『ふたりの碁』(6)塔矢名人

 

 

 

「お父さん。どうかしたの?」

 怪訝そうな顔で、アキラが尋ねる。

「別にどうもしないが……。なぜ、そんなことを聞くのかね?」

「なんとなく、そわそわしているように見えたから」

「そんなことはない。気のせいだろう」

 そう言い切られては、アキラとしては追求できるはずもない。

 他の家ならいざ知らず、この塔矢家では、父親たる塔矢行洋は家の主であった。

 納得はいかないものの、彼は頷くしかない。

「じゃあ、今日は勉強会で帰りは遅くなるから」

 それはアキラと同じプロ棋士達の集まりだった。優れた実力もあり、まだ若くて誘いやすいためか、アキラはその手の勉強会に呼ばれる事が多かった。

「わかっているよ。頑張りなさい」

 玄関まで見送りに出た行洋を、不思議そうにアキラが振り返る。

 父が、玄関で自分を送り出すなんて、非常に珍しい。まるで、自分が出かけるのを確かめたがっているようだった。

 今日はお母さんもいないし……。

 まさか、この父が浮気とは思えないけど。

 

 

 

 戸を閉めて、塔矢行洋がほっと息を吐いた。

 思わず笑みがこぼれていた。

 そうか、そわそわしているように見えたのか……。

 それも仕方のないことだろう。

 今日は特別な日なのだ。

 アキラには隠し通さねばならないのだが、今日の客は今の自分にとって、一番大切な人物だった。

 

 

 

 そして、一時間ほど後、その人物が塔矢宅を訪れた。

 行洋が待っていたのは一人の少年である。

 いや、正確には「少年」ではなかった──。

 

 

 

「塔矢……えっと、アイツいる?」

 少年が、開口一番でそう尋ねた。

「いや。君との約束だからね。今日は若手の勉強会で遅くなるらしい」

「そうか、よかった」

「そこが、私の部屋だよ。待っていてくれたまえ。いま、お茶菓子でも出そう」

「あ、いいです。気をつかわなくても」

「遠慮することはない」

「そうじゃなくて……」

 少年が苦笑する。

「アイツが、うずうずしてうるさくて」

 そう説明されて、行洋にもその気持ちは手に取るようにわかった。

 自分もまた、「彼」と同じだからだ。

「では、お願いしよう」

「はい」

 

 

 

 碁盤を挟み、塔矢行洋名人と新初段・進藤ヒカルが対峙する。

 五つのタイトルを独占する塔矢名人が、プロ未満であるヒカルとの対局を、待ちかねていたのだ。

 その理由を正確に知っているのは、当事者である二人だけだった。

 行洋が真に待ちかねていたのは、進藤ヒカル本人ではなく、彼に隠された真の棋力の持ち主なのである。

 行洋は、ヒカルの口から直接、「平安時代の天才棋士の幽霊に取り憑かれている」と打ち明けられていた。普通ならそんな話を真に受けるはずがなかった。

 そう、普通であれば──。

 だが、進藤ヒカルは普通の少年ではなかった。

 先日、行洋が彼と対局する気になったのは、彼がかいま見せる才能に興味があったからだ。

 結果は行洋の想像を遙か越えていた。

 息子のアキラが「この進藤君」に負けたのは当然のことだった。名人である自分でさえ敗れたのだから。

 行洋はプロ棋士の中でも現役最強といえる。彼が保持しているタイトルは、名人・十段・碁聖・天元・王座の五冠にものぼる。その彼をもヒカルは上回ったのだ。

 おそらくその事実は、行洋自身の口から語られたとしても、余人が信じることはないだろう。もし、信じるとするなら、ヒカルが打った「最強の碁」を知っているアキラぐらいだった。

 碁に強い幽霊に取り憑かれたなどと、眉唾な話を信じるのもどうかとも思う。

 しかし……。

 ヒカルが「幽霊に取り憑かれている」という事よりも、「中学生という若さであれだけの棋力の持ち主」という事実の方が、行洋には信じられなかった。

 ヒカルの打ち回しには、若さから来る、荒さや、見損じ、そういうものが皆無だった。強引な一手も打つが、守りを忘れることもなく、その目は盤面全体を見つめている。

 素質だけで、これだけの力を得る事こそ、あり得ない話だった。

 それに、彼自身の力だというのなら、隠す理由が全くないのだ。存分に実力を発揮すればいい。

 また、彼の言う幽霊の正体が、そもそもおかしかった。もしも、嘘だとするならば、もっと単純に、「本因坊秀策の幽霊に取り憑かれている」と説明すればそれですむ。これほどの力を持っているのならば、誰も疑いはしない。「秀策の打った碁が、本当は彼に取り憑いた幽霊のもので、その幽霊が今度は自分に取り憑いた」というのは、あまりに回りくどいだろう。

