『ふたりの碁』(7)新天地(前編)

 

 

 

 先日、塔矢名人の元を訪れて、佐為は二度目の対局を行った。

 突然実現した最初の対局とは違い、ヒカルと名人が事前に約束して、日取りを決定したのだ。

”佐為vs行洋”という、当代最高の対局を、今のところ、目にすることができるのはヒカルだけだ。

 おそらく、これからもその場に立ち会う事ができるのは、ヒカルだけなのだろう。

「オマエ、本当に嬉しそうだな」

 ──もちろんですよ♪

 鼻歌交じりに佐為が応える。

 幽霊として千年もこの世にとどまっている割には、やたらと子供っぽい。碁盤に向かうときの棋士としての顔と、普段の顔がまったく違う。”犬みたいな”と称したヒカルの言葉は、言い得て妙だった。

 ──あの者と何度でも対局できるなんて。こんな日が来るとは夢にも思っていませんでした。この世にとどまった甲斐があるというものです。

「千年かぁ。オマエはいつまでこの世に残るんだろうな?」

 ──さあ……? やはり、心残りが解消されて、私が納得したときなんじゃないでしょうか?

「……オマエの心残りってナニ?」

 興味なさそうにヒカルが尋ねる。佐為の答えが想像できたからだ。そして、それは正しかった。

 ──もちろん、神の一手を極めることです!

「そりゃあ、オマエならたどり着くよ」

 いまでさえ、最強の打ち手であり、人の十倍以上も存在し続けているのだ。これから先、どこまで成長するのか、ヒカルには想像もつかない。

「……塔矢名人はどうなのかな?」

 ──どう、というと?

「だから、神の一手を極められなかったら、名人もそれが心残りになるのかな?」

 ──あり得るかもしれませんね。名人ならば……。もしも、彼が幽霊になったら、この先の千年をずっと共に打ち続けられるのかも。

「オマエ、メチャクチャ、不謹慎なこと考えてない?」

 ──そんな、冗談ですよ。冗談。

 たらりと汗をかきながら、佐為が両手を振って見せた。

 

 

 

 佐為がヒカルの元に蘇って、2年以上が経っていた。

 その間、直に相手と向き合って打ったのは、両手の指でも余る程度でしかない。

 その点について、一番の責任者はヒカルだった。

 ヒカルとしても、佐為に打たせたいとは思っているし、その事自体は問題ではない。だが、佐為の棋力を自分のものだと思われるのは、大変困るのだった。

 もしも、佐為の実力が知れ渡ったとしたら、自分が対局することはできなくなる気がする。誰だって、佐為を望むはずだ。

 佐為の実力をヒカルのものだと思いこんでいたアキラは、ヒカルの碁を目の前にして「ふざけるな」と怒鳴りだしたのだ。

 あんな事は二度とゴメンだった。

「……でも、オマエも自分で打ちたいよな?」

 ──それは、もちろんです。

 その返答に、ヒカルの表情が陰った。

 ──あ、あの、そんなに気にしないでください。ヒカルの成長も楽しみですし。私が名人と対局できたのも、ヒカルのおかげですから。そりゃあ、私ももっと打ちたいとは思いますけど、そんなにワガママを言うつもりはありません。ただ、ちょっとだけでも対局する機会が増えてくれれば、それだけで十分ですし……。

 わたわたと佐為が元気づけようとする。

 結局、佐為自身は碁を打ちたがっているのだ。

「よし。決めた!」

 ──ヒカル?

 不意に宣言したヒカルを、佐為がきょとんと見返した。

 

 

 

 ヒカルがその店にやってきた。

 ──ここは?

 尋ねながらも佐為の顔に笑みが浮かぶ。

 佐為自身は、この店がどういう店なのか正確には理解していない。しかし、何ができる場所かは知っている。

 それを考えると、期待を押さえようがなかった。

 ヒカルが訪れたのは、ネットカフェである。

「これから、また、ネット碁を打たせてやるよ」

 ──本当ですかっ?

「ああ」

 ヒカルが頷いた。

 このところ、ヒカルも考えていたのだ。

 名人がトッププロと凌ぎを削っている間、佐為の相手は自分しかいない。

 それが理由で、佐為が名人に敗れるとしたら? 佐為が全力を出し切って敗れたのなら納得もいくが、自分が佐為に対局させないことで、佐為の腕を鈍らせてしまったら?

