『のび太の雛見沢事件簿解』(11)診療所にて

 

 

 

 入江はひとりの見舞客を連れて、診療所の地下施設を訪れた。

 病室のベッドに横たわっているのは、一人の少年である。

 少女はおそるおそるベッドに近づく。大きな物音を立てることで、大切な夢が覚めてしまうことを怖れたのだ。

「……にーにー」

 必死で絞り出す声も、ようやく入江に聞こえるぐらいの、とても小さなものだった。

 少女が近づいたことに気がついたのか、うっすらと少年が目蓋を開いた。

「沙都子……?」

 かすれてはいたが、懐かしい声が少女の名を呼んでいた。

 一年前に失踪して、沙都子の前から姿を消していた少年が目の前にいる。それが現実の光景だとようやく沙都子は理解できた。

「にーにー! にーにー! にーにー!」

 沙都子がぼろぼろと涙をこぼす。

「どうしたの? なにかあった?」

 妹を慰めようとして体を起こそうとするが、うまくいかない。

「悟史くん。落ち着いて。君は1年間も眠り続けていたため、筋肉が萎えているんだ。そのまま横になっていた方がいい」

 慌てて入江が取りなした。

「沙都子ちゃん。夢なんかじゃないよ。落ち着いて悟史くんと話をしよう」

「はい。……はい、ひっく」

 

 

 

 入江診療所を脱出した時の事だ。

 入江は連れ出した少年を、車の後部座席へ横たえた。

「この人を起こさなくていいの?」

 のび太が不思議そうに尋ねた。

「彼は薬で眠らせているんです。雛見沢症候群の症状が進行しすぎているため、他人への攻撃性が強く、覚醒しているとひどく危険ですから」

 入江が辛そうに説明する。

「ドラえもん、お医者さんカバンで治せないかな?」

「やってみよう」

 ドラえもんが取り出したのは、大きな金属製のカバンである。前面には表示画面があり、聴診器がしっぽのように側面からぶら下がっている。

 聴診器の形状をしたセンサーを少年に当てると、すぐに病状が表示された。

「うん。雛見沢症候群のL5だね。お医者さんカバンの薬で治りそうだ」

 ドラえもんが大きめの風変わりな注射を取り出した。なんの躊躇もなく、針のない注射を腕に当てて、そのまま薬を注入してしまう。

「キ、キミたちっ!?」

 あまりのことに入江が声を上げていた。効能もわからない薬を、素人が注射するなんて、あってはならないことだ。

「なんてことをするんですか! 注射した薬の成分を教えてください!」

「心配しなくても大丈夫」

「そうそう。これでもう治ったよ」

 ドラえもんとのび太が平然として答える。

「え……?」

「未来ではこの病気の治療法は確立しているから、この薬で完治するはずだよ。心配はいらない」

 ドラえもんがあっさりと説明するが、入江は半信半疑だ。

「そ、そんな……こんな簡単に?」

 入江は呆然とするしかなかった。これまでの自分たちの研究はなんだったのか? 彼が虚しく感じても仕方のないことだろう。

 ドラえもんがカバンのスイッチを操作して、病気の詳細を確認する。

「この中に病気のデータが入ってるんだ。えーと、発見者はタカノ・ヒフミ。薬を開発したのはイリエ・キョウスケとタカノ・ミヨ。あれ?」

「なんですって!?」

 驚いた入江がドラえもんを押しのけるようにして、表示画面を覗き込む。

 そこに表示されているのは、間違いなく入江自身の名前だった。

『東京』の方針転換により、この研究は3年で終了する事が決定されている。研究に必要な資金と時間が制限された状態で、治療を終わらせる必要に迫られていた。

 そんな彼にとって、これほど力づけてくれるものがあるだろうか? 雛見沢症候群は彼自身の手により撲滅されることが、未来から保証してもらえたのだ。

 雛見沢症候群の研究は秘密裏に終わらせる予定だった。入江自身としては、病気の根絶が成功すれば十分と考えていたが、名前が残るというのならばこれほど栄誉なことはないだろう。

