第10話 誰がために(9)
『衛宮邸の食卓』
聖杯戦争が終わって一月ほど経ったころ――ちょうど春休みのことだ。
食事を並べたテーブルに皆が顔を揃えていた。
まあ、藤ねえだけは家の用事があって今夜はこれないらしい。だから、今日の面子は聖杯戦争の関係者ばかりとなる。
まず、セイバーがいる。
大聖杯を破壊しても、彼女はこの地に残った。
俺の記憶の中では、セイバーを取るか、聖杯を容認するかの、二択しかできなかった。
しかし、以前にキャスターが言っていた通り、召喚さえ終えていれば、現界に必要なのは魔力だけなのだ。セイバーがここに留まりたいというなら、俺に拒否すべき理由は全くない。
セイバーがこの時代から去ったとき、彼女が戻るべき時間は決まっている。それならば、ここで一年暮らそうと百年暮らそうと彼女が生きた人生には問題ないことになる。
本来ならば、俺程度の魔力ではセイバーをつなぎ止めるのは不可能だ。
ところが、俺と遠坂との間にパスが通ってしまったことで、セイバーが生活するのに十分な魔力を供給できるようになった。
遠坂は、俺の魔術の師匠となった。
聖杯戦争後、基礎的な魔術から改めて教わっている。
最近などは、俺を一人前にしなければならない事情ができたそうで、さらに進め方が厳しくなってきた。
セイバーを現界させるための魔力供給まで受けているため、遠坂にはまったく頭が上がらない。いや……、そうでなくても、俺は遠坂に位負けしているのだ。
学校では挨拶ぐらいしかしていないのだが、家ではほぼ毎日、顔を合わせている。
遠坂はなにやら不満そうだが、その話を聞いた藤ねえは、むふふー、なんて妙な笑いを浮かべていた。来年度に向けてなにやら企んでいるらしい。
桜はこれまでと変わらない。
彼女が隠してきた事情を俺は知ってしまったけど、極論してしまうと、それはどうでもいい事だった。
彼女が耐えてきたモノがどれほどのものか、俺に理解する事などできないだろう。しかし、彼女が幸せになるための協力なら、俺は惜しむつもりはない。
桜が人生を悔やむなんて早すぎる。人が暮らしていく時間なんて、これからの方が遥かに長い。これから、幸せになればいいことだ。
イリヤは国へ帰らなかった。
もともと、イリヤの目的と言えば、聖杯を完成させる事と、オヤジと俺への復讐だった。もう、その目的はイリヤにとって無価値なものとなったし、国や一族にそれほどの未練はないらしい。
彼女はホムンクルスであり、短命らしいが、そのあたりは遠坂が請け負ってくれた。
イリヤにも輝かしい未来が待っていると思いたい。
彼女は現在、藤村家で暮らしている。雷画じいさんにも気に入られてるらしいし、藤ねえをいじめるのが実に楽しそうだった。
そして、ライダー。
もともと、桜は遠坂と同じぐらいの力を持っているので、ライダーを現界させることも可能らしい。それどころか、聖杯化した影響により、桜は魔力が余りすぎているくらいなので、ライダーが存在しないと、むしろ危険なのだ。
ライダーはよほど桜を気に入ってるらしく、桜の傍にいる事を望んだ。
ちなみに、現在は遠坂が入手した”魔眼殺し”とかいう眼鏡をかけているため、セイバーのように普通の人間として生活している。
藤ねえには、”ライダーちゃん”などと呼ばれているが、本人はまんざらでもなさそうだった。
聖杯戦争を終えて、俺たちの仲間で姿を姿を消したのはアーチャーだけだった。
俺たちが遠慮したため、アーチャーに最後の別れを告げたのは遠坂一人だけだ。
二人がどのような言葉を交わしたのか、俺たちは尋ねようとしなかったし、遠坂も口にしようとしなかった。
だけど、遠坂は一つだけ俺に告げた。
