『ふたりの碁』(8)新天地(中編)

 

 

 

 行洋が担ぎ込まれた当日の騒ぎは凄まじかった。囲碁界に君臨する最強の棋士が倒れたのだから当然だろう。

 さいわい、命に別状はなく、行洋は無事に意識を取り戻した。

 

 

 

 ヒカルが見舞いに訪れた時、行洋の病室に他の客はいなかった。

 行洋は嬉しそうにヒカルを招き入れた。

「君にも心配をかけたようだね」

「でも、元気そうで安心しました。佐為もずっと心配しててさ」

「もう、大丈夫だよ。なんなら、今からでも一局打ちたいぐらいだ」

 その言葉に、ヒカルの傍らに立つ佐為も、ほっと胸をなで下ろす。

「でも、ここじゃあ、誰が来るかわかんないし……」

「確かに。残念だが、無理そうだ」

 行洋はヒカルの事情を考慮してくれている。例えば、行洋よりも先にヒカルを意識していた息子のアキラにすら、佐為の正体を隠してくれているのだ。

 ただ、もしかすると、行洋の本心は佐為を独占したいという所にあるのかも知れない。

「しばらくは対局もお預けだな」

 そう口にした行洋自身が、残念な表情を見せた。

「佐為にも我慢してもらうとしよう」

「あっ、今は他にも相手がいるんですよ」

「私以外にも、佐為のことを知っている人間がいるのかね?」

「いいえ。正体を隠したままで対局できるんです。ネット碁だから」

「ネット碁?」

「はい。インターネットで顔も知らない相手と打つんです。これなら、オレが打ってることも、バレずにすむし」

「私は碁石を握った感触がないと物足りないように思えるのだが、佐為は違うのかね?」

「佐為に打たせるって言っても、オレの身体に乗り移ってるわけじゃないんです。隣に並んで、次の一手を扇子の先で示してるだけだから、どうやっても碁石に触れないんです。……それに、碁が打てるだけで大喜びするようなやつだから」

 苦笑しながら、そう告げた。

「ふむ。しかし、インターネットで対局するとしても、それほど強い相手がいるとは思えないが……」

 それなりの打ち手はいるとしても、自分や佐為クラスとなると難しいだろう。

「最近じゃ、プロでもネット碁をやってるらしいですよ。この前、対局したichiryuなんか、凄く強かったし」

「ichiryu? もしかすると、一柳先生のことだろうか?」

「そうです」

 ヒカルが頷いた。

「一柳棋聖はネット碁をやってるらしくて、あの強さなら間違いないと思います」

「一柳先生と、佐為の対局か……。その一局を見せてもらえないだろうか?」

「いいですよ」

 当然のように持ち込まれていた碁盤を、ヒカルが部屋の隅から行洋の傍らまで持ってきた。

 自分が目前に見たその一局を盤上に並べてみせる。

 

 

 

 じっくりと落ち着いた対局が進む。

 しかし、一柳は佐為の力を見誤った。

 佐為が守りきれると判断した右下の石を、一柳がつぶしにいった。

 コレが失敗だった。

 一柳の攻め手をギリギリの状態ではあるものの、佐為は確実にさばく。半ば意地になったかのように、一柳は強引に攻め込むが、佐為はそれを凌ぎきった。

 その攻防にかまけたために、おろそかになった箇所を佐為につけ込まれたのだ。

 前半の展開からは考えられないほど、大差がつき、一柳は投了した。

 

 

 

「残念だったね。一柳先生が初めから本気だったら、もっといい勝負になったはずだが……」

「そうですね。あとで棋聖だって聞いた時には、オレもビックリしたけど」

「一柳先生は、ムラがある人でね。遊びで気を抜いているときなどは、よく甘い手が出てしまうんだ。タイトル防衛がかかった時などは、まるで別人のように厳しい手が続くんだが」

「へえ」

「次に、佐為と対局する機会があれば、一柳先生も真剣に臨むだろう。そんな機会があったら、また、棋譜を教えてもらえるかね?」

「いいですよ」

 ヒカルが笑って請け負った。

 

 

 

 行洋に告げたとおり、ヒマを見つけると、ヒカルはネットカフェに姿を見せた。

 最近は観戦者の数がうなぎ登りだった。

 つい先日、ichiryuを破ったことまでも、すでに噂で広まっていた。ヒカルは知らなかったが、ネット碁をしている人間の間では、ichiryuの正体は有名なのだ。

 saiに挑む人間も変わってきていた。観戦者が増えたこともあって、そこらの腕自慢では恥ずかしくて、対局に踏み切ることもできなくなっていたのだ。

「kazu……か。いまの相手も、強かったな」

 ――そうですね。この者もプロなんでしょうか?

 佐為が首をかしげた。

 棋聖である一柳までがネット碁に参加しているくらいだから、どんなプロが潜んでいてもおかしくはなかった。

 それどころか、saiへの挑戦を目的としていたプロ棋士を、そうとは知らないまま、すでに幾人もsaiは退けていたのだ。

 そして、一瞬だけその名前が、ヒカルの目に映った。

「あれ? 塔矢?」

 画面に表示された名前を見て、思わず声に出した。

 ――塔矢アキラですか?

