『ふたりの碁』(2)葉瀬中vs海王中(弐)

 

 

 

 ヒカルに問われて、あかりが事情を説明する。

「来月にウチの創立祭があるでしょ?」

「ああ」

「それで、海王中を招待して、囲碁部で対戦しようと思ったんだ」

「だけど、アイツは囲碁部じゃないだろ?」

 アイツがオレに幻滅して、プロへなったのは去年のことだ。もともと、アイツが囲碁部に入ったのも、オレとの対局を望んだだけで、囲碁部そのものにはなんの関心もないはずだった。

「そうかもしれないけど……、これは、海王中の先生が言い出した事なんだ」

 ヒカルがその教師を思い出す。何度か顔を会わせていて、“自分”の碁を認めてくれた人間の一人だった。

「団体戦なんだけど、代表として、男子と、女子と、プロの三人でやりたいって」

「やれるもんなら、オレの方がやりたいよ。だけど、あいつが囲碁部なんかに……」

 自嘲気味にヒカルが笑う。

「違うの。ちょうど、塔矢くんもそこにいて、是非やりたいって」

 あかりの言葉を聞いて、ぞくりと、背筋を何かが走った。

 塔矢アキラと戦える?

 それも、囲碁部の団体戦として?

「出る。絶対出るぞ!」

 ヒカルは詳しく考えるまでもなく、了承していた。

 これはいささか、奇妙な状況だった。

 例えば、海王中が囲碁部の名門とはいっても、所詮は部活動にすぎない。プロ予備軍である院生はその上に位置しており、プロともなれば、さらに上となる。

 人生を賭けて碁を打ち、お互いにしのぎを削るプロ達。そんな彼等にとって、アマチュア大会や囲碁部の活動は興味の対象外だった。

 だが、ヒカルは自分の原点を囲碁部だと思っている。筒井先輩や三谷と共に参加した大会。あのときに、初めて自分の碁を打てた気がする。それは、ほんの一年半ほど前のことなのだ。

 アキラを追ってプロを目指したヒカルは、囲碁部をやめて自分の道を歩き出した。

 それでも、囲碁部は懐かしく楽しい場所として記憶に残っている。囲碁部の皆が許してくれるなら、ときどきは顔を出したいと願っていたのだ。

「あ、でも、三谷が……」

 ヒカルが表情を曇らせる。

 いまだに、廊下で会っても、顔を背けあう関係だった。

「三谷くんの事は気にしなくていいよ。あたし、もう、海王の先生と約束しちゃったし」

「いいのか?」

「三谷くんが、本当に囲碁部のことを好きなら、参加してくれると思うんだ」

 あかりはそう言うが、ヒカルは同意できなかった。

 あのひねくれ者で、意地っ張りの三谷が、あっさり納得するとは思えない。

 

 

 

 ヒカルの心配は的中した。

 理科室で事情を説明したが、当然のように三谷が反対を表明する。

「冗談じゃねーよ。あいつは勝手に囲碁部をやめた人間なんだからな。一緒に参加するなんてゴメンだね」

 気が強そうな、猫を思わせる少年──三谷祐輝は見るからに不機嫌そうだ。

 三谷が怒る事自体は当然とも言える。

 そもそも入部を渋っていた三谷を、強引に連れ込んだのは、大会に出たがっていたヒカルだった。しかし、ヒカルは院生になってしまった。アマの大会に出られなくなることを知りながら。