 ヒカルにとっても、佐為が敗れるというのは悔しいことなのだ。

「あの時のように、毎日ってわけにはいかないけどな」

 以前とは違い、夏休みではないし、使用料金も払わなきゃいけない。

 ――ヒカル……。

「これからは、できるだけオマエにも打たせるようにするから、名人に負けるなよな」

 ――はい♪

 

 

 

 以前にもヒカルはインターネットで佐為に碁を打たせたことがある。直に顔を会わせる必要がないため、佐為の正体を知られずに済むからだ。

 ヒカルの夏休みを利用して、一月近くの間、思う様打ち続けられたことは、佐為にとって至福の時だったろう。

 しかし、そのsaiがあまりに強かったために、皆がsaiに興味を持ちだした。ついには、saiと対局したアキラが、ヒカルを疑って正体を確かめに来たほどだ。

 その直後、ヒカルはネット碁をやめたのだった。

 期間こそ短いものの、saiはその棋力を皆の脳裏に刻みつけた。

 あれから、二年近く経過している。

 しかし、その頃にネット碁をしていた人間は、口々にその名を広めていった。

 インターネットの伝説の棋士”sai”の名を──。

 

 

 

 ヒカルはパソコンやネット環境に疎い。

 彼にしてみれば、ネット碁に参加して、挑戦者が多すぎて困るといった印象に過ぎなかった。

 しかし、参加者達はチャットなどでsaiの正体を推測し合ったり、観戦した棋譜を交換したりと、大きな騒ぎとなっていた。

 再び出現したsaiの対局は、絶えず多数の観戦者をひきつれていた。

 そして、コワイ者知らずのアマチュアの挑戦者達を、saiは一刀両断していく。

「あれ? コイツの名前、どっかで聞いたことがあるな……」

 ヒカルがその名前を目にとめた。

 ――そうなんですか?

「確かプロだって、和谷が話してたんだ」

 ――プロですって?

 佐為が目を輝かせた。

 ――ヒカル。対局してみましょう。

「よぉし」

 ヒカルはその名前にカーソルを当てて、クリックした。

 

 

 