アーチャーがこの地を去るときに、笑顔を浮かべていたのだと――。
「そうだ、士郎」
「ん?」
遠坂は、唐突にその話を切り出した。
「わたし、来年、時計塔に行くことになったから」
「そうなのか?」
時計塔──ロンドンにある魔術協会の総本山だ。
「ええ。大師父のとりなしもあって、おとがめなしになったじゃない。その関係もあって、わたしは時計塔へのパスポートをもらえたってわけ」
「そうか……」
すでに、遠坂はこの家族の一員だった。いるはずの人間が失われてしまう。それは、当然のように、寂しさを誘う。
俺だけではない、セイバーも桜も表情を曇らせる。
「なに暗い顔してんのよ、士郎?」
「遠坂は寂しくないのか?」
「なんで?」
「なんでって……」
遠坂は、今の暮らしに愛着がないのだろうか。失ってもかまわない程度のものなのだろうか……。
「そうだっ! セイバーはどうなるんだ? 遠坂が一人でイギリスまで行ってもパスって大丈夫なのか?」
俺一人ではセイバーを現界させることはできないため、遠坂の魔力は不可欠だ。
弁明のために遠坂が時計塔に出向いたときは、短期間ということもあって、桜とイリヤからの魔力提供を受けて、どうにか乗り切ったのだ。
「無理に決まってるでしょ。いくらなんでも、パスが通じるわけないじゃない」
「なっ……!?」
あっさりと告げられて、言葉を失う。
「凛……」
セイバーも事態を受け入れられず、あえぐようにして、遠坂の名を口にする。
「あ……!? ちょっと、待ちなさいよ! わたしがセイバーを見捨てたりするわけないでしょ」
やっと、俺達の言いたいことを理解したらしい。
気分を害したように、遠坂がにらみつけてくる。
それで、俺もセイバーもほっと息をつく。
「時計塔にいく魔術師は、助手の同行を許されているのよ。だから、士郎はわたしの助手として、セイバーはまあ士郎の使い魔ということにしておけば、問題ないわ。一緒にロンドンで暮らすんだから、セイバーが消える心配もないでしょ?」
「そうか、それなら……って、おい!? 俺達まで、ロンドンへ来いっていうのか?」
なんだそりゃ!?
「……じゃあ、どうするってのよ? セイバーが消えてもいいわけ? それとも、わたしに時計塔を諦めろって?」
「…………」
選択肢を突きつけられて、言葉に詰まる。
もともと、セイバーを現界させる魔力の大半は遠坂のものだ。
迷惑をかけている遠坂に、こちらの都合を押しつけて、人生の岐路を強制させることなどできない。
俺はよく知らないが、魔術師にとって、時計塔というのは業界の最大手なのだ。魔術を探求するための最適な環境がそこに待っている。手の届くところにあって、放り投げるなんて考えられない。
しかし、あまりにも突然で……。
「反対です! 姉さんは勝手すぎます。先輩にだって都合があるのに」
俺の心情を代弁してくれたのは桜だった。
「あるの?」
遠坂があまりに基本的な質問を投げかけてきた。
「そりゃあ……」
「聞かせてくれる?」
「大学にでも行って、就職先を探して……」
「アンタね、いまさらそんな生活してどうすんのよ。具体的にはなにも決まってないんでしょ?」
「ぐっ……」
解析の特技を活かすなら、廃品回収してリサイクルとか、そんな仕事も考えられる。しかし、いざそれが目標かと尋ねられるとためらわざるをえない。
「こうして、口論しててもきりがないし、私が簡単に決めさせてあげるわ」
遠坂が例の、人の悪い笑みを浮かべる。
「ペンダントのこと、覚えてるわよね」
「当たり前だろ」
死んでいたはずの俺を救ってくれた、遠坂のペンダントだ。忘れるはずがない。
「あの借りを返してもらうわ。わたしが時計塔にいけるよう、士郎は協力すること。いいわね?」