「……君たちに会えてよかった。本当にありがとう」

 入江は涙ぐんでいた。雛見沢村に来てからの苦労が全て報われた気がした。

「これで悟史くんが治るなら、沙都子ちゃんがどれほど喜ぶか……」

「沙都子ちゃんだって!? もしかして、この人は沙都子ちゃんのお兄さんなの?」

「そうなんだ……。病気のことは公表できなかったため、沙都子ちゃんにも内緒でずっと治療を続けていたんだ」

 興奮したのび太がドラえもんに向き直る。

「ドラえもんが鬼隠しにあったときに、ボクは沙都子ちゃんと約束したんだ。ドラえもんを見つけたら、いなくなったお兄さんを探し出すって」

「それなら、これで沙都子ちゃんの約束も果たせたことになる」

 のび太とドラえもんが手を取り合って喜んだ。

「この薬は他にも作れませんか?」

 入江が昂奮を隠しきれずに尋ねていた。

「そうだよ! どうせなら村人全員を治してしまえばいい」

「そこまで多くの薬は作れないよ」

 あくまでも簡易的な治療器具だ。必要な成分を無限に合成できるわけではない。

「それなら、作れるだけでもかまいません。不足分については私が自分の手で作ってみせます。なんといっても、この薬を作成した本人ですからね」

 そう告げた入江は自信に満ちあふれていた。未来からの薬だけに頼らず、きっと彼は自力で治療薬を開発することだろう。

 

 

 

 魅音とレナは診療所の2階で、窓の外を眺めていた。

「魅ぃちゃんは病室に行かないの?」

「レナは?」

「だって、ようやく悟史くんが戻ってきたんだもん。沙都子ちゃんも兄妹水入らずで会いたいと思って」

「でしょ? ……それに園崎の人間が顔を出すと、迷惑かも知れないからね」

 悔しそうに魅音がつぶやいた。

 魅音自身は、クラス内で沙都子を孤立させないように働きかけていたし、家に帰っては祖母への懇願を繰り返していた。

 園崎家の存在が村の悪弊を助長していることを知りながら、無力な彼女はそれを受け入れることしかできなかった。

 だが、これからは違う。

 お魎に宣言したとおり、村が二人を受け入れてくれるように、北条兄妹が村を好きになれるように力を尽くす。それができなかったならば、今度こそ魅音自身の責任だった。

「みー。沙都子が泣いていたのですよ」

 楽しそうに梨花が告げた。病室の手前で引き返したが、梨花は室内の様子をうかがっていたのだ。

「そっか」

 魅音は胸のつかえがようやくはずれたように感じる。

「なにか、聞こえないですか?」

 梨花が窓から顔をひょっこりと突き出して、当たりを見渡した。

 遠くの方から電子音が耳に届く。

 かすかに見える黒い車が砂煙を上げて爆走していた。

「速い、速い♪ もうちょっと電話するのを遅らせるべきだったかなぁ」

 こぼれる笑みを隠さずに魅音がつぶやいた。

 聞こえてくるサイレンの音は徐々に近づいてくるようだったが、救急車のものではない。

 舗装されていない道を、黒塗りのリムジンが猛スピードで駆け抜ける。立ち上る砂煙の向こうで赤く点滅するしているのは、おそらくパトカーの回転灯だ。

「詩ぃちゃんにも教えてあげたんだね」

「大事な妹だしね。だけど、こんな時の詩音の行動力は凄いねぇ。恋する乙女は強いよ」

 園崎詩音は魅音の双子の妹だった。

 園崎家と北条家の確執を越えて悟史を好きになり、悟史の失踪後は沙都子に姉代わりとして接してきた。彼女にとって沙都子の面倒をみることは、悟史とかわした最後の約束でもあったのだ。