 ……いや、違う。

「toya koyo……だって? 嘘だろ?」

 画面上には確かに”toya koyo”と書かれていた。

 ――塔矢名人? ホントですか?

「でも名人はパソコンなんか使いそうにないしなぁ……」

 ヒカルが参加している研究会の森下先生のように、古風で頑固な印象が強い。

 それに、見舞いの時にも、実際に打つ方が好きだって言ってたはずだ。

 ――とにかく、打ってみましょうよ。対局すれば、本物かどうか分かります。

 楽しそうに提案する。

 本物か確認する目的よりも、行洋本人と打ちたくて仕方がないのだろう。

「そうだな。名人が入院しちゃって、しばらく打てそうもないし……」

 マウスを操作して、ヒカルが対局を申し込む。

 しかし……。

「……あれ? 断られた。これ、ニセモノだぜ」

 ――はあ……。

 佐為があからさまにがっくりと肩を落とした。

 行洋はsaiの正体を知っているのだ。あの行洋が佐為との対局を拒むとは思えなかった。

「ちぇっ、ぬか喜びさせやがって」

 ヒカルが舌打ちした。

「ほら、オマエも元気出せよ。その気になれば、いつでも対局できるんだし」

 ――そうなんですけど……。

「オマエが打たないなら、オレが打とうっと……」

 ――そんな、ズルいですよ! ヒカルこそ好きな時に打てるんですから、ネットぐらいは私に譲ってください。

「はい。はい」

 苦笑したヒカルが、saiに対局を譲る。

 

 

 

 現在、十段戦の挑戦者対局が行われている。

 この日は、五番勝負の四局目にあたる。

 塔矢十段への挑戦者は、弟子である緒方精次九段。現在の勝敗は、二勝一敗で挑戦者が勝ち越している。

 だが、先日の三局目は行洋が倒れたための不戦勝であり、その前の二局目で行洋が精彩を欠いていたのも、体調不良が原因だったのかもしれない。

 今回、序盤こそ緒方の優勢を許したものの、行洋は地力をみせつけるかのように緒方をねじふせた。

 十段戦の決着は最終局まで持ち越された。

 

 

 

 対局後。

 負けた緒方は検討を済ませると、はやばやと立ち去った。

 この場に残っているのは、行洋と、記者達。そして、見学に訪れていた一柳棋聖だった。

「……そういえば、聞きましたよ。一柳先生はsaiと対局したそうですね?」

「ほー。塔矢先生はsaiを知っているのかい?」

「ええ。噂だけは。以前、息子が打って敗れています」

「そりゃあ、仕方ないさ。saiの強さは、間違いなくトッププロのものなんだし」

 一柳が自然と頷いた。

「saiってなんです?」

 同席していたひとりの記者が、行洋と一柳の会話に割って入った。

「アンタ、ネット碁のsaiを知らないの? 記者としてsaiを知らないのは問題だよ。二年前に一月ほどネットで勝ちまくったヤツでね。最近、また打ち始めたらしいんだ。これが強いのなんのって。アマチュアだろうって甘く見ていたら、あっさりと負けちまってさ。ありゃ、どっかの国のプロだね。あんなアマチュアが存在していたら、プロなんて存在する価値がなくなっちまうよ」

 一柳が楽しそうに説明する。

 記者達は言葉半分に聞いてるように見えるが、佐為の強さが本物であることを、行洋自身はよく知っていた。

 もともと、プロの碁打ちの世界は狭い。その上、リーグ戦に残る面子はほとんど変わらず、自然と強い打ち手は限られてくる。

 トッププロは海外棋戦にも参加しているため、他国の実力者も知っている。棋譜を入手することも可能だ。

 だが、saiはその中に存在しない。

 あれだけの棋力の持ち主が世に埋もれているとは、事情を知らない人間なら、納得できるはずがないのだ。

 一柳が感じているであろう不可解さは、行洋にも理解できた。

 

 

 

 saiは相変わらず勝ち続けている。ichiryu以外に、ネット碁でsaiを脅かす人間はほとんどいないのだから、当然だろう。

 そのsaiに、新たな参加者が挑んできた。

 toya koyo──それが、挑戦者の名であった。

「なんだ? 今度は向こうから対局を申し込んできた。何、考えてんだ、コイツ」

 ニセモノだと思っているヒカルは、toya koyoにいい感情を持っていない。

 しかし、佐為が宣言する。

 ――受けましょう。

「だって、ニセモノだろ?」

 ――どっちにしろ、誰かと対局をするつもりなのですから、この者と打ってみましょう。ホンモノかニセモノかは、すぐにわかります。

 

 

 

 東京――。

「……まあ、相手が悪かったな」

 自慢げに、見知らぬ相手に声をかけた。

 自分は今年からプロになる。ネットでの対局とは言え、アマチュア相手に負けるわけにはいかない。

 別な対局相手を捜そうと、名前のリストを確認する。

「おっ、またsaiがいる。観戦だ。観戦っと……」

 saiが再びネット碁に参加したことは、非常に嬉しかった。しかし、あの頃に比べると、saiを見かける回数がめっきり減っていた。

 一昨年などは、ほぼ一月の間、毎日ネット碁をしていた程だ。だからこそ、「saiは夏休み中の子供」だと疑ったのだ。

 しかし、今のsaiはたまにしか参加していない。それに、手合いの日には姿を見せていないと、人から聞いている。

 もしかすると、新しくプロになった人間ってことか?

