『巻き込まれてしまった少年の話』

 注意:これは鬱系の話なので、読まれる方は自己責任で。

 

 

 

 消し炭となって燃え落ちた家。

 人の生活していた証が全て燃え尽き、自ら墓石となってしまった家。

 風雪にさらされた廃墟などではない。

 ほんの一日前には人々が生活していたはずの住宅街は、探しても見つからないほどに命の乏しい場所となっていた。

 家並みや住民が大火災に呑み込まれたのだ。

 炎に炙られ、煙に巻かれ、少年は一晩中さまよい歩いた。

 子供の小さい足では、自分一人を支えるのが精一杯だった。彼は誰にも手を差し伸べる事ができなかった。

 傷ついた男を、助けを求める女を、泣き叫ぶ子供を、すべて無視して歩き続けた。

 数少ない生存者も、いずれは多くの人間と同じ運命を辿るだろう。

 少年の両親も近所の住民も、そのほとんどが火事の発生前後に命を失ったはずだ。

 少年が生き延びたのは、ほんの偶然にすぎなかった。

 なにかの理由があったわけではない。運命を分けたのは、神様の気まぐれのようなちっぽけな違いだけだ。

 ほんの少し左に立っていたとか、ほんの少しだけ水を飲んでいたとか、ほんの少しだけ自分を優先したとか。

 生き残った代償として、少年は痛みと苦しみをかかえて一晩中歩き続けていた。

 だが、それももう終わり。

 子供らしい正義感や良心は擦り切れ、身体も傷つき疲れ果てていた。

 なにもない場所で躓き、小さな身体が路上で転んだ。

 身体に刻まれた、新たな擦り傷や打ち身も、もはや気にならない。

 少年に立ち上がる意志はなく、その身体も応じることはできないだろう。

 自分は、ここで、このまま、死ぬ。

 自然に浮かんだその思いは、しばらくすれば事実となるはずだった。

 少年はすでに多くのものを失っている。いまさら一つぐらい増えたところで、どうという事もなかった。

 だが、少年の予想は外れた。

 うつぶせだった少年が強引に身体を起こされる。

 乱暴な扱いを受けて、本人の意志に寄らず呻き声が漏れた。

 その声によって身体が震える。少年のではなく、少年を抱き起こした男の身体が震えたのだ。

 少年の目に映るのは、自分を覗き込む男の顔だ。

 この一夜の間に一度も見ていない表情。

 それは、喜びの顔だった。

「生きていてくれて良かった」

 震える声が男の心情を物語っている。

 自分を強く抱きしめてくれる力強い人間。

 熱気にさらされていたはずなのに、その温もりが心地良かった。

 少年の目からも、男と同じように涙がこぼれ落ちる。

 少年もまた自分を助けてくれた消防士にしがみついていた。

 

 

 

 テレビのニュースでは、冬木市民会館で起きた大火災を連日報道していた。

 原因不明の出火と、あり得ない規模の延焼。

 防犯や防災に優れている日本だ。近隣の消防署へも動員がかかり、早急に消火活動が開始された。

 しかし、火は消えなかった。

 懸命な努力にもかかわらず、火勢は衰えもしない。まるで、あらゆる物を焼き尽くそうとするかのようだった。

 大火災の起きた地域では、ほぼ全ての住人が亡くなっていた。消防士の中にも犠牲者が出ている。

 それでも、十人の子供を救出する事ができた。

 幸運にも火災の外縁部で救助された子供や、決死の覚悟で火災へ突入した数班が見つけた子供達だ。

 朝方になって雨が降り出すと、ようやく大火災も終わりを告げる。

 消火したなどとはとても言えない、と消防士は無力感に嘆いたという。

 あれは、焼くべき物を失った炎が自然に鎮火しただけだ。彼等はそんな風に噂していた。

 

 

 

 少年は病院へかつぎ込まれた。

 そこで彼は、自分と同じ境遇の子供達と出会った。

 大火事で焼け出された子供は十人。

 そのいずれもが、親戚等の引き取り先が見つからなかった。

 まるで、選別したかのように、幸福な世界からこぼれ落ちてしまった子供達。生き延びた彼等に残されたのは、厳しく冷たい現実だったのだ。

 しかし、少年はあの火災を経て、一つだけ得た物がある。

 それは一つの夢だった。

 自分を救ってくれた消防士の顔を思い出す。彼はあの喜びの笑顔を忘れる事はできないだろう。

 自分が生き延びた事を喜んでくれた顔。自分の命を拾ってくれた顔。

 少年にとって、あの消防士はまさしくヒーローだったのだ。

 少年は自分も消防士になるのだと決めた。誰かを救って、あんな笑顔を浮かべるのだ、と心に誓った。

 

 

 

