第10話 誰がために(4)

 

 

 

『始まりの場所』

 

 

 

 先行した遠坂が残していった魔力の印を追って、俺達はそこへ到着した。

 洞穴の終着点は、大きな空洞であった。奥が崖のように盛り上がっており、その上には三つの人影が見えた。

「遠坂!」

 遠坂とイリヤがこちらに視線を向けて、すぐに前方へと向き直る。ライダーは振り向きもしなかった。

「どうしたんだ? 桜は無事なのか?」

 崖を駆け上りながら遠坂に問いかける。

「桜はあそこよ」

 上までたどり着いた俺に、遠坂が指さして見せた。

 

 

 

 柳洞寺地下にある大聖杯――それは、聖杯戦争という儀式の中心である。

 この冬木の地において、本来ならば60年の年月を経て魔力を溜め込み、さらには、召喚した英霊の魂を贄とするための魔力炉。

 その釜から、魔力が今にもあふれかえりそうになっている。

 その力とは、――アンリ・マユ(この世の全ての悪)であった。

 

 

 

 クレーターの様な鉢状のくぼみの中心に、怪物の姿が逆さまに浮かび上がっている。

 その手前に、白い肢体があった。ちょうどベッドのような長い岩に、一糸まとわぬ少女の身体が。

「桜っ!」

「ようやく到着したか。衛宮士郎」

 台の向こうで言峰がこちらを眺めている。

「言峰……、どうしてお前が生きているんだ?」

 ギルガメッシュの言葉から生きていることは推測できた。だが、その理由がわからない。

「前回の聖杯戦争において、私は衛宮切嗣に一度殺されている。私の命をつなぎ止めたのは、その時に浴びた泥だ。私の心臓はアンリ・マユによって動いているのだ」

 ライダーであっても瞬時に攻撃の届かない距離。それなのに、言峰の声だけははっきりとこちらに届いている。

「下手な行動は慎むことだ。何よりも先に、この娘が命を落とすことになる」

「くっ……」

 傍らの遠坂も唇を噛む。おそらく、そう脅されて膠着したままなのだろう。

「お前達と少し話がしたい。どうしても尋ねたいことがあってな」

「桜はっ!? 桜は無事なのか?」

「無論。私は聖杯たるこの娘に害を及ぼすつもりはない。お前達がこの娘を見捨てたりしなければな」

 横たわる桜を見下ろすその目。それは、なぜか慈愛を感じさせるものだった。

「以前、衛宮士郎から聞き出したのだが、お前達は聖杯戦争を経験した記憶があるそうだな」

「ええ。それが何?」

 噛みつくように、遠坂が答えた。

「それは、この間桐桜も同じなのか?」

「そうよ」

「それでは聞こう。お前達は、聖杯に過去の改竄を望んだのか?」

「……いいや」

 俺が首を振ってみせる。

「わたしは望んでないわ」

「考えたこともないわね」

 遠坂とイリヤが否定し、桜に替わってライダーが答えた。

「サクラも違うはずです。あの状況で聖杯に望みを願うなど、考えられません」

 俺達の返答に、言峰がうなずいて見せた。

「それでは、誰も望んでいないと? そのような事態が、単なる現象として発生すると思うのか? それはありえん。何者かの意志が介在したと考える方が自然ではないか」

「……何が言いたいんだ?」

「つまり、お前達が時間を遡ったのは、誰かがそれを望んだに違いないのだ」

「それが、桜だと言いたいのか?」

「そうではない。自然現象と判断するには、対象者が限られていると指摘しているだけだ。聖杯戦争を勝ち抜いた、あるいは、生き残ったマスターだけが時間を遡ったのだからな」

「…………」

「衛宮士郎。お前なら気づけたのではないか?」

 俺なら……?

「正義の味方が助けられるのは、正義の味方が救おうとした者だけ。つまり、お前達が切り捨てたものこそが、お前達の選んだ未来を否定したのだ」

 言峰の言葉が指摘しているのは、誰のことだ?

