『ふたりの碁』(4)葉瀬中vs海王中(四)

 

 

 

 緒方九段が理科室へ姿を見せた。

 しかし、皆は3面の碁盤に注目していて、だれも緒方の存在に気づかない。

 彼は、ヒカルの対局を後ろから覗き込んだ。

 

 

 

 ヒカルとアキラの対局は驚くほど、進みが早い。

 まるで早碁だった。

 和谷も越智も驚いている。

 その速さで、なおミスもなく、むしろ驚くような一手が打たれる。

 塔矢アキラに、ここまで迫れる後輩が出現するとは、誰も思わなかっただろう。アキラはすでに、緒方達のような高段者と対局し、白星まで拾っているのだから。

 ヒカルの一手にどよめきが何度か起きる。

 しかし、それでもアキラが優勢だった。

 

 

 

 ヒカルが右隅の地に攻め込む。

 アキラの読みが甘かったのか、ヒカルが地を押し広げていく。

 そして、ヒカルの次の一手が勝敗を分けた。

 緒方にはその甘さが見えた。悪い手とは言えないが、最善の一手とはいえない。もう一石ズレていたら、二目ほど稼げたはずだ。

 アキラにもそれがわかった。ヒカルより先に厚みをかせぎ、それ以上の攻め手を封じてしまった。

 ヒカルが気づいた時には、すでに遅かった。

 ほどなく、ヨセも終えて、終局となった。

 結果は、アキラの一目半勝ち。

 負けはしたものの、ヒカルの実力が十分に発揮された一局だった。

 和谷と越智も今の対局に、声を出すことも忘れている。

「負け……か」

 そうつぶやいたヒカルだったが、その口調は満足そうだった。

「そうだね。この右隅の石が敗着になったね」

「ああ。そうなんだろうな」

 ヒカルも顔をしかめる。アキラの応手で否応なく思い知らされた。

 和谷が横から、口を挟んだ。

「進藤、そのまえの、中央で切りに行かなかったのはどうしてなんだ?」

「え、ああ、このときは、塔矢のこの石が邪魔でさ。あと……」

 そのヒカルの言葉を遮って、緒方が続けた。

「もし、そうなっていたら、左上の石が白石に攻め込まれたんじゃないか? そうだろう?」

 アキラに尋ねる。

「緒方先生!」

 知らぬまに姿を見せた緒方に、和谷が驚いた。

 他の客も同様だ。

「そうなれば、もう少し楽になったんですが……」

「アキラくんは、むしろ、ここがまずかったな。ここを守られて攻めあぐねていた」

「……はい」

 緒方が今の一局を解説し始める。

「そうだ! 他はどうなった?」

 ヒカルが思い出して、検討の輪をから抜け出した。

 

 

 

 一番長くなると予想されたプロ対局だったが、実際は最短で終わった。

 ヒカルもアキラも、共に待ちこがれていた対局に熱中していたためだ。相手の応手が見たい。打った結果を知りたい。そんなことばかり考えて、いつの間にか終了していたようなものだ。

 

 

 

 ヒカルはすぐ隣の、三谷の対局を覗いてみる。

 勝負はほぼ互角だった。

 長瀬が強引に攻め込もうとしたが、三谷はそれを上手くかわす。

 

 

 

 先に、金子の方が終局した。

 川崎が優勢に進めていた一局だったが、川崎の荒い攻め込みは、金子に突き崩された。数回、似た攻防があり、攻め急いだ川崎は逆に自分の地を削られることになった。

 三目半で金子が勝利した。

 

 

 

 再び、ヒカルは三谷の対局に目を向けた。

 三谷はある一角に攻め込んでいった。相手の黒石の地を荒らしていき、長瀬の打ち込んだ守りの石まで切り崩していく。

 三谷は手を緩めなかった。優勢になっても、さらに攻め続けた。

 長瀬は防戦一方とはいえ、なんとかしぎ続けたものの、挽回の手を思いつかず、投了することになった。

 

 

 

 三谷がヒカルを見る。

「そっちは、どうなった?」

「その……オレの負け。悪ぃ」

 ヒカルが眼前で、手を合わて謝罪する。

「金子は?」

「勝ったよ」

 ヒカルの傍らに並んだ金子が答える。

「……てことは?」

 三谷が確認するように、あかりに視線を向ける。

 あかりはしっかりと頷いて見せた。

 葉瀬中2勝×海王中1勝。

 つまり……。

「勝ったのか!」

 めずらしく、三谷が感情もあらわにして、笑みを浮かべた。

「やったぁ!」

 あかりと久美子が手を取って、飛び上がって喜んでいる。

 夏目と小池も笑いあっていた。

 金子も吐息を漏らして、笑みを浮かべた。

 ヒカルもまた、嬉しそうだった。

 

 

 