「…………」
それを持ち出されると、なんの反論もできなくなる。今の俺があるのは、すべて遠坂のおかげなのだから。
「言っておくけど、ペンダント一つで、士郎を一生縛るつもりはないのよ。むしろ、ペンダントの貸しは、これで帳消しにしてくれた方が嬉しいんだけど」
「いいのか、それで?」
俺の命を救った代償なのだ。本来ならば、それこそ、命を賭けるくらいでないと釣り合いが取れない。
「わたしがいいって言ってるのよ」
そう言い切った。
過剰な感謝というのは本人にとっては苦痛なのかもしれない。俺自身もお礼を言い出されて困ることがあるし……。
遠坂が満足できるというなら、俺にはそれで十分だった。
「……わかった。時計塔についていくよ」
うなずいてみせる。
「姉さんばっかり、ずるいです」
しかし、桜の方は納得できないらしい。
「仕方ないでしょ。桜は時計塔へくるまでの一年ぐらい我慢するのね」
その言葉に、桜が不満そうにむーっと遠坂をにらみ返す。
「まあ、わたしも手にしたアドバンテージをみすみす無駄にするつもりはないけどね」
にんまり。遠坂らしい笑みが浮かぶ。
「……だったら、わたしも来年、一緒に時計塔に行きます!」
「学校はどうする気よ?」
「自主退学です!」
「なに、バカなこと言ってるのよ!」
「姉さんが勝手な事言い出すからです!」
来年の話で、ふたりがケンケンガクガクとやり合いだした。
セイバーは黙々と食事をしている。俺が決断した以上、セイバーは不平も言わず、ロンドンへ同行するつもりだろう。
ライダーもセイバーと同様で、桜がどう判断するにせよ、従うつもりだと思う。
ふたりの論争を眺めていたイリヤがふいに声をかけた。
「無駄な争いなんて、いい加減にしたら?」
「無駄ですって?」
「イリヤちゃん?」
「だって、ふたりが士郎を独占できるのは今だけだもんね」
「どういう意味よ?」
「私は、まだ子供だけど……。その分、二人よりも若いもんね〜。二人がおばさんになったら、シロウは絶対私のところに戻ってくると思うんだ」
「な、何を馬鹿なこと言ってるのよ!」
どうしても語調が強くなるのは、最年長――と言っても、俺と同級生の遠坂だった。
「せ、先輩は年齢なんて気にしないと思います」
「今はそうでも、どう頑張ったって、老いるのは二人の方が早いし〜」
イリヤがにんまりと笑ってみせる。遠坂がよく浮かべる、人の弱みを喜ぶ表情だった。
「待ってください、イリヤ。それを言うなら、私の方が有利なのではありませんか?」
セイバーが口を挟む。
「え……?」
「私はこの時代に生きる人間とは違います。何十年と暮らしていても、老いることはありません」
「そ、そんなのズルいわ」
「……ずるいと言われても困ります。だからといって、今のシロウを誰かに預けるつもりもありませんが」
「セイバーひとりに、独占なんてさせないんだから!」
イリヤが不満そうに、怒鳴る。
遠坂も桜も黙っているはずもなく、四人で口論が始まってしまった。
「皆さん、若いですね……。わざわざ、ライバル相手に宣言する必要などないというのに」
俺の傍らで、ため息混じりにつぶやいたのは、参加していないライダーだった。
彼女等の様子を呆れているらしいが、その声が羨ましそうに感じられたのは、俺の気のせいだろうか?
ライダーがこちらに視線を向ける。
「本当の想いというものは、自分自身と、できればその相手……二人だけが知っていれば、それで十分だと思います。そうは思いませんか、シロウ?」
「そうだな。そう思うよ」
頷いてみせる。
「同意を得られて、嬉しいです」
ライダーがにっこりと微笑んだ。