 当時、次の大会に燃えていた三谷にしてみれば、裏切りとしか思えない行為だった。

「だけど、海王中とも、それで約束したんだし……」

「それは、藤崎が勝手に決めたんだろ! 囲碁部のイベントなんだから、囲碁部だけでいいじゃねーか。部外者なんかに用はねーよ」

「いつまでもぐちぐちと、あんただって、囲碁部が嫌いなわけじゃないでしょ? 誘ってくれた恩人だとでも思ったらどうなのよ」

 金子が口を挟んだ。

「お前にはわかんねーよ。あいつは裏切り者なんだ」

「いい加減にしたら? 男のヒステリーはみっともないよ」

「なんだよ!」

「別に、あんたに仲直りしろって言ってるわけじゃなくて、一緒に参加しろってだけじゃないの。嫌がらせしてるようにしか見えないわよ」

「なに〜!」

 三谷がにらみつけても、金子は平然としている。

 三谷は気が強くて、口が悪い。そんな三谷だったが、金子にだけは分が悪かった。金子は三谷よりも鋭い点をつき、それが正論なだけに、三谷はやりこめられることが多いのだ。

「あんただって、海王中との対局には興味があるんでしょ? 意地張ってないで、腕を磨いたら?」

「あの、金子さんは、いいの?」

 あかりがおずおずと尋ねる。

「いいって? どういう意味よ」

「だって、乗り気じゃなさそうだったのに……」

「ああ、あたし? あたしはね、自分の棋力に自信がなかっただけなのよ。海王中とやれる自信がなくてさ」

 肩をすくめる。

「実際、まともにやり合えるのは、コイツだけだと思うんだけど……。コイツが参加しないんじゃ、試合そのものが成り立たないんじゃないの?」

 そういって、冷ややかな目を三谷に向けた。

 顔をそろえていた部員達全員の目が、三谷に向けられる。

 それなりに、責任を感じているのか、三谷が視線をそらす。

「棋力の件だったら、ヒカルに頼んでみるつもりなんだ。二人を鍛えてくれるようにって」

「バカ言うなよ!」

「それ、いいじゃない」

 対照的な声があがった。

「よくねーよ!」

 三谷はかみつくように、金子をにらみつけた。

「タダでプロが教えてくれるなんて、知りあいの特権じゃない。あんたが本当に強くなりたいなら、なんでも利用するぐらいの度量をみせたら?」

「…………」

 指を差して面と向かって忠告されると、三谷が言葉に詰まった。

「勝手にしろ!」

 三谷がふてくされたように言うと、あかりは満面の笑みを浮かべた。

 

 

 

 こうして、理科室には翌日からヒカルが姿を見せるようになった。

 ヒカルの前には二面の碁盤が並べられる。

 対局するのは、対抗戦に出場する三谷祐輝と金子正子の二人だ。

 三谷の方が強いと聞いたので、三谷との盤には4子置き、金子とは7子置きで始めた。

「へっ。プロの腕見せてもらうぜ」

 三谷は敵意むき出しで、挑んできた。

「置き碁で、偉そうにいえる立場じゃないけどね」

 金子が冷静にツッコむと、

「うるせえ!」

 三谷が怒鳴り返した。

 二人の様子を見て、ヒカルが笑みを浮かべている。

 やっぱり囲碁部は楽しかった。勝敗よりも、楽しんで囲碁を打つ皆が、少しだけ羨ましかった。

 二人とも筋はいい。

 三谷は、守りに隙があるものの、攻め時や急所を的確に見抜く。

 金子の方は、バランスがとれた堅実な碁だったが、多少読みの甘いところがあった。実は、彼女とは同じクラスだったが、あまり親しくもないので、対局したのはこれが初めてのことになる。

 結果、ヒカルは、三谷には一目勝ち、金子には二目勝ちとなった。

「ちっ、もう一度だ!」

 三谷が再度挑戦してきた。

 院生試験の前、ヒカルに敗れた三谷が何度も挑んできた頃を思い出して、ヒカルには懐かしく思えた。

 

 

 

