『のび太の雛見沢事件簿解』(2)入江機関
梨花に連れられて、学者的な風貌をもつ眼鏡の男性が裏口を出る。
彼こそが入江診療所の責任者である入江京介だった。少年野球チームの監督をしていることで、彼は村の子供達からは監督と呼ばれて親しまれている。彼が今浮かべているのは、そんな監督としての表情だった。
「どうしたんですか? 診察室ならジュースぐらい出せますが?」
彼の言葉に頷きながらも、梨花は倉庫の裏まで入江の手を引っ張っていく。
そこでは見慣れない相手が入江を待ち受けていた。
「君達は……?」
「綿流し祭にきた観光客ののび太とドラえもんなのです」
梨花は軽い調子で紹介すると、さらに言葉を続けた。
「ふたりに雛見沢症候群について詳しく説明して欲しいのです」
「……なっ!?」
入江が目を見開いて愕然となった。
雛見沢症候群は軍事利用を目的に研究されており、その存在すら秘匿されている。表向き入江診療所と名乗っているのもそのためなのだ。
「雛見沢症候群についてある程度のことは、ボクがふたりに話してしまっているのです」
「な……なんてことを……。そんなことが山狗に知れたら……」
入江機関には秘密を守るための実戦部隊までが配備されている。彼等、山狗部隊は秘密を守るためなら殺人も辞さない。この事実が知られたら、このふたりは数日と待たずに姿を消すことになるだろう。
「今は緊急事態なのです。二人にはちゃんと理解して欲しいのです。ボクが死んだらどうなるのか……」
「梨花ちゃんが死んだら? どうして急にそんな事を……」
その言葉に入江が眉を顰めた。梨花が死ぬという事態には、一つの命が失われる以上の意味があるのだ。それを入江は知っている。そして梨花も。
「ボクは2日後には死ぬことが決まっているのです。そのとき、何が起こるのか正確にふたりに教えて欲しいのです」
「君が死ぬだって? 待ってください! 一体どうしたというんですか?」
「オヤシロ様のお告げなのです。連続怪死事件の今年の犠牲者として」
「連続怪死事件ですって? そんなことはあり得ません。貴女も知っているはずでしょう」
「それでも死ぬのですよ。だから、入江に説明してほしいのです」
「話すわけにはいきません。これは知らない方がいい事です。君達もこのことは絶対に口外しないように。私も今の会話は忘れることにしますから」
ふたりのやり取りを眺めて、のび太とドラえもんがひそひそと話し合う。
「ドラえもん。本音を話してしまう道具があったよね?」
「これだよ。正直電波――」
ドラえもんが電波塔の模型がついたリモコンを取り出した。この装置の発する電波をあびると、隠している事柄も含めてすべて話してしまいたくなるのだ。
「君達……。全て話すからよく聞いてほしい」
そう前置きして、入江が説明を始めた。
もともとは大学の卒業生による一派閥が、年月を経て財界や政界に絶大な影響力を持つ事となった。それこそが、雛見沢症候群の研究を援助している秘密結社『東京』という組織であった。彼等は軍事力の拡大を計画し、細菌兵器としての転用を考慮して雛見沢症候群を研究し始めた。
雛見沢症候群において一番危険視されているのは、女王感染者の死亡により一般感染者の全員が末期発症に至ることである。その発症猶予は48時間。被害の拡散を防ぐための対処方法は、女王感染者の死後48時間以内に全住民を抹殺し、対外的には火山性ガスによる事故として隠蔽することだ。それは滅菌作戦という名称で緊急マニュアル第34号に記述されている。
「そんなの酷いよ!」
真っ青になってのび太が叫ぶ。
「ああ。酷い話だね。……私もこんな話をしたくありませんでした」
それが入江の本心だった。『東京』の全てが冷酷な人間だというわけではない。彼自身も善良な人間のひとりに過ぎなかった。
「君たちには説明したけど、この話は絶対に秘密だよ。村の人を怖がらせるだけだし、怖がらせると症候群の病状が悪化する一方なんだ」
「「わかってる」」
のび太とドラえもんが頷く。
「では、ボクが死んだ場合、この村の人間が全員殺されるのですね?」
「だからこそ、そんな事態を避けるために、山狗が尽力しているんです。梨花ちゃんの安全は私達が守ります」
「でも梨花ちゃんを守れなかったじゃないか!」
のび太の抗議に、入江が眉をひそめる。
「守れなかった?」
「バカ! 言っても信じるわけないだろ」
ドラえもんがのび太を押さえる。二日後の未来を知っている――そんな説明を相手が受け入れるはずがない。
「ボクが死ぬのはもう確定していることなのです。だけど、ボク個人が殺される動機は思いつかない。そうなると、ボクを殺すことで滅菌作戦を実行することが目的なのかもしれないのです」