 囲碁を上達する近道は、上手い人と打つことだ。このところ、ヒカルは囲碁部で、三谷と金子をみっちりとしごいていた。それが、実を結んだのだ。

 今回、ヒカル個人としてはアキラに敗れたが、それでも、ヒカルは嬉しかった。囲碁部としての団体戦の勝利は、やはり個人戦とは別な思い入れがある。

 一方、海王中は塔矢アキラという人間がいながら、ほとんど、囲碁部と関わることがなかった。それが、この結果を生んだともいえる。

「……尹先生。その、もしよろしければ、囲碁部での指導碁をさせてもらえませんか?」

「君が責任を感じることではないよ」

「いえ。もともと、囲碁部には迷惑もかけましたし、今回のお礼の意味もあります。ボクにだって、愛校精神ぐらいはありますよ」

「そう言ってもらえるなら、お願いしようか。きっと、皆も喜ぶだろう。すでにプロとしての実績を残している君の指導碁だからね」

 もともと、アキラが反発されていたのは、プロ並みの実力を持ちながら、アマチュアに混じっていたことにある。アマチュア同士の場に、アキラの存在は場違いなのだ。そのうえ、当時のアキラは自分の主張をごり押ししていたのだから、風当たりが強いのは当然だった。

 しかし、今の彼ならば、部員達も邪険にはすまい。むしろ、彼の指導碁を受けられるなら、喜ぶに違いなかった。

 視線を、うつむいたままの長瀬と川崎に向ける。

 あの二人にもいい経験となったはずだ。

 部内でも優秀な二人だったが、そのせいで相手を侮ることも多かった。

 無名の中学生に負けたことは、二人を成長させるはずだ。練習試合で負けることはたいしたことではない。

 葉瀬中には悪いが、次の大会も海王中が勝たせてもらうとしよう。

 

 

 

 検討を終えると、緒方や、越智はさっさと帰ってしまった。

 ただ、和谷だけは、ヒカルにつかまってしまい、並んで指導後をさせられている。

 アキラも同席しているが、これは彼の好意によるものだった。

 今回の創立祭は、囲碁部としては大成功といえるだろう。

 

 

 

 休憩を取ったアキラが、ヒカルを屋上へ誘った。

「なんだよ?」

 さっそくアキラに尋ねる。

「いや、その……、なんでもない」

「なんだよ、それ?」

「変だな。自分でもよくわからないんだ。対局を終えて、君と話したいことがいっぱいあったはずなのに……」

「ふーん」

「君のことは、わからないことばかりで、ずっとイライラしていた気がするんだ。でも、さっきの一局で、憑き物が落ちた見たいだ」

「もう、オレには興味がないってことか? 敵じゃないって」

 不満そうにヒカルが聞き返す。

 自慢じゃないが、今の一局は最高のデキだった。手応えも十分だ。

 塔矢と、なんのハンデもなく互い先でやり合えると、自信を持てた一局だった。それなのに、塔矢は違うのだろうか?

「逆だよ。強かった君と、弱かった君……。どっちが君の本当の姿なのか、ずっと、わからなかった。だけど、もういい。たぶん、君はこれから一生をかけて競い合う相手なんだと思う。それが納得できたから、もういいんだ」

 口にしたとおり、アキラは晴れ晴れとした表情を浮かべている。

「じゃあ、ライバルと認めてくれたわけだ」

「ああ。誰かに尋ねられたら、ちゃんと答えるよ。僕のライバルは進藤ヒカルだって」

 アキラは楽しそうに笑った。

「だから、つまらない碁を打って、簡単に負けたりしないでくれ」

「一言、多いんだよ!」

 怒鳴ったヒカルに、すっと、アキラが右手を差し出した。

「な、なんだよ」

「だめかな?」

「べつに、いいけど」

 そう言って、ヒカルはアキラの手を握った。

「君に会えて良かった。また、どこかで打とう。楽しみにしている」

「そうだな……。オレもだ」

 むしろ、自分の方こそ礼が言いたかった。

 佐為と出会って、囲碁を知った。

 そして、アキラがいたからこそ、プロを目指した。

 ヒカルにとっても、それは大切な出会いに違いなかった。

 階段へ向かったアキラに、ヒカルが声をかける。

「今度、お前の碁会所へ行くよ。また、打とうぜ」

 二人が初めて会った、あの場所で──。

 アキラはただ、笑顔で答えた。

 

 

 

 すでに陽が傾き始めている。

 理科室にはもう、人がいなくなっていた。

 ヒカルは窓の外を眺めながら、感慨にふけっている。

 もう、あいつは佐為を見ていない。目に映っているのは自分のはずだ。

 やっとここまできた。

 そんな気がする。

 一年のときの囲碁大会。あのときは、アキラの熱意に応えるために、佐為に打たせてやろうとした。しかし、自分の力を試したくなり、二人の対局を途中で奪ってしまった。それで惨敗することになり、塔矢に見下されたのだ。