 その日、ヒカルは日本棋院に出向いていた。

 とはいえ、仕事ではない。

 プロ試験合格者とはいえ、正式にプロとなるのは来年の春のことだ。それまでにあるのは、せいぜい、新初段戦の一局のみだ。

「おはよう、和谷」

「よう」

 軽く和谷が応じた。

 一つ年上だが、院生として共に学び、共に今年のプロ試験に合格した、同期の棋士だった。

 今日は、彼等の師匠である森下九段の研究会がある日なのだ。ヒカルも院生時代から参加している。

「ふぁ〜〜〜ぁ」

 ヒカルが間延びしたあくびをする。

「まあ、新初段戦まで暇だし、気も抜けるよな」

「まったくだよな。せっかくプロになったんだし、早く打ちてーよ」

 ヒカルが頷く。

「まあ、それまでは、研究会で記録係の練習でもしとけよ」

 その言葉にヒカルがうんざりした。

「いーよ。それは」

 プロのリーグ戦などでは、対局の記録を取るために、打った場所やかかった時間を表に書き込んでいくのだ。プロ棋士になればいずれ順番が回ってくるらしい。

「特に、お前は慣れてないんだから、やっとけよ」

 院生でいた期間が短かったので、ヒカルにはその機会が回ってこなかったのだ。

「いや、オレは忙しいんだ。実は」

「何がだよ?」

「実は大一番が控えてるんだ。来月」

「新初段戦の事か?」

「違うよ。ちょっと囲碁部でさ」

「囲碁部〜?」

 和谷が呆れる。

「へへーっ。考えが甘いな。相手を聞いて驚くなよ」

「誰だよ?」

「塔矢だよ。塔矢アキラ」

「囲碁部ねぇ……」

「塔矢だぜ? 塔矢と戦うんだってば」

 反応の薄い和谷に、重ねて説明する。

「はいはい、わかったよ」

「なんで、信じねーんだよ」

「だって、お前、院生になったときも、そんな事言ってただろ? あのころのお前を、塔矢が追いかけるわけねーだろ。つまんない嘘はやめとけって」

「信じろって! 来月、ホントにやんの。アイツと」

「本当か?」

「ホント、ホント。来ればいいじゃん。自分の目で確かめろよ」

 そうまで言うのなら、本当かもしれない。

「あのころの」と言うなら信憑性は薄いが、今の進藤だったら、塔矢が追いかけても納得できる。

 今年の合格者は、自分と、進藤と、もう一人は越智だ。成績こそ、越智は二五戦二敗のトップ合格だったが、越智は進藤との直接対決で敗れている。自分もまた、進藤に敗れた。つまり、三人の中では進藤が一番強いとも言えるのだ。

 公式戦ではないものの、二人が対局するというのなら、見る価値はありそうだった。

 

 

 

 連日、対抗戦に備えて、ヒカルは三谷と金子の二人を相手に、指導碁を行っていた。

(置き碁ではあっても)あと少しでヒカルに勝てると、内心では意気込んでいた三谷だったが、勝敗表を見て愕然となった。

 ヒカルとの勝負はすべて、一目負けだと気づいたのだ。金子の場合は二目だ。

 ヒカルにとっては、二人との対局は勝負にもならず、一目の狂いもなく組み立てることが可能なんだと、思い知らされたのだ。

 これが、プロか……。

 さすがの三谷も、呆然となるしかなかった。

 中一の夏、例の海王中との対戦の頃まで、アイツは筒井先輩にも勝てなかった。

 それが、院生になることを決めた時には、三面打ち──三人を同時に相手しながらも、筒井先輩どころか自分をも負かしたのだ。

「ちぇっ、アイツ、強くなりやがって……」

 そうつぶやいた三谷の声に、悔しさはない。

 ただ、少しだけ寂しそうだった。

 

 

 

 自室にいたヒカルは、一人で碁盤に向かっている。

 ヒカル以外の人間には、彼が一人で盤に棋譜並べをしているとしか思えないだろう。だが、ヒカルにしか見えない対局者がそこにいた。

“ヒカルの碁”にとって、すべての始まりとなった相手だ。

 祖父の蔵の中にあった碁盤に取り憑いていた幽霊──藤原佐為。

 彼との出会いが、ヒカルの運命を変えた。

 平安時代に帝の囲碁指南役をしていたこの青年は、ごまかしの汚名を着せられて入水してしまった。碁への未練を断ち切れなかった彼は、江戸時代の本因坊秀策に取り憑いて、蘇ることになった。現在においても最強の棋士と目される秀策の棋譜は、すべて、この佐為のものだという。

 ヒカルを相手に碁を打っている彼こそ、千年を通じて最強の打ち手なのだ。

 佐為に引きずられるように、碁に熱中し出したヒカルは、次第に才能の片鱗を見せ始めた。

『ヒカルと出会うために蘇った』と、佐為自身に思わせるほど……。

 ヒカルが対局に熱中するのは、いつもの事だったが、こころなしか顔が強ばっているように思える。

 張りつめて、切れる前の糸のように感じるのだ。

 ──ヒカ……。

 佐為が話しかけようとすると、階下からヒカルの母親が呼びかけた。

「ヒカル。あかりちゃんよ」

 しかし、対局中のヒカルは、その驚異的な集中力で、雑音に気づかないことがある。

 ──ヒカル?