「そ、そんな馬鹿な! この村の人間を皆殺しにしようだなんて考える人間がいるはずありません。なにか身の危険を感じる根拠でもあるんですか? ……まさか、急性発症ではないでしょうね?」
梨花自身が発症して被害妄想に陥っている可能性がある。むしろ、それこそが今の状況を合理的に説明できる唯一の方法だと入江は考えた。その疑惑はもっともだろう。
「疑うのなら調べてもらっても構わないのです。きちんと検査してくれた方が、入江に納得してもらえるのですよ。にぱー☆」
梨花が笑顔で応じる。
「発症したボクの妄想だったら、その方が幸せなのです。それなら誰も死なずにすむのですよ」
今の言葉が梨花の本心であることは入江にも通じたようだ。
「梨花さん。もしも身の危険を感じているようなら、私に詳しく話してもらえませんか?」
「自分の身は自分で守るのです。それより入江の方こそ気をつけてほしいのです」
「どうして、急にそんなことを? もしかして鷹野さんのことを気にしているのですか?」
入江が探るように尋ねてきた。
「鷹野ってどこかで聞いた気がする」
のび太の疑問にドラえもんが答えた。
「ほら、図書館で会った……」
「ああ、あの人か!」
「鷹野がどうかしたのですか?」
「彼女が無断欠勤しているんです。こんなことは初めてですよ。今朝から連絡が取れなくて、小此木くんからも確認の電話がありました」
「もしかして……」
のび太が青くなる。
「君は、何か心当たりでもあるのかい?」
「やっぱり、祭具殿に忍び込んだから……」
「バカ!」
慌ててドラえもんがのび太の口を押さえるが、もう遅い。
「祭具殿……?」
怪訝そうな入江とは違って、梨花には察しがついたようだ。
「……もしかして、のび太とドラえもんも祭具殿に入ったのですか?」
「う……うん」
「ごめん」
のび太とドラえもんが身を竦ませる。綿流しの当日、禁を破って祭具殿に忍び込んだのは事実だった。その夜など、バチが当たるのを恐れてなかなか寝付けなかったくらいだ。
「構わないのですよ。中の道具を見て怯えないように、隠しているだけなのです。見られたとしてもボクはまったく困らないのです」
「え……? そうなの?」
「ボクは古手神社で一番偉い、オヤシロ様の巫女なのですよ。ボクが許せばそれで問題ないのです。二人が消えたのはオヤシロ様とは関係ないのですよ」
「な、なーんだ」
「ああ、よかった」
のび太とドラえもんが胸をなで下ろす。
その一方で、深刻な表情となった人間もいる。
「梨花ちゃん、今言った二人というのは誰のことだい? まさか、鷹野さんだけでなく……?」
「……富竹もいないのですよ」
「待ってください。富竹さんはもともと今日は東京へ戻る予定だったはずです。君は……何を知っているんですか?」
「これもオヤシロさまのお告げなのです。二人が消えるのも決められていたことなのです」
「もしも二人の身に何か起きているなら、何とか助けなければならなりません。貴女の知っていることを教えてもらえませんか?」
「どんなに探しても無駄なのです。それよりも、自分の心配をした方がいいのです」
「自分の?」
「入江も死にたくないはずなのです」
梨花の言葉に、入江はうそ寒いものを感じずにはいられなかった。
単なる冗談のたぐいではない。少なくとも、富竹と鷹野の姿は確認できていないのだから。
梨花が告げる。
「ボクは死にたくないので、しばらく身を隠すのですよ」
のび太、ドラえもん、梨花の三人は田んぼを縫って進む道を歩いていた。
この道を歩いたことがないのはドラえもんひとりだけ。これは園崎家へと向かう道だった。
「ボクは女王感染者ですから、どの家でもボクを匿ってくれるはずなのです。だけど、その事はすぐ知られてしまうし、集団で襲われたらとても持ちこたえられないのです」
「魅音さんの家なら大丈夫なの?」
「魅ぃの家はこの村で一番偉いのです。村長の公由だってかなわないのです。それに大きな地下蔵まであるから、立て籠もるにはもってこいなのです」
「ふーん。凄いね」
のび太が素直に感心する。
梨花は告げなかったが、そのうえ園崎家の縁者にはヤクザの組長まで存在するのだ。
「あれ? それじゃあ、梨花ちゃんがここへ来たのは、醤油をもらうためじゃないの?」
「醤油?」
のび太の質問に梨花がきょとんとなった。
「ボクは魅ぃの家へお泊まりするのが目的なのです。醤油よりも自分の命が大切なのです」
「今日は用事があるから急いで家へ帰ったって、沙都子ちゃんが言ってたけど……」
「それならもう済んだのですよ」
「そうなの?」
診療所へ向かったのは、むしろのび太達の事情によるものだ。はたして梨花の用事というのは、なんだったのだろう?
首を傾げるのび太を、梨花が面白そうに眺めていた。