 そして、以前、ネット碁に出現したという強者も、彼が口にした「sai」という名だったのだ。

 彼の言葉を信じれば、それら全てが符号する。

 ヒカルが力を持つ理由も、それを隠したがるわけも……。

 行洋が笑みを浮かべる。

 いや、彼の事情に興味もあるが、それは二次的なことだ。

 最強の打ち手が眼前にいる。

 盤を挟んで、碁石を握っている。

 それこそが、自分にとって一番重要なことだった。

 

 

 

 行洋は改めて思う。

 自分は敵に飢えていたのだと。

 たしかに、自分も無敗とは言えない。だが、それでも互角と思える人間はいなかった。

 いままでは、自分の飢えを自覚せず、ただただ、対局を重ねて、飢えを満たそうとしていたのではないか? だが、それは誤りだ。どんなに数をこなしても、質に不満があったのだろう。

 今の自分なら、自らの望みを自覚している。

 佐為との対局。それだけが望みだった。

 並み居るプロとの対局が、煩わしく思えてくる。なによりも優先すべきは佐為との対局であり、それを妨げるものすべてが、忌避すべきものに感じられる。

 彼との対局にはそれだけの価値があった。

 

 

 

 ヒカルに請われて行った、先日の佐為との対局。

 あれが自分を揺り動かしたのだ。

 それまでの自分は暗い中を手探りで歩いていた気がする。

 見果てぬ先にある、神の一手。そこまでの距離もわからずに、闇雲に歩き続けてきた。

 立っている場所や、目指すべき方向。そういうものを見失いかけていたのかも知れない。

 そんな時に、佐為が現れた。

 神の一手は遙かに遠い。

 だが、自分の先を歩く同胞が、そこにはいた。自分と競い合い、共に歩む強者が──。

 千年の時を経て、藤原佐為に出会えた事を感謝しよう。神と、そして、進藤ヒカルという少年に。

 

 

 

 終局──。

 塔矢行洋と、藤原佐為。

 二人の読みは遙かに深い。

 わずか半目の差も読み違えることはない。

 前回の対局も、最後の小ヨセが残っているにもかかわらず、終局まで読み切った行洋が、半目差を悟って投了したのだ。

 今回も同じだった。ヨセを終えるまでもなく、行洋は負けを悟った。

「三目半といったところか……」

「佐為もそう言ってる」

 行洋の言葉に、ヒカルが頷いた。

「ありません」

 行洋がヒカルに向かって頭を下げた。

「また、私の負けだね」

「だけど、佐為が驚いてたよ。ここまで、打ち筋を変えられるのは凄いって」

「そうか……」

 行洋が満足げにうなずく。

 本来、行洋の碁の特徴はバランスである。盤面全体を俯瞰し、攻守両面にわたり最適な手を選ぶ。その無駄のない碁は、非常に合理的だった。だからこそ、見る者に美しさを感じさせるのであろう。

 だが、その碁が佐為の前に敗れた。

 佐為の碁は、行洋の碁を越えていた。

 同じ頂を目指し、同じように組み立てられた碁は、自然と似てくるのかも知れない。佐為の碁は行洋の碁とどこか似通っており、さらに完成度が上であった。

 行洋はさらなる強さを求めて、自分の碁を変えようと模索しているのだ。

 それは、今日、明日に結果がでるようなことではない。

 だが、これまでの人生と、これからの人生――行洋は全てを碁につぎ込んでいる。

 追い求めるのは神の一手だ。先は遙かに長い。

 これからは、この佐為とともに歩んでいくことになるのだろう。

 そして、その佐為は行洋の碁の変化を認めた。負けはしたものの、今はこれで十分だった。

 

 

 

 佐為の声は行洋に聞こえないため、ヒカルが通訳しつつ、二人の検討が終わった。

 それは思いのほか短く終わった。

 どうやら、二人は碁の対局そのもので、お互いの意図を解り合ったらしく、検討が必要な個所は少なかったようだ。

 ヒカル自身には理解できない打ち回しが多分に残っているので、家に帰った後で、佐為にいろいろと教えてもらうつもりでいる。

「塔矢先生」

「なにかね?」

「もう一局、お願いしてもいいですか? 今度はオレと」

「そういえば、君とは打っていなかったね。お相手しよう」

「お願いします」

 ヒカルが頭を下げる。

 前回は、佐為と行洋の対局を、一人だけ目撃した興奮で、それどころではなかったのだ。

 だが、今回は最初からそのつもりでここに来た。

 ヒカルは毎日でも佐為と打てるのだが、他の実力者と打つ機会は滅多にないのだ。

 