「……なんだよ?」

 ──あかりちゃんが来たそうですよ?

「あかりが?」

 夢から覚めたように、きょとんと佐為を見返した。

 

 

 

 階段をおりたヒカルは、玄関に立つ幼なじみの姿を目にした。

「あの、これあげる」

 そう言って紙袋を差し出した。

 リボンまでつけて、可愛くラッピングした袋だ。

「なんだ?」

「クッキー。私が焼いたんだよ」

「……なんで?」

「塔矢くんとの対局がんばってって、応援のつもりで」

「そっか……」

 客観的に見れば、自分が勝てる可能性は低い。それでも、勝つつもりで打つし、それを応援してもらえるのは嬉しかった。

「うん。嬉しいよ」

「そ、そう? 良かった」

 なぜか頬を染めたあかりの顔を、不思議そうにヒカルがのぞき込んだ。

 ──ヒカル。良かったですね。緊張がほぐれたみたいですよ。

(そういえば……)

 ──ついでに、もうひとつお願いしてみては?

(……?)

 ──あかりちゃんと打ちましょう。

(塔矢アキラと打つっていうのに、あかりなんかと打ったら、気が抜けちまうよ)

 ──それでいいんですよ。適度に緩めないと、対局までもちませんよ。

(……そんなもんか? まあ、オマエが言うなら……)

「あの、な、なに?」

 あかりの顔が、さっきよりもさらに赤くなっている。

 頭の中で佐為と話している間に、ずっと、あかりの顔を見つめていたのだ。

「時間があるなら、オレと一局打たないか?」

 突然誘われて、あかりが戸惑った。

「え? いいの?」

「ああ。頼むよ」

「うん。じゃあ、お邪魔します」

 

 

 

 あかりとの碁──当然、神経をすり減らしたり、頭を酷使するような対局にはならない。

 のんびりと、ゆったりと、碁を楽しむ。

 あかりにわかりやすいように石を並べ、打つべき手筋を促す。

 確かに、佐為の言うとおりだ。

 張りつめていた気持ちが楽になった。

 

 

 

 一局だけ打って、帰っていくあかりを玄関で見送った。

 空には満天の星空が広がっている。

「明日は晴れそうだな」

 ──そうですね。

「対局日和ってやつだ」

 ──なんですか? それは?

「別に。晴れた方が気分いいだろ?」

 そう答えてヒカルが笑った。

 対局は室内ですることが多いので、天気に左右されることはない。

 それでも、ヒカルは性格的に晴れの方が好きだった。

 ──たぶん、晴れますよ。

「なあ……」

 ──?

「天気のいい日に、高原とか景色のいいところで、碁を打ってみたいな。当然、晴れた空の下でさ」

 ──青空の下で?

「ああ」

 佐為もその光景を思い浮かべる。

 青い空の下。吹き抜けていく、さわやかな風。

 草の上に碁盤を置いて、二人で淡々と一手を打ち続ける。

 ──いいですね。わたしもその場にいられれば……。

「なに、言ってんだよ。オレが行けば、オマエも一緒にいるじゃん。離れられっこないんだから。二人で打とうぜ」

 ──そうですよね。ずっと、一緒ですから。いつか、二人で……。

 ヒカルの笑顔に向かって、そう答える。

 二人は並んで、星空を見上げた。

 

 

 

 葉瀬中創立祭──塔矢アキラとの対局は、明日に迫っていた。

 

 

  つづく

 

 

 
あとがき:
 少年ジャンプで『ヒカルの碁』の連載中には、「まだ対局しないのか?」と私もヤキモキしていたクチですが、自分で書いてみると、こうなりました。
 残念に思った皆さんは、次まで我慢してください。
 たぶん、「打ち始め」までは行けると思います。「終局」については確約できませんが……。