 いや……、何のことだ?

「自らの誕生を願っていた存在は、独善的な何者かによって、その機会を奪われてしまった。許されたはずの、”生まれる”という些細な願いを──。このとき、もしも、ソレに意志があり、十分な力があったら、それは何を願うと思う?」

「まさ……か……?」

「誕生を拒んだ者への恨みなのか、生き残った者への妬みなのか……、そこまでは、私にもわからん。だが、その意志を持ち、その力を持つ存在など、他には考えられないではないか?」

 静寂が満ちた。

 いや、衝撃で脳が麻痺した状態となり、視覚や聴覚が思考と連動していない。

 そうか……。

 俺達が切り捨てた存在。

 俺たちが否定した存在。

 それの意味するところはひとつだけだ。

 聖杯――いや、聖杯を汚すことになった元凶、アンリ・マユ(この世全ての悪)だ。

「お前達は初めから、アンリ・マユが用意した舞台の上で踊っていたというわけだ」

 俺たちが未来から連れ戻されたのは、あくまでも聖杯戦争を戦う駒としてなのか? アンリ・マユの願いをかなえるためだというのか……?

「お前達は自ら望んだ結末へたどり着きながら、別な選択肢を選んだ。お前達自身が新たな可能性を作り上げてみせたのだ」

「言峰……。お前の望みはなんだ? アンリ・マユを誕生させて、人間を滅ぼしたいというのか?」

「そうではない。単純な疑問からだ。いや、もしかすると、私自身への問いかけなのかもしれん。一般の人間と異なる価値観をもった存在が、己をどう見つめるのか……。是とするか、否とするか。どちらを選択しようとも、それはアンリ・マユの決断によるのだ。すくなくとも、お前のような偏狭な正義感に選別させるわけにはいかない」

 言峰が桜の傍らに立ち、その胸へ手を添えた。

「この娘はいつ聖杯と成り果ててもおかしくはない。だが、その前にしなければならないことがある」

 ずぶり……と、言峰の指先が、桜の肌をえぐった。

 思考が凍結する。

 俺を包む空気が凍てついた。

 桜の二つの乳房の間を、言峰の指先がかき回す。

 あふれ出た血が、桜の白い肌の上を伝った。

「てめぇっ――!」

 激情のまま声を絞り出す。

「待って、士郎! あれは、心霊治療じゃない!?」

 遠坂が俺を制止した。

「え……?」

 よく見ると、心臓が破られたにしては、流れ出る血の量が少ない。

 桜も穏やかな表情のままだった。

 もぞもぞと中を探っていた言峰は、桜の身体から右手を引き抜いた。

 桜の血にまみれた、言峰の右手。おそらく、その指先に目的のものをつまんでいるはずだ。

 この距離では、とても、その正体までは確認できない。

「間桐桜に満ちているはずの魔力が、心臓のあたりだけ薄かったが……」

 言峰は、右手のソレに静かに告げた。

「こんなところに潜んでいるとは、知りませんでしたな、ご老人」

 老人――間桐臓硯か?

 あのおぞましい蟲の化け物が桜の身体から引きはがされたのだろう。

「この娘の身体を支配して、アンリ・マユを従えようとしたのですかな? あいにく、私はそれを許すわけにはいかない。苦痛にまみれた生から、貴方を解き放ってさしあげよう」

 おそらく、言峰は指先で蟲を押しつぶした。

 その手を無造作に振って、ソレを投げ捨てると、言峰は小さくつぶやく。

「キリエ・エレイソン(この魂に哀れみを)」

 と――。

「この娘を聖杯となさしめているのは、マキリの技による刻印虫のようだ。聖杯が開いた時に、その魔力をわずかでも制御できれば、この娘の刻印虫を焼き尽くすことも可能だろう」

「なぜ、お前が桜を助けようとするんだ?」

「私がこの娘のために助けると思ったのなら、それは間違いだ」

 俺の思い違いを、言峰自身が正す。

「アンリ・マユを生み出したこの娘は、蹂躙される世