 騒がしいだけのマスコミ取材を除けば、子供達の元へやってくる見舞客はほとんどいない。

 引き取りを拒んだ親類は、気まずいために見舞いも控える。

 近所に住んでいた友達はもちろん、同じ学校に通っていた子供もほとんどが亡くなっている。

 そんな中で、ほぼ毎日訪れる見舞客がいた。

 無愛想な男で、子供達の間で非常に評判が悪い。子供達を見るとあからさまに顔を背けるからだ。何が気に入らないのか、子供達と顔を合わせるのを非常に嫌がる。

 いつも男が話しかけるのは、ただ一人の子供だけだ。

 後日、その男がその子を引き取ると教えられた。

 残りの九人が、彼を心から祝ってやれたとはとても言えない。

 羨ましいとも思ったし、妬ましいとも思った。それでも、あの地獄を生き延びた仲間として、喜んでもやれた。

 その子供にとっては、大火災の中で救ってくれた恩人にあたるらしい。あの男も、偶然あの大火災に巻き込まれていたのだ。

 幸か不幸か、男は子供達に評判が悪かったため、その子への嫌がらせは起きずにすんだ。

 そして、怪我が完治すると子供達も退院の日を迎える事となる。

 残る九人の行き先は同じ場所だ。これからもずっと一緒に暮らしていく事になる。

 少年達は親を失ったものの、こうして兄弟を得たのだ。同じ過去を共有した、代えがたい存在を。

 神父が彼等を迎えに来た。

 子供達が向かうのは、教会の孤児院だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな夢を見ていた――。

 俺達に許されているのは、夢を見る事だけだ。

 身体を動かそうなんて、まったく思わないようになっていた。

 かすかに身じろぎするだけで、神経が焼け、骨が軋み、筋肉が裂ける。

 だいぶ前から何も見えなくなっていた。地下室が暗いからなのか、本当に目が見えないのか確認のしようもなかった。

 回りの呻き声も、だいぶ小さくなっていた。羽虫の飛んでいるような雑音が、耳の奥に残っていっこうに消えてくれない。

 鼻に突き刺さるような嫌な臭い。自分のものか誰かのものなのか、まったく区別がつかない。わかっているのは、ここが地下室で換気されないということだけ。

 酸っぱいような、苦いような、そんな味を感じていたが、それはすぐに気にならなくなった。

 肌に粘るぬるぬるした液体と、身体の内側から感じるむずがゆさ。鈍い痛みや息苦しさの中で、こんな小さな感覚がどうして残っているのか不思議だった。

 教会にやってきた俺達は、気がついたらどこかに寝かされていた。

 みんなで文句を言ったが、神父は薄笑いをしているだけだった。

 もう一人の金ピカの人は、俺達を完全に無視した。無視しようとしたのではなく、それこそ石ころのように無価値なものとして見ていた。

 それを見たり聞いたりしたのは、ずいぶん前の事だ。

 だけど、神父の顔を見られなくなったのは、ある意味で幸せな事だと思う。自分たちを見下ろすあの笑顔は、とても恐ろしいものだったから。

 大火事で親を失い、家から焼け出されて、俺達は自分を不幸だと思っていた。

 だけど、あの病院にいた自分達がどれだけ幸せだったのか、今ならよくわかる。

 少なくとも、夢があった。喜びもあった。楽しみもあった。

 それに、人間でいられたのだから――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何かの騒ぎが起きていた。

 誰かが会話しているようだ。

 ここを定期的に訪れるのは神父だけなので、こんなことは珍しい。神父は話しかけたりせず、機械的に作業を進めるだけなのだ。あの笑顔で。

 入口でされる会話は断片的にしか聞こえない。

「仮に、十年前の出来事をやり直せるとしたら」

 そんなばかばかしい仮定を、神父は口にしていた。

 考えてみれば、あり得ない話だ。

 真実だと考える方がどうかしている。

 そんな事を望んだところで、願ったところで、かなうはずなどない。

 そんなことは小学生にだってわかる。

 だけど――。

 望む。と言いたかった。

 願う。と叫びたかった。

 やり直す事にどんな意味があるか、やり直す事でどんな事が起きるか、そんな事はどうでもよかった。

 今の俺達にとって、今より悪い事なんて起きるはずがないからだ。

 大火事をなかった事にするなんて、大それた事は言わない。

 俺達の望みは、この教会へ来ない事。

 それだけだ。

 それだけでよかったのに……。

 こんなにも切望する俺達には、答える権利さえ許されていなかった。

 答えたのは、俺達ではない誰かの声。

「――いらない。そんな事は、望めない」

 あいつはそう言ったんだ。

 あいつはきっと幸せに暮らしてきたんだろう。

 俺達がずっと苦しんでいた時間を、あいつだけは楽しく過ごしてきたんだ。

 あいつひとりだけが。

 それだけじゃない。

 あいつには大切な守りたい“何か”があるらしい。

 自分では確認できないけど、俺達は酷い状態のはずだ。

 それを見てもあいつは俺達を切り捨てた。

 この涙も。

 この痛みも。

 この記憶も。

 あいつにとって、自分以外の誰かはどうでもいい存在なのだろう。

 たとえ、声を出せたとしても、俺達は恨み言なんて口にしなかったと思う。

 だって、あいつには俺達の心が分からないんだから――。

 

 

 

 暗闇に現れた灯を、あいつはあっさりと吹き消してしまった。

 すがりつくしかなかった藁は、簡単に沈んでしまった。

 俺達は本当の絶望というものを、今になって初めて知った。

 悲哀に沈み込んでいた人間にとって、かすかな希望がどれほど素晴らしく思えるか。そして、それを奪われた時にどれほどの奈落へ叩き落とされるのか。

 全てを諦める事よりも、望みを絶たれる方がはるかにつらい。

 生きているか、死んでいるかわからない俺達だったが、きっと、死んだのはこの瞬間だったと思う。

 心が、あるいは、魂が死んだんだ。

 そのあと何がどうなったかなんて、俺達が知るはずなかった。

 

 

 

 DEAD END

 

 

 

 
あとがき:
 後味の悪い話で申し訳ありません。
 ラストは「絶望したっ! 衛宮士郎に絶望した!」で締めようとしたんですが、さすがに自粛。
「直視の魔眼を持ってしまった男の話」を書いた時と同じように、発想から描き上げまでを数日で終わらせました。これほど勢いに任せた制作は久しぶりです。
 これ以降は、長くなるので [裏事情] にて。