 今日は、プロ棋士となる人間にとっては大切な日だった。

 新入段者の免状授与式があるのだ。

 この日から、正式にプロとしての生活が始まる。

 プロ試験に合格した三人のうち、ヒカルと、和谷の二人が顔をそろえていた。

「なあ。和谷は最近もネット碁をやってんの?」

「たまにな。それがどうかしたのか?」

「ichiryuって、どんなヤツ? 前に話してたよな?」

「……一柳棋聖のことか?」

 和谷が尋ね返す。

「棋聖って、それもタイトルなの?」

「かーっ、オマエ、ホントにプロか?」

 和谷が呆れた。

「べつにイイだろ。たまたま知らなかっただけじゃん」

「オマエは知らないことばっかりじゃねーか。いいか? 棋聖ってのは、名人や本因坊と並ぶ、三大タイトルの一つなんだ。そのぐらい、覚えとけ」

「そんな、スゴイんだ?」

「ああ。オレだってネットで対局したときはビックリしたさ。てっきり、ニセモノだと思ったし」

「ニセモノ?」

「ネット碁だと、好きに名乗れるだろ? だから、プロの名前を騙るヤツがいるんだよ」

「へー。そんなヤツもいるんだ」

「ヘボなヤツが目立ちたがってるだけだから、対局するとバレバレだけどな。前も、saiのニセモノがいてさー、ありゃあ、ムカついたぜ」

「……sai?」

「ああ。まったく、インターネットの最強棋士の名を汚すなってんだよ! 身の程知らずもいいとこだぜ」

 余程、腹に据えかねていたのか、和谷が声を荒げる。

「ハハ」

 ヒカルは苦笑を浮かべるしかなかった。

「それで……、なんだって急に一柳先生に興味をもったんだよ?」

「実は、この前、ネットで……」

 和谷に説明をしようとして、ヒカルは後の言葉を飲み込む。

 ひとりの少年が視界に入ったからだった。

「おめでとう」

 そう声をかけてきたのはアキラだった。

「越智くんはまだ来てないのかい?」

「ああ。それより、オマエは何しに来たんだ?」

 ヒカルが尋ね返す。

 アキラは去年の入段者だ。今年の免状授与式に用があるとは思えない。

「わざわざ、見に来るなんてヒマだな」

 碁界にうといヒカルが、的はずれな事を口にする。

「進藤。違うって。去年、優秀な成績を残した人間の表彰がメインなんだよ。むしろ、俺たちの方がオマケ」

 見かねた和谷が説明してやった。

「そうなの?」

 ヒカルのつぶやきに、和谷とアキラがこっくりと頷いた。

「僕は連勝賞と、勝率第一位賞を受賞したんだ」

「へー」

「父さんも来ているし、他には倉田さんや、桜野さんも」

 言われてもヒカルにはどんな棋士なのかまったくわからなかった。

 ヒカルは棋力こそ十分なものの、急激に駆け上ってきたために、プロの世界については全くの無知なのだ。

「やっぱりスゲーんだな。オマエって」

 これまでも、ヒカルはアキラと何度か対局している。アキラが自分より強いのはよく知っているが、受賞するという客観的な事実として知らされるのは、やはり違って感じられた。アキラはプロの先輩達に混じっても、なお優秀な存在なのだ。

 アキラをライバル視しているヒカルとしては、誇らしくもあり、悔しくもあった。

「それよりも、今度は君の番だ。どこまでいけるか見せてもらうよ」

 ヒカルに向かってそう告げる。

 塔矢は、そこまで進藤を評価しているのか……。

 その言葉に和谷はあっけにとられていた。

 

 

 

「おはよ」

 顔を見せた越智を三人が出迎えた。

「どうしたんだよ? 越智が遅れるなんて珍しいじゃん」

 ヒカルが尋ねる。

「たまたま道が混んでいただけだよ。式には間に合ったんだし、問題ないだろ」

「そうだな。いつも遅れる進藤が言う事じゃねーよ」

 和谷の言葉にヒカルを除いた皆が笑みを浮かべる。

「なんだよ。別にオレだって遅刻したことないだろ」

 そう答えたヒカルは、目の前の二人がじっとこちらを見ているのに気付いた。

 だが、その視線は自分に向けられていない。

 不思議に思ったヒカルが後ろを振り向くと、ひとりの男がこちらに歩み寄ったところだった。

 塔矢行洋名人である。

「今年からプロになるのは君たちだね?」

「は、はい」

 慌てて和谷が答える。

 なんと言っても相手は、五冠のタイトル保持者である。プロ棋士の頂点に立つ人間だ。緊張しないほうが嘘である。

「今年の新入段者は特に若いと聞いていたよ。どの世界も若い人間が活躍してこそ、進みもすれば、広がりもする。これからの囲碁界を背負っていくのは君たちだ。精進しなさい」

『は、はい!』

 かしこまって、和谷と越智が頭を下げる。

 だが、ヒカルだけは、違っていた。

 行洋の目を見返して、しっかりと頷いた。

 その様子を目にして、行洋が笑みを浮かべる。

「これからも頑張りたまえ」

 

 

 

 行洋が立ち去ると、和谷と越智が思わずため息を漏らした。

「やっぱり、トッププロともなると違うな〜」

 和谷が正直な感想を口にする。

 控えめながら、越智も頷いてみせる。

「でも、最近の父さんは、ずいぶんと柔らかくなった気がするけど」

 そうアキラがつぶやいた。

「どういう意味だよ?」

「以前の父さんの方がむしろ厳しかったんだ。でも、このごろは置き碁を並べるだけでも楽しそうで、すごく生き生きとして見えるんだ」

 そう言って、父親の後ろ姿に目をやった。

 ヒカルだけにはその理由がわかった。佐為と同じで、好敵手と打てることが嬉しいに違いない。

「……そろそろ、ボクもいかないと。じゃあ、初手合い楽しみにしている」

 そう言い残してアキラが立ち去った。

「なんだよ。アイツ。……本当に、オマエのことしか見てないのな」

 和谷が腹立たしげに呟く。

 ヒカルの同期としてプロになったのに、アキラに意識されないことが悔しかったのだ。

 

 

 

 午後には新入段者の研修会があった。

 プロ生活での説明を受けるのだ。注意事項や心構え。様々な規則。そして、大手合の予定。

(えーと、オレの初対局は……)

 指でたどって、自分の名前を探し出す。

 最初の対局者は、”進藤ヒカル”の隣に書かれた……。

 その名前を目にして、ヒカルの身体がブルっと震えた。

(塔矢アキラ!?)

