『ふたりの碁』(5)新初段戦
囲碁サロン。
塔矢行洋名人が経営している碁会所である。ここには、名人の門下生であるプロ達がよく顔を出していた。
暗い表情で座り込んでいる芦原四段もまた、その一人である。
「どうしたの? 芦原さん」
受付の女性が、その様子を目にとめて声をかけた。
「市河さん。……いや、なんでもないよ」
そう応えて、深いため息を漏らす。
「どう見ても、なんでもない、って様子じゃないわよ。なにか辛いことでもあった?」
「その……、さっき、負けてしまってね。ここまで、自分が未熟だとは思ってなかったんだ」
自嘲気味の笑みを浮かべる。
「たまには、そんなことだってあるわよ。置き碁だったんでしょ?」
低段者とはいえ芦原もプロである。客の相手をするときには、石を置かせた上で打っているのだが……。
「それが……」
「まさか、互い先で?」
その言葉に、芦原が無言で頷く。
「それも、あんな子供に負けるなんて……」
実力をよく知っている、名人の息子・アキラを相手に負けたのならば納得もできた。これまでにも彼に負けたことがあるからだ。
ところが、ただの客に過ぎないあんな子供なんかに。
「子供って……」
市河が視線を巡らせると、少年と呼べる人間は室内に一人しかいない。
「芦原さんは、進藤君のこと知らないんだっけ?」
「進藤?」
彼が首をかしげる。
その様子に、市河はため息をこぼした。
「あの子でしょ、負けた相手は? 来年からプロになる、進藤君よ」
「プロとは言え、新初段なんかに負けるなんて……。それも中押しで」
またまた、がっくりと肩を落とす。
「あのねー。進藤君は、前にアキラ君を負かしたことだってあるのよ。それに、名人や、緒方さんまで興味を持ってるくらいなんだから」
その言葉に驚いて、相手の顔を見返した。
「嘘だろ?」
「本当よ。安心して。進藤君に負けても恥にはならないから」
「そんな話、聞いてないよ。オレ」
「芦原さんて、そういうところあるわよね。人の話を聞いてないっていうか、会話から取り残されてるっていうか……」
そこへ、扉を開けて一人の少年が姿を見せた。
「いらっしゃい。アキラ君」
市河が笑顔で出迎える。
「こんにちわ。市河さん」
塔矢アキラは学校帰りなのだろう。彼の通っている海王中学の制服姿だった。
「遅ぇぞ」
ヒカルの声だ。
「悪かったね。ちょっと学校の用事があったんだ」
「まあ、理由はいいから、さっさと打とうぜ」
自分をせかすヒカルの様子に、アキラが苦笑する。
「わかったよ。すぐに打とうか」
アキラ自身、遅れたのは本意ではなかった。
ヒカルとの対局は彼にとっても楽しみにしていた事なのだ。
「ちょっと、アキラ君」
落ち込んでいたはずの芦原が横から声をかけた。
「なんです?」
「この子のこと、知っているのかい?」
「ええ。新初段の進藤ヒカルですよ。芦原さんは知らないんですか?」
驚きの表情を浮かべて尋ね返す。
「新初段なんて、まったく気にもとめてないよ」
その言葉が聞こえて、ヒカルがムッとなった。たった今、負かしたばかりの相手なのだから、当然だろう。
「でも、お父さんの研究会でも何度か名前が出てたと思うんだけど」
「オレは聞いてない」
「芦原さんらしいですね。大切な話をしていても、ぽっかり聞き逃したり」
苦笑混じりにアキラが応える。
「さっきも言われたよ」
憮然とした表情で応える。
「それで、あの子は強いのかい?」
アキラの評価を直に聞きたくなって、尋ねてみる。
「はい」
考える様子もみせず、アキラが頷く。
「ボクのライバルですから」
「くそっ。ありません」
ヒカルが投了を告げた。
序盤で大差がついてしまい、ほとんど勝負にならなかった。
ヒカルが起死回生を狙って、アキラの石を切り取ろうとしたが、上手くしのがれてしまい、手詰まりとなったのだ。ただ、見ていた芦原などは、ヒカルの意図に気づかなかったくらいなので、相手がアキラでなければ逆転も可能だったのだろう。
「また、負けかよ」
ヒカルが肩を落とす。
葉瀬中の創立祭で対局して以来、何度かここでアキラと打った。
しかし、一度も勝てた事がないのだ。
「そうは言っても、君の棋力は確実に上がっているよ」
それはアキラの本心だった。
ヒカルとの対局を軽く済ませられたことなど一度としてない。いつだって気が抜けなかった。