 しかし、自分の同期にそれほどの棋士はいない。”JPN”の表示が正しいとしたら、もしかして関西棋院での新入段者だろうか……?

 画面上にsaiの対局が映し出された。

 対局者は――。

「toya koyo!?」

 

 

 

 中国――。

 モニタに表示された対局に、思わず震えが来た。

 日本で行われたアマチュアの世界大会で、自分は優勝したこともある。アマチュアとしてなら、世界でもトップクラスだとの自負があった。

 その自分が、ネット碁で完敗した。相手は、最近になって参加し始めたtoya koyo――おそらく、本物の塔矢名人だろう。

 その彼が、あのsaiと対局しているのだ。

 

 

 

 アメリカ――。

『おい。ネット碁を見てみろ』

 受話器から、開口一番、そう告げてきた。

 しかし、その言葉から受ける驚きはなかった。

「知ってるよ」

 そう応える。しかし、さすがに興奮は隠しようもなく、声がうわずってしまった。

『なんだ……。そっちも見ていたのか』

「もちろんさ」

 それだけで、お互いの状況が理解できた。

 相手も自分と同じように、パソコンのモニタを食い入るように見つめているのだろう。

 ネット碁の参加者の間で、よくこんな話が持ち上がる。

「saiと塔矢名人はどちらが強いか?」

 話題そのものは以前からあったのだが、saiと、塔矢行洋では住む世界が違う。直接対決は夢だと皆が諦めていた。

 なにより、saiが姿を消して2年近くも経っていたのだから。

 だが、saiはネット碁に戻ってきた。

 そして、toya koyoまでが、ネット碁に出現した。

 

 

 

 オランダ――。

 電話のベルがけたたましく鳴って、熟睡中の主人をたたき起こした。

「なんだ? こんな時間に……」

 まだ朝というにも早い時間だ。

 受話器を取ると、興奮した若い声が耳に入った。

『マスター(師匠)! とうとう対局しますよ!』

「……え?」

『今の時間だと、日本は昼ですからね。マスターが睨んでたとおり、昼に対局が始まったんですよ!』

 その言葉でやっと目が覚めた。

 このごろ、穏やかだったネット界隈は、にわかに活気づいていた。時期を同じくして、ふたりの打ち手が勝ちまくっているからだ。

 いつ、このふたりが激突してもおかしくはなかった。

 ネット中心の人間は、自分のパソコンを使用するので夜型の人間が多い。

 だが、彼らは違うようだ。彼らにとって生活の中心は碁であり、その延長としてネットをしている印象がある。事実、saiもtoya koyoも、ネット碁で見かけるのは、日本が昼間の時間帯だけだ。

 自分の碁会所の生徒達にもsaiのファンが多く、対局を楽しみに一晩中ネット碁を眺めている人間もいるらしい。電話の相手はそんな生徒の一人だった。

 

 

 

 打ち始めると、ヒカルにも分かった。このtoya koyoはホンモノだ。

 この打ち筋――。佐為と対等に打ち合える唯一の棋士、塔矢行洋名人に違いなかった。

「だったら、どうして、この前は対局を拒否したんだ?」

 ――私には、なんとなくわかります。

「なんで?」

 ――おそらく、名人はこの箱を扱うことに自信が無かったのでしょう。ヒカルも最初のころに、打ち間違えがありましたから。

「じゃあ、打ち損じがないようにしたかったのか?」

 ――はい。囲碁の本質は勝負です。しかし、ある意味では、対局者同士が全身全霊を込めて創り上げる、芸術品とも言えるでしょう。同じ相手と再び打っても、同じ対局は二度と生まれることはありません。もしも、自分の小さな失敗から、大切な一局を台無しにしたとしたら、悔やんでも悔やみ切れません。

「全ては、オマエと本気で戦うためってこと?」

 ――ええ。私達の対局を素晴らしいものにするためです。

 

 

 

 プロ棋士の頂点に立ち、名人・天元・碁聖・十段・王座のタイトルを保持する塔矢行洋・五冠。

 二年前に、わずか一月だけ姿を見せ、プロ棋士相手にも勝ち続けた、ネット碁無敗の最強棋士・sai。

 ふたりの対局が、世界中のネット碁参加者が注目する前で、繰り広げられようとしていた。

 

 

  つづく

 

 

 
あとがき:
 ここで次回へヒキます。ヒキまくりです。マンガでやられるとイライラしますが、自分でやる分には楽しかったり(^_^)
 一応、次回が後編となる予定です。
 ところで、連載中、和谷が軽く口にしていたから、「ichiryu」は多くのプロ棋士の中のひとりといった印象がありました。後に、十段戦で登場したとき、棋聖だと知ってびっくりしたものです。