第10話 誰がために(5)

 

 

 

『這い寄る混沌』

 

 

 

 地面にこぼれだした泥が、その領域を広げていく。あの、臓硯が棄てられた場所も、すでに泥に飲み込まれていた。

 あの泥は聖杯によって生み出されたもの。サーヴァントが触れると、そのまま汚染されてしまうだろう。

 ――っ!?

 視界をかすめた白い肢体。

 慌てて俺は走り出していた。

「士郎!? あのバカ!」

 遠坂の声が背後から聞こえる。

「ライダー。あの結界を使って、少しでもアンリ・マユの活動を弱めることは出来ない?」

「……これだけ魔力が充満した場所ならば、すぐにでも発動させられるかもしれません」

「じゃあ、急いで。絶対に泥には触れないようにね。あの泥に飲み込まれたら、サーヴァントは助からないわ」

「わかりました」

 ありがたい。

 正直あの泥は、苦痛そのものだった。

 俺は泥の湧き出る場所へ向かって走る。

 台の上にいる桜はいまのところ無事だったが、ものの数分で飲み込まれてしまうだろう。

 ――俺は桜を助ける。

 もしも、言峰が口にした通り、絶望しか残されていないとしても、桜が死んでしまうのを見過ごすことはできない。

 台の周りはすでに泥が敷き詰められている。その量は増える一方だった。

 刻一刻と水位を増していく泥をかわけ、一番深い場所へと必死で駆けよる。

 桜は身動きもせず、眠り続けている。

 おそらく生きているとは思うが、その生死を確かめている暇もない。

 桜を両手で抱き上げて、坂を上り始める。

「魔力への耐性もないくせに、なんて無茶すんのよ!」

 俺を追って来ていた遠坂が、俺を怒鳴りつけた。

「ほら、貸しなさい」

 そう言って、遠坂は俺から桜を奪い取る。

「ああ。頼む――」

 思わず本心を口にしてしまうと、遠坂は真っ青になった。

 いつもの俺なら、自分で桜を運ぶと主張しただろう。だが、今の俺には、そんな強がりを言う元気も残っていない。

「っ!? 士郎! ついてきてっ!」

 先を行く遠坂に続いて俺も走る。

 遠坂は自身の身体に強化の魔術でもかけていたのだろう。

 俺はそんなことすら思いつかなかった。

 今の俺は空身だというのに、追って走るだけで倒れそうになる。

 遠坂の言葉通り、対魔力が低い俺では無茶だったのだ。

 泥は酸のように肌を侵す。いや、そう感じるほどに魂を犯されているのだろうか?

 遠坂の後ろ姿が遠くなる。

 アンリ・マユを構成する呪いが、俺に染みこんでいく。

 足がふらつきだし……。

 そして――。

「シロウっ!」

 セイバーの悲鳴が聞こえたのは、足をもつれさせて、転ぶ寸前だった。

 俺の身体は泥の中に倒れ込んでいた。

 くそっ! 鞘を投影しないと……。

 ――俺は泥に呑み込まれた。

 

 

 

 アンリ・マユ(この世全ての悪)――。

 50億人が生み出した負の感情。

 粘り着く悪意。

 死の黒さと、血の赤さ。

 この世の全てを呪う声。

 人の悪意そのものが煮詰められ、沈殿し、腐食していく。

 世界のあらゆる物を憎悪し、己の内では慟哭し続ける。

 何かを切り裂き、己自身が傷つけられる。

 苦しいからこそ憎み続け、憎むからこそ苦しみがやまない。

 その悪意は、あらゆるものに対して平等だった。

 

 

 

 俺はすぐに蘇生していた。

 どうやら、ライダーの鎖で俺は助け出されたらしい。かわりにあの武器はアンリ・マユに浸食されて使い物にならなくなった。

 永遠の責め苦にも似た、泥の呪い。

 飲み込まれたのはほんの数瞬のことだったらしい。

 泥に取り込まれたら、正気を保っていることは不可能だろう。どうしても心が、魂が壊れていく。

「くっ……、う……」

 ライダーが身悶えしている。

 この洞穴内は、今やブラッドフォード・アンドロメダ(鮮血神殿)の結界下にある。

 アンリ・マユの魔力を吸収することで、活動を弱めようとしているからだ。だが、その魔力はすでにアンリ・マユに侵された力である。サーヴァントにとっては、異物であり、毒にしかならない。