アキラは全力で打ち、なおかつ、薄氷を踏む思いで退けているのだ。
塔矢アキラは、幼い頃から塔矢名人に鍛えられ、プロになったばかりの一年目にして、26連勝という快挙を成し遂げたほどだ。
その彼と、ヒカルはほぼ互角なのだ。
どれほどアキラを対局で追いつめているのか、ヒカル自身は正しく把握してはいまい。
二人と、それに芦原も参加して今の一局の検討をおこなった。
いささかノンビリした感のある芦原だったが、これだけの素質を持つ新人の出現に危機感を覚えたらしい。彼はこの日以降、熱心に碁に励むようになった。
「そういえば、新初段シリーズの連絡は来たかい?」
碁石をしまいながら、アキラが尋ねた。
「いや。まだきてねーよ」
ヒカルが首を振る。
「君の相手が決まったらしいよ」
「……オマエが知っているってことは、もしかして、相手は塔矢名人なのか?」
驚きの表情でヒカルが問いかける。
「ボクとしてはそうなって欲しかったんだけどね。父さんは、今年も忙しいからって、断ったんだ」
アキラが残念そうに告げる。
「父さんの取材に来た天野さんが、新初段シリーズの話をしていったんだ。最初の対局が君で、相手もほぼ決まっているらしいよ」
ヒカル自身も残念ではあるが、仕方がないことだ。佐為の存在を知った以上、名人はヒカル自身への興味が薄れたのだろう。
佐為と自分では比較にならないので、それはどうしようもない。
気を取り直して、アキラに尋ねる。
「それで、相手は?」
「桑原本因坊だよ」
新初段シリーズ。
それは、新しく入段したプロと、トッププロの対局である。
通常の対局では、互い先という形式をとる。これは、先手となる黒番が有利なため、ハンディの形でコミが設定される。盤面が互角で終了した場合、後手に回った白番にコミである五目半が与えられるので、その差で白が勝利することになる。
半目という現実にはない差が生じるため、ほとんどの場合、勝敗がつくことになる。ルール上では引き分けも存在するが、そうなることは滅多にない。
新初段シリーズでは、新入段者が、力量差のあるトッププロに挑むため、ハンデが与えられる。新入段者は黒番となり有利な上、通常のコミとは正反対の逆コミの五目半が与えられるので、黒が圧倒的に有利な条件となる。
しかし、このハンデも十分とは言えない。逆コミという条件も、トッププロとの間にある実力差を考慮すればこそである。それだけのハンディがあってもなお、新初段の勝ち目は薄いのだった。
今年、プロ試験に合格したヒカル、和谷、越智の三名のうち、ヒカルが新初段シリーズの最初を飾ることになる。
当日──。
日本棋院に到着した桑原本因坊は、一人のプロ棋士を目にとめた。
「ほう、緒方君。今日はどんな用で来たのかね?」
「いえ、桑原先生には関係のない用件ですよ」
「そうかね? 少しぐらい、ワシにも関係があるのじゃろう」
「違いますね。少なくとも、桑原先生に興味がないのは確かですよ」
緒方の返答に、くっくっくと、桑原が笑う。
「つまり、興味があるのは、ワシではなく、対局相手の小僧というわけかな?」
「…………」
緒方が口を閉ざす。
「今日の新初段戦……。ワシと賭けんか?」
「賭け?」
「そうじゃ。どちらが勝つか」
「どうして賭なんか……」
「まあ、お遊びじゃよ」
「そうですね。お相手しましょうか」
「では、ワシは小僧に賭けるぞ」
「な?」
桑原の言葉は、確かに緒方の意表を突いた。
自分を賭の対象にした場合、普通なら自分に賭けるはずだ。自分の実力に自身があれば、当然そうなる。逆に相手に賭けるようでは、八百長でわざと負ける可能性まで出てくる。
「……どういう、つもりですか?」
「妙じゃのう。緒方君は、ワシに賭けてくれんのかね?」
面白そうに、緒方を見返す。
「やはり、小僧の方に興味があるようじゃな」
緒方が顔をしかめる。
「今回の新初段戦は、実はワシの方からあやつを指名してな。楽しみにしておったんじゃよ」
「進藤の碁を、どこかで見たんですか?」
「いいや。勘じゃよ。一目見た時に、ピンときてのう」
「勘? 馬鹿馬鹿しい」
緒方が呆れるが、桑原の方は勝ち誇った笑みを浮かべる。
「確かに根拠のある話ではないがのう……。こうも言えるのではないか? オヌシが進藤を知った経緯を経ずして、ワシは小僧にたどり着いたんじゃ。ただの一目でな。碁に言いかえれば、オヌシが長考の果てに思いついた一手を、ワシが直感でみぬくようなもんじゃ。これが、ワシとオヌシの差というわけじゃな」