 それが、ヒカルの初戦の相手であった。

 

 

 

 4月4日。

 その日がやってきた。

 悔しいことに、ヒカルは今まで一度も、アキラに勝ったことがなかった。

 初めて会ったとき──佐為はアキラを相手に指導碁を行った。結果は、佐為がコミの存在を知らなかったため、ルール上では佐為の二目半の負けとなっている。しかし、アキラ自身が格の違いを悟っていた。

 二度目の対局──アキラは、秀策のコスミを破ろうと知恵を絞ったが、佐為の容赦のない一撃により、中押しで敗北した。

 アキラには知りようもないことだったが、それらはすべて佐為の対局だった。

 ヒカルにとっては、葉瀬中創立祭の対抗戦がアキラとの初対局であり、それ以降の対局はすべてヒカルが敗れていた。

「あまり、気負いすぎるなよ。実力を出せないまま終わると悔しいぞ」

 冴木がそうたしなめる。自分と同じく森下九段の研究会に顔を出している兄弟子のような棋士だった。

「わかってるんだけどさ」

「まあ、ライバルっていうのはそういうもんかもしれないな。なにしろ、森下先生自身が、ああだしな」

 笑いながら口にする。

 森下は同期の行洋をずいぶんと意識しているのだ。自分の弟子達を相手に、「行洋の門下生には負けるな」と、口がすっぱくなるほど繰り返している。

 今日の対局でも、ヒカルが負けようものなら、きっと雷が落ちるに違いない。

 

 

 

 プロとしての初対局──。

 お互いの手の内を知っている二人の対局は、驚くほど早い。

 いつものペースで対局を進める。

 盤面はヒカルがやや不利だった。

 だが、瞬間的にヒカルは閃いていた。

 石をつまみ上げるのももどかしく、ヒカルはその一手を放つ。

「…………!」

 盤面を凝視したアキラが、顔を起こしてヒカルの顔を見つめる。

 まったく読んでいない手だった。

 まさか、右スミの攻防を後回しにして、中央を狙ってくるとは……。

「く……」

 アキラが盤上に再び目を落とす。

 その様子を見るだけで、いかに効果的な一撃かわかった。

 アキラの応手に失着はないものの、徐々に形勢が変わり始める。

 やった……。

 内心、ヒカルは喜んでいる。

 初めて、塔矢に勝てる!

 その想像に、鼓動が激しくなった。

(だめだ。まだだ。まだ、終わっていない。塔矢の事だ。どんな手を打ってくるか。最後まで油断するな)

 ヒカルは喜びを押し殺して、自分に言い聞かせる。

 そんな心の声が聞こえたわけでもないだろうが、アキラは次第に盛り返してくる。

 そこへ──。

「塔矢くん」

 …………。

「塔矢くん」

 肩を揺すられた。

「なんですか?」

 塔矢が珍しく不機嫌そうに相手を見返した。それだけ、盤面に集中していたのだ。

「ちょっと、いいかい?」

 相手は棋院の職員だった。

「?」

 不審に思いながらも、アキラはその男に従って、対局室を出て行った。

「……なんだよ、いいトコなのに、ジャマしやがって」

 ヒカルもまた不機嫌そうにつぶやいた。

 アキラの思考中だったので、そのまま時計が進んでいる。

「これが、原因で塔矢の持ち時間が減ったらどうするんだよ」

 ヒカルとしては対等な条件でアキラと勝負したいのだった。

 ──ヒカル。気持ちはわかりますが、苛立っていては対局に影響しますよ。考えなければならないのは、盤上の事だけです。

(……そうだな)

 この中断でヒカルの碁が崩れてしまったら、今度はアキラの方が悔やむだろう。

 だが、アキラが戻ってくることはなかった。

 

 

 

 戻ってきたのは、アキラではなく、職員がひとりだけだった。

 今度は、ヒカルが対局室の外まで連れ出されていた。

「この対局は君の勝ちだよ」

 そう告げられたが、嬉しくもなんともなかった。

「え? なんだよ、それ! アイツはどうしたんだ?」

 驚いたヒカルが尋ねる。

「塔矢くんはいま、病院に向かっている」

「……アイツ、どうかしたの?」

 その問いに、職員が首を振った。

「今、連絡が入ったんだけど、塔矢名人が倒れられたらしい」

 

 

  つづく

 

 

 
あとがき:
 多少アレンジしつつ、ほぼ原作通りでしょうか。
 長かった原作ですが、どうも佐為が行洋を指して使う言葉は「あの者」しかないようです。それなりに親しい、ココのSSでは、「名人」という呼び方で行こうと思います。