 そして、どれほど力を吸い上げようとも、根源から力を得ているアンリ・マユにとっては微々たるものなのだろう。

 胎児のようなアンリ・マユが身動きする。

 今にも誕生しかねない。

 俺の視線を受けて、セイバーがうなずく。

「まかせてください」

 セイバーの構えた剣から、風が解き放たれる。

 霞んでいた刀身が形状を露わにし、逆に、その発光により輪郭がぼやけていく。

「セイバー……」

 アンリ・マユを生み出す大聖杯を破壊する。

 それは、セイバーがこの地に残る理由を消し去ることになる。

”前回”と同じく、これは、セイバーの最後の攻撃となるだろう。

 それでも、アンリ・マユを見過ごす事はできない。

「私に後悔はありません。貴方に会えてよかった」

 前に踏み出しているセイバーは、俺を振り返ろうとしない。

 ただ、その凛々しい後ろ姿が俺の脳裏に刻み込まれる。

「シロウ、令呪をお願いします」

 聖杯を望んだセイバーの意志で聖杯を破壊することは不可能だ。それを可能とするのは、令呪による拘束のみ。

 わずかな葛藤。

 自分は再びセイバーを失おうとしている。

 それでも──。

「セイバー、大聖杯を破壊しろ」

 令呪が消えていく。

「了解しました。シロウ……」

 セイバーがしっかりとうなずいた。

「行きます」

 セイバーは両手で輝く聖剣を振り上げる。

「エクスカリバー(約束された勝利の剣)――!」

 聖なる光は、あらゆる魔を討ち払うだろう。

 大聖杯への軌跡の前に、影が出現する。

 立ちはだかるのは十体の黒い巨人だった。影絵のように存在感の薄い、だが、それでもサーヴァントに匹敵するほどの強大な魔力。

 聖光は巨人をまとめて切り裂いていく。

 1体、2体、3体……。

 わずか一太刀。しかし、最強の一撃。

 それは、最後の巨人をも切り裂いていた。

 残るは聖杯のみ。

 エクスカリバーの攻撃は、大聖杯に達した。

 ――だが、そこまでだった。

 大聖杯の表面をわずかに削り、光が薄れていく。

 切り裂かれたとはいえ、あの巨人達はエクスカリバーによる攻撃を相殺したのだった。

「そんな……」

 遠坂のつぶやき。

 それは俺も同じだった。

 セイバーもライダーも言葉を失っている。

 俺達の最大の攻撃力をもってしても、大聖杯の破壊は成し遂げられなかった。

 俺の、そして遠坂の魔力をつぎ込んだ、セイバーの一撃。

 今のは俺達に許された最後の攻撃だったのだ。

 

 

 

 先ほどの巨人が再び出現する。

 サーヴァントにも匹敵するだろう力を持つ巨人が、それも6体。

 もはや俺たちには、巨人の一体でも倒す術は残されていない。

 巨人が蹂躙し、あの泥が町中に溢れ出すだろう。人々は破壊と苦痛に飲み込まれる。

 そんなことを見過ごすわけにはいかない。

 それを止めてこその正義の味方だった。

 俺が頑張ってきたのは、それをさせないためにだったはずだ。

 これまでの戦いが、いままでの人生が、全て無駄になるのだろうか?

 あの悪意の前に敗れ去るのか?

 一度は聖杯を破壊し、それを成し遂げたというのに……。

 人類は、自分たち自身が生み出した、アンリ・マユによって滅びるのか?

 言峰は正しかった。

 俺たちに残されたのは絶望だけだ……。

 

 

 

「んっ……! くぅ……」

 突然、桜が身悶えする。

 言峰が口にした刻印虫が桜を内側から灼いているのだ。

「桜!? しっかりして!」

 遠坂の呼びかけはおそらく桜の耳に届いていない。

 それでも遠坂は呼びかける。

「わたし達がアンタを助けてあげる。絶対に! イリヤお願い」

「ええ。聖杯の圧力は私が引き受けるから、リンは損傷するサクラの身体を治して」

 遠坂とイリヤは桜を救おうとしている。桜を蝕む聖杯の力を逆用し、刻印虫を消滅させようとしているのだ。

 そして、セイバーとライダーもまた立ち上がる。皆を守るために、黒い巨人へ立ち向かおうというのだ。

 そう……。まだ、すべてが終わってはいない。

 たとえ絶望的ではあっても、取り戻せない過去ではない。

 今ならばまだ、希望は残されている……。

 

 

 

 何かが……、俺の中で問いかける。

 それは自分自身の心の声ではない。

 どこか漠然とした……、とりとめもない意識だった。

 ――――?

 このままでいいのか、と――。

 そう尋ねていたように思う。

 いいわけがない。

 俺はあの泥を止めたい。アンリ・マユを倒したいのだ。

 何者かは続けて問いかけてくる。

 ――――?

 奇蹟でもなんでもいい。この願いさえかなえば。

 どうしても、俺は皆を助けたい。

 ――――?

 代償なんて、なんだってかまわない。好きなものを持っていけ。

 俺の身体でも、命でも!

 ――――?

 未来……だと?

 その問いに、ぎくりとなった。

 これ……なのか? これが、世界との契約なのか?

 アーチャーの姿が脳裏に浮かぶ。守護者として、人を救い続け、その理想を失ってしまった、もう一人の衛宮士郎。

 この契約で、俺自身がああなるのかも知れない。

 だが――。

 彼女達に目を向ける。

 そこには大切な存在があった。

 彼女達との生活は楽しかった。家族を失った俺にとって、とても大切なものだった。

 彼女たちと別れたくない。

 だが、だからこそ、彼女らを死なせるわけにはいかない。

 それは、誰かを救わなければならないという、強迫観念にも似た存在理由とは違う。俺自身のエゴとも言える願い。

 彼女達には、生きていてもらいたい。笑っていて欲しい。

 そのためなら……。

 たとえ、自分の未来を捨てることになっても――。

 遠坂。桜。イリヤ。ライダー。……そして、セイバー。

 見知らぬ誰かのためではない。俺が助けたい人のために。

 そして、なによりも、俺自身のためにだ――。

 

 

 

 大聖杯から、それが、産み落とされる――。

 黒い巨人をも越える体長。ねっとりとぬめる黒い体表。三つ目を持つ異形の存在。

 それが、この世全ての悪――アンリ・マユだ。

 

 

 

「――誓う!」

 俺はそう口にしていた──。

 

 

 

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