「新初段戦では、進藤を応援させてもらいますよ」
「かまわんよ。まあ、ワシの対局を、指をくわえて見ているがええわい。本因坊である、ワシのな――」
桑原の最後の言葉は、緒方に対する皮肉である。
本因坊への挑戦者となりながら、桑原に敗れてしまった緒方への。
「ジジイ」
緒方が去っていく桑原の背中をにらみつけるが、相手は気にもとめなかった。
幽玄の間。
タイトル戦に使用するこの部屋で、新初段戦はおこなわれる。
プロ棋士の最終目標であるはずのこの部屋で、ヒカルはプロとしての最初の一歩を踏み出すのだ。
対局する進藤ヒカル、桑原本因坊、そして、対局係や、取材する記者がこの部屋にいる。
「進藤というたな……」
「は、はい」
「今日の対局はワシから言い出したんじゃよ」
「え?」
「いつぞや、棋院の一階ですれ違った事を、覚えとるか?」
「えっと、なんとなく……」
思い返しながら、ヒカルが答えた。
院生の頃に、仲間達とエレベーターに乗り込もうとして、すれ違ったことがある。そのときに、本因坊というタイトルの存在を聞かされたのだ。
「あのときから、オヌシに興味があってな」
「どうして?」
「気配を感じたのよ。碁打ちの強者だけが持ちうる気配じゃ。まあ、今のオヌシとは思えんから、オヌシの将来性を感じ取ったと思うとるがな」
そう桑原は言葉を結んだが、ヒカルの驚きは相当なものだった。
(桑原先生は、佐為に感づいたんだ。それも、佐為の碁も知らずに、本当に勘だけで……)
――ヒカル。この者も、相当な腕の持ち主ですよ。たまにいるんです。どんな道理をも越える閃きを有する打ち手が。
(ああ……)
佐為の戦慄に震える声が、ヒカルに実感させる。
(本因坊の名は、伊達じゃないってわけか)
――そうですね。
佐為がうなずく。
しかし、そのことで彼が考えているのは別なことだった。
江戸時代に一度蘇っているとはいえ、佐為は千年もの間、幽霊となってこの世にとどまっている。
すべては彼が追い求めた、神の一手を極めんがためだ。
そのためにこそ、こうしてヒカルの元に再び蘇ったのだろう。
今、ヒカルの前に立つのは、まさしく、囲碁界の頂点にたつ強者の一人だった。だからこそ、戦いたかった。
しかし、これは、ヒカルの対局である。そこに思い至って、佐為は思いを飲み込むしかない。
これまでの事を考えると、先日、塔矢行洋と対局できただけでも、遙かに幸せなはずだ。
いまは、ただ、見届けよう。
自分の弟子であるヒカルと、現代において本因坊の名を継ぐ彼の、二人の対局を――。
本因坊――。
その由来は明かだろう。
江戸時代の天才棋士・秀策などが受け継いできた、本因坊の名を冠したタイトルだった。現存するタイトルで一番古いものである。
ヒカルだけしか知らないことだが、本因坊秀策が打った碁は、全て秀策に取り憑いていた佐為のものだった。
対局が始まった。
幽玄の間はタイトル戦でも使われているため、盤面をとらえるカメラが設置されていた。それは記者室のモニタに表示されるようになっていて、興味のある人間がそこへ詰めかけることになる。
むろん、タイトル戦などではないので、記者が押しかけるほどではないが、先輩・後輩や師匠などが覗きにくることもある。
現在、その記者室で4名がヒカルの碁を見守っていた。
ヒカルのライバルである、塔矢アキラ。
ヒカルと同期で、今年の新初段となる和谷義高、越智康介。
和谷と越智を驚かせたのは、トッププロである緒方精次がこの場にいることだった。二人は知らないが、緒方もまた早い時期からヒカルに興味を示していた人間である。
進藤ヒカルの対局。
それは、注目している人間を満足させる、見事な一局だった。
序盤では思いもかけない手を打ち合った。お互いに守るべきものがかかっていない一局である。思いのままに手を進める。
センスを見せつけるようなヒカルが有利に進め、桑原も負けじと追いすがる。
だが、後半になると、桑原はじわじわとヒカルの地を削り始めた。老獪な桑原の打ち筋に、ヒカルが翻弄される。
結果は、三目半の差で、ヒカルが勝った。辛うじて、ヒカルは前半の優位を守り抜いたのだった。
苦しく、そして、楽しい碁だった。