 

 

「お邪魔しました」

 靴を履いたヒカルが頭を下げる。

「次の機会を楽しみにさせてもらうよ。君との対局も含めてね」

「はい」

 元気よく応えて、ヒカルが塔矢家を辞した。

 それを行洋がまぶしそうに見送った。

 二人の対局は、中押しで行洋が勝った。

 前半のわずかな見損じから、形成が固まり行洋が有利となった。しかし、ヒカルは様々に手を変えて攻め込んでくる。

 行洋に守りを固められて焦ったのか、ヒカルが明かな失着を打つ。それで、勝敗は決した。

 結果が中押しとはいえ、十分にヒカルの実力を感じ取ることはできた。

 興味を持っていたヒカルの棋力が佐為のものだと知って、ヒカル自身への興味はずいぶんと薄れていたのだが……。

「あれが、進藤くんか……」

 

 

 

 アキラが帰ってきた時、行洋は自室で碁盤を前にしていた。

「ただいま」

「お帰りなさい」

 行洋はそう応こたものの視線は盤面に落としたままだ。自然と、アキラも碁盤を覗き込む。

「それは?」

「以前、私が打った一局だよ。素晴らしい一局だろう」

 行洋がそう説明したが、それは先ほど行われた佐為との一局だった。

 アキラは食いつくようにその盤面を見つめていた。

「……相手は誰なんですか?」

「韓国棋院のプロだよ。彼が白番だった」

「白?」

 盤面を見ると、負けたのは黒──つまり、行洋だった。

 行洋は自分の棋譜を誇ることは滅多にないが、負けた一局を語るのもまた珍しかった。まるで、行洋は負けた一局を誇っているように見える。それほど、相手を認めたということなのだろうか?

 しかし、これほどの打ち手がいるのだろうか? アキラにはその相手に見当がつかなかった。

 怪訝そうなアキラに、行洋が声をかける。

「さて、時間があるなら、一局どうだね?」

「あ、はい。お願いします」

 アキラが碁盤の前に、腰をおろした。

 

 

 

 行洋はアキラを目にしながら、ヒカルのことを考えていた。

 進藤ヒカル――。

 アキラが幼い頃より碁石を握っていたのに対して、彼の碁歴は二年程にすぎない。今でこそアキラに劣っているものの、この先はわからない。

 成長度で比較すれば、軽くアキラを越えている。

 彼は、自分が恵まれた環境にあることを、自覚しているのだろうか?

 佐為は、絶えずヒカルのそばにおり、彼の打つ碁の全てを目にしている。彼はおそらく、ヒカルの今の力量、打ち筋、得手不得手、それらすべてを把握しているだろう。

 佐為は助言者として望みうる、全ての条件を備えている。碁界における最強の棋力をもち、ヒカルの棋譜の全てを知り、いつでも傍らにいる存在。

 彼が望みさえすれば、佐為の助言をいつでも得られ、いつでも佐為と対局できる。

 なんと恵まれた状況だろう。

 ヒカルのもとに、佐為が蘇ったのは決して偶然ではないのだ。

 進藤ヒカルは碁の神に愛されているのに違いない。

 だが、いずれ、孤独を感じることになるだろう。先日までの自分のように。

「アキラ。どんなに強くとも、碁は一人では打てない。自分の棋力を高めるのも必要だが、競うべき相手を見つけることだ」

 その言葉を耳にしてアキラの脳裏に浮かんだのは、ひとりの少年である。

「……はい」

 アキラの返事に行洋が頷いてみせる。

 ヒカルがこの道を究めようとした時、彼に一番近いのは、おそらく、このアキラになるだろう。

 もしかすると、自分と佐為の戦いは、わずか数十年では終わらないのかも知れない。

 自分たちがこの世を去っても、その碁を受け継いだ棋士達が競い合い、さらに次の世代を導いていくのだ。

 遙かなる、神の一手を求めて――。

 

 

  つづく

 

 

 
あとがき:
 原作で気にかかるのが、塔矢行洋について。
 すでに存在しないことも知らず、佐為を求め続ける行洋が、哀れで、哀れで……。
 ヒカルには真実を告げる義務があると思います。
 まあ、行洋は佐為への手がかりとしてヒカルの存在を知ってるので、いずれ問いつめることになるんでしょうが……。
 原作で、もしもヒカルが全てを語っていたら、こんな生活になるのだろうと考えてました。