 あれから、約1年半……。

 佐為の力ではなく、今のオレをあいつは認めてくれた。

 ──ヒカル。素晴らしかったですよ。

 傍らの佐為が感慨深げに声をかける。

「だろ? これまでで、最高の一局だよ」

 ──たぶん、彼も同じはずです。塔矢アキラにとっても、最高の……。

「悪いな。お前にも今度打たせてやるから」

 ──あなた達が羨ましいです。私にとって、魂を震わせるだけの一局は、いつになることか。

「そうだよなぁ。お前の敵なんて、塔矢名人ぐらいだろうしな」

 プロになったからといって、簡単に対局できるような相手ではないのだ。

 雲上人とも言えるほど、遙かに高い場所にいるのだ。ヒカルが名人の前に立つためには、どれだけの試合をこなす必要があるのか、見当もつかない。

 ──好敵手に恵まれてこその、対局ですから。

 佐為の言葉は寂しそうだった。

 自分や塔矢はお互いをライバル視してはいるが、極端な話、それは思いこみに過ぎない可能性だってある。同じ棋力を持つ人間は他にもいるだろうし、自分たちより強い人間だって確かに存在するのだ。

 しかし、佐為の場合は全く条件が異なる。おそらく、佐為は最強の棋士なのだ。それも、千年を通じて、最強の──。

 誰よりも強いが故の孤独。

 彼自身をさらなる高みへと導いてくれるほどの好敵手は、ほんのわずかしか存在しないだろう。

 例えば、アキラの父親である、塔矢行洋のような……。

「もう、終わってしまったのかね?」

 誰かの声が聞こえた。

「ちょっと、仕事で遅れてしまってね。残念なことをしたよ。私も楽しみにしていたのに」

 戸口に、和服の男が立っていた。

 静かな物腰でありながら、風格が漂ってくる。

「塔矢先生……?」

 最強のプロ棋士と噂される、塔矢行洋五冠だった。名人位に限らず、他に4つものタイトルを保持している。

「ふむ」

 名人が室内を見渡した。

 この場にいるのは、ヒカルだけだった。

 他には誰もいない。

 が、碁盤と碁石だけは残っていた。

「せっかく来たのだし、一局ぐらいはお相手願えるかな?」

「…………」

 ヒカルの心臓が跳ねた。

 ──ヒカル! 私からもお願いします!

 隣の佐為に視線を向けると、彼の口元に笑みが浮かんでいる。

 ──この者との一局なくして、私は神の一手を極めることはできません。

 言いたいことはわかる。だけど……。

 単に対局させることだけなら、なんの問題もない。これまで苦労してきたのは、ヒカル自身が佐為として見られるのを避けるためだ。ヒカルが自分の碁を打つためには、佐為の力で評価されるわけにはいかない。

 ──こんな機会がいつまた訪れるか……。お願いです。彼との対局が叶うなら、もう二度と打たせてほしいとは言いません!

(お前、そこまで……)

 改めて、佐為の覚悟を思い知らされた。

 佐為は、碁の為だけに、千年もの長きに渡って、この世にとどまっているのだ。

(そうだよな。俺に塔矢がいるように、お前にだってライバルが必要だもんな)

 ヒカルは無言のまま、碁盤と碁石を準備する。

「あの、二つだけ、約束してください」

「…………」

 怪訝そうに、名人が見返す。

「一つは、互い先で本気で打つこと」

「私は遊びで碁石を持ったことはないよ。もう一つは?」

「この一局の事を誰にも話さないことです」

「それは、どうしてだね?」

「対局が終わったら、全部説明します。初めに説明して、動揺されると困るから。本当の塔矢先生と打ちたいんです」

「ほう、大きく出たね」

 驚いたような名人の言葉。

 取りようによっては、「それを負けた理由にされると困る」とも聞こえる。身の程知らずな言葉のはずだが、名人は笑わなかった。言葉にも、嘲笑するようなニュアンスは含まれていない。

 ヒカルの真剣な目が、名人を見つめた。

「勝つにしろ、負けるにしろ……、この一局で、神の一手に近づけるはずです」

「それは楽しみだな。……では、はじめようか」

 

 

 

 誰にも知られず、理科室の片隅でその対局は行われた。

 それは二人、いや、三人にとって、至高の価値を持つ一局となった。

 

 

  つづく

 

 

 
あとがき:
 この話はこれで、完結です。
 ラスボスはやはり、塔矢名人でしょう。
 どうせ、ヒカルvsアキラの初対局というIF物なので、好き勝手にやりました。
 補足しておくと、この後は佐為が消え去ることもなく、名人だけが佐為の正体を知ることになります。
 IF物としてシリーズ化していく予定です。のんびりと、おつきあいください。