「なるほどのう。新しい波か……」
桑原がつぶやく。
それは、本因坊のタイトル戦の前に、挑戦者だった緒方が口にした言葉である。
去年の塔矢アキラと、今年の進藤ヒカル――。
まさにその言葉を体現したような、才にあふれる棋士だった。
ますます、碁が面白くなりそうじゃ。教えてくれた、アヤツにも礼を言わねばならんな。
負けたというのに、桑原は嬉しそうに笑みを浮かべている。
一方、ヒカルの表情は曇っていた。
三目半の勝ち――だが、それは逆コミ五目半があってこそだった。コミなしであれば五目半のハンデとなり、さらに逆コミなのだから、合計すると11目ものハンデがついているのだ。互先に置き換えれば、七目半で負けていたのだろう。
実際は、ハンデ戦では打ち方も変わるため、そのまま当てはめるわけにもいかないのだが、目安にはなる。
試合的には勝利を納めたものの、いずれは、互角に戦っていかなければならない相手だ。
本当に強い相手だった。佐為と同じぐらいに――。
それが正直な感想だった。
残念ながら、まだヒカルのレベルでは、これほどの棋力を比較することは出来ない。確実な事は、自分よりも強い。それだけだった。
「本因坊か……」
「なんじゃ?」
「やっぱり、本因坊って、強いんですね」
この対局の勝者が言うには、不釣り合いな言葉だ。
しかし、言う方も、聞く方も、そうは思わなかった。
「あたりまえじゃ。この国で一番歴史ある称号じゃからな」
その言葉に、ヒカルが頷いた。
「オレ、本因坊になりたい。たぶん、オレに一番ふさわしいんだ」
(な、佐為?)
――そうですね。
佐為は遠い過去――自分が虎次郎に取り憑いていた頃を思い出す。虎次郎が、本因坊秀策として名を馳せていたあの頃を。
そんなヒカルの思いを知らない記者達がざわついてる。この対局の勝者とは言え、新初段の言葉としては、あまりに思い上がっているからだ。
だが、一番腹を立てるはずの桑原は、特に気を悪くしていなかった。
今の一局だけでも、ヒカルの実力はわかる。いずれ、頭角を現していくことになるだろう。
それよりも、いまの言葉に興味があった。ヒカルが口にした言葉は「オレに本因坊がふさわしい」だった。「本因坊にふさわしいのはオレ」と言ったのではない。
なにやら、秀策に含むものがあるのかもしれんな……。
「小僧」
「え?」
「ワシは、他のタイトル戦にはあまり興味がないんじゃ。他の棋戦を棄てても、本因坊を守り抜いてきた。それだけの思い入れがある……」
桑原の目が、まっすぐにヒカルを捕らえた。
「オヌシがワシの前に座る時まで、本因坊でいてやるわい。自分の手で、ワシからもぎ取ってみせい」
その言葉に、ヒカルの身体が、一度だけ震えた。
「……はいっ!」
この日から、ヒカルは本因坊の名を目指して、戦うようになる。
立ち去ろうとしていた緒方に声をかけた人間がいた。
「……桑原先生? 何か、ご用ですか?」
「うむ。ちょいと、謝ろうと思ってな」
「どの一件ですかね?」
皮肉げに尋ねる。
「さっき、あの小僧と約束したんじゃよ。アヤツが上がってくる時まで、ワシが本因坊の座で待っているとな? だから、オヌシに譲るわけにはいかんというわけじゃ」
「そこまで、長生きできますかね?」
「ふぉっふぉっふぉ。本当に、そう思っとるのか? そんなに先の長い話じゃなかろうて。この前、オヌシも言うとったろう。新しい波を迎え撃つのは自分でありたいと。同感じゃよ。だからこそ、オヌシに渡しはせんよ。本因坊のタイトルだけは諦める事じゃな」
「これはいいことを聞きました」
緒方が笑みを浮かべる。
「本因坊を奪ったら、桑原先生にはよっぽど悔しがってもらえそうだ」
「いやいや、ワシの方こそ、楽しみじゃよ。そこまで言って負けようものなら、オヌシの方こそ、泣いて悔しがるのではないかな」
二人が非友好的な視線をぶつけ合う。
ヒカルの目指す本因坊への道は、決して平坦ではなかった──。
あとがき:
前回、塔矢名人はヒカル(正確には佐為)との対局を済ませているので、今回は、桑原本因坊の登場となりました。やっぱり、ヒカルが目指すのは本因坊であるべきだと思いますからね。
しかし、碁会所の名は「囲碁サロン」なんでしょうか? その看板が出てはいますが、正確な名称がほしいところ。(『フルメタ』でいえば、ボン太くんの遊園地なんかも)