「あんなに人を好きなれるって羨ましいと思う。レナもそんな風に恋をすることができるのかな?」

「レナなら心配ないよ。私らの場合は、心がけよりも、そんな相手と出会えるかどうかの方が問題じゃない? この村には若者が少ないからなぁ」

「それを考えたら、魅ぃちゃんとライバルになるかもしれないね」

「ちょっとちょっと〜。レナと争ったら私に勝ち目なんてないじゃん。……まあ、おじさんも不戦敗するつもりはないけどさー」

 魅音が顔をしかめる。言葉にしたとおり、諦めるつもりはなかったが、女の子らしさを競った場合、レナが強敵なのは間違いない。

「魅ぃちゃんは十分に魅力的だよ。だけど、お互いに手加減はなしだからね。会則第二条“勝利のためにはあらゆる努力をする”だよ」

「わかってる」

 魅音が頷いた。

 熱い女の戦いに梨花が割って入った。

「ふたりとも気が早すぎなのです。宣戦布告するよりも先に、相手を見つけなければダメなのです」

「…………」

「…………」

「「あははははははははは」」

 二人が顔を見合わせて笑い出した。

「梨花ちゃんの言うとおりだね。何をその気になっているんだか」

 魅音が自分たちの滑稽さに気づいて苦笑を漏らしていた。

 そんな彼女たちの会話などお構いなしに、爆走するリムジンは診療所の駐車場に突入し、派手にタイヤを鳴らしながらスピンターンをかましていた。

 後部座席から飛び出した少女が、窓から覗く魅音を見上げて叫んでいた。

「お姉っ!」

 ものすごい勢いで、その少女は診療所に駆け込んでくる。彼女の世話役である葛西が、スピード違反で切符を切られているのもお構いなしだ。

「まったく……。詩音をなだめて、もう少し沙都子に時間をあげないとね」

 

 

 

「ちょっと診療所を離れます。気をつけてください」

「わかってますわ。所長」

 ベッドの女性が穏やかな笑みを浮かべて返事をしていた。

 未遂に終わったとはいえ、今回の騒動については、誰かが責任を取らなければならない。

 黒幕の野村も小此木との通信の履歴を証拠に拘束されており、相応の処罰がなされるはずだった。

 一方で、鷹野三四は雛見沢症候群が発症したと入江が診断したことで、責任能力がないと判断されていた。彼女はあくまでも治療されるべき患者として診療所に残っているのだ。

「不便だとは思いますが、我慢してください」

「口封じで殺されるよりは、はるかにましだもの。感謝してますわ」

 それは偽ることのない彼女の本音でもある。

 彼女は村の殲滅を実行しようとしていたが、それも野村という人物にそそのかされた結果だった。

 今回の作戦を上手く終えたとしても、黒幕によって始末されていただろうと彼女自身も推測していた。

「これから、魅音さんたちと一緒に送別会を開くんですよ。彼らが帰ってしまうものですから」

「そう……。残念ね。私もあの子達にお礼を言いたいけれど……」

 鷹野にとってドラえもんから告げられた情報は、何物にも代え難いほど貴重なものだった。

 高野一二三とともに、鷹野三四の名が後世に残る――それこそが、彼女が熱望していた未来図なのだから。

 できれば、別れの挨拶もしておきたかった。

「それは、さすがに我慢してください。彼らには、貴女の分も私がお礼しておきますから」

 昨日の騒動の事後処理や調査のために、『東京』の人間が多数うろついている。

 発症者とされている彼女が、その翌日に平然と出歩いていては、彼女を庇おうとした入江や富竹まで罪に問われることとなる。

「今日のところはおとなしく、これからの研究方針を検討していてください」

「ええ。雛見沢症候群を撲滅させるために……ね」

 彼女のこれまでの目的は、祖父と自分の名を残すために雛見沢症候群の研究を続ける事にあった。そのため、これまでの彼女は、撲滅に対して否定的な立場だったのだ。

 だが、ドラえもんから教えられた情報によると、雛見沢症候群の治療薬を作る事によって彼女の名は残るらしい。

 それなれば、否も応もなかった。

 彼女は自身の名を残すべく、全力で雛見沢症候群の撲滅に挑もうと考えていた。

 

 

 
つづく

 

 

 
あとがき:悟史・詩音・鷹野はまったく活躍しなかった割に、予期せぬ幸運が訪れました。