほど……」
佐為が昨夜、気付いた手だ。
「その場合、こうして、右下に手をかけるってさ」
「そうだろうね……」
行洋にとっても読み筋の一手だ。
お互いの読み合いのうち、先に相手を上回ったのは佐為だった。その一手でだいぶ優位に立つ。これを挽回する手は残されていない。
「そうなるか……。では、ここで、下にノビたらどうだったかね?」
もともと、今やっているのは対局ではなく、検討のつもりだ。勝ち負けにこだわるつもりはない。
「それなら、こっちにハネるって」
佐為のほうも、一度並べた棋譜にこだわらず、行洋に応える。
お互いに迷った手を見せ合った。
行洋が逆転できそうな手筋はわずかに二つだけだった。しかし、佐為がその応手を許すとは思えなかった。
「この対局も、私の負けのようだね」
「でも、これは中止になった対局だし、オレもずっと佐為につきあって、検討してたから……」
ヒカルがそう補足する。
「いや。いいんだ。今のままの私では佐為にかなわないのだろう」
――そ、そんなことはありません。こちらとしても、どれほど悩み、苦しめられたことか……。
慌てて告げる佐為の言葉を、ヒカルが伝える。
「佐為だって、こんなに苦しめられたのは、塔矢先生だけなんです」
「いや、慰めてもらう必要はない。自分でも分かっている。かなわないのだろう。いまのままではね」
「いまのまま?」
「うむ」
ヒカルの言葉に頷いてみせる。
「私はプロ棋士を引退するつもりだ」
「ええっ!? そ、そんな、だって……」
突然の言葉にうろたえたヒカルに、行洋は落ち着いて尋ねた。
「進藤くん。棋士の目標とは何だと思う? たとえば、プロになることや、タイトルを取ることだと思うかね?」
「うん。そう思うケド……」
「私は、そうは思わない。確かに大切なことではあるが、あくまでもそれは手段であり、通過点にすぎない。一番重要なことは、ただ一つ――強くなること。それだけだ」
「それはそうかもしれないけど。でも、タイトルって、強い棋士だから取れるんでしょ?」
「君自身が、一番知っているはずだろう? プロでもなく、タイトルホルダーでもない、強い棋士の存在を」
行洋がヒカルを見つめる。
佐為の事を言っているのは明らかだ。
「どんなに歴史あるタイトルを持っていたとしても、誰かに負け続けるようではそのタイトルに価値があるだろうか?」
「でも、五冠の先生がいなくなったら……」
「自分でも身勝手だとは思っている。だが、先ほども言ったが、いまのままの私では佐為に勝てないのだ。だからこそ、これまでと違った道を歩もうと考えている」
「先生がそこまで気にすることなんて……」
「勘違いしないでくれ。私は”プロ棋士としての義務”について語っているのではないよ。ひとりの碁打ちとして、私は佐為に勝ちたいのだ。佐為に挑み、佐為を負かす。そのことを考えるのが、どれだけ楽しいことか」
そう言って、行洋は笑みを浮かべる。
ヒカルの目には、その笑顔が佐為と重なって見えた。
「でも、塔矢先生が引退するのは、オレとか佐為が原因でしょ? 誰も知らないんだろうけど、オレ、ヤだよ。そんなの」
しかし、行洋は前言を翻すつもりはなさそうだ。
「自分の力を試し、鍛え、そして、再び佐為と対局する。今の私は、遠足を控えた子供のようにわくわくしているんだ。どうか、私の楽しみを奪わないでほしい」
そう口にして、行洋はヒカルに頭を下げた。
後日、十段戦が決着した。
新十段――新しい十段の誕生だった。
緒方が行洋を破って、十段位のタイトル奪取に成功したのだ。
その翌日には、塔矢行洋引退のニュースが駆けめぐることになる。
あの後、行洋は海外に出るつもりだヒカルに告げた。
韓国棋院や中国棋院を訪ねて、腕を磨くのだと……。
「結局、オレも、オマエも対局はお預けだな」
──そうですね。
ヒカルの初の公式戦は、アキラが対局放棄。
佐為と行洋のネット対局は、サーバーのダウンにより中断。
ふたりが顔を見合わせる。
「あ〜あ」
──あ〜あ。
同時に深いため息を漏らした。
あとがき:
今回のタイトルが一番かかっているのは、行洋でした。
漫画連載時、私は『ヒカルの碁』が終了することを、一度も想像したことがありません。(なにしろ、最終回を見終えても、最終回だと気付かなかったぐらいで……)
そのため、佐為と行洋の対局が実現するのは、当分先のことだと考えてました。「観戦者の数がすごい」という作中の台詞も、サーバー不調のための前フリだと思いこんでたんです。
その想像をこちらで活かすことにしました。
頂上決戦を期待された方には、この場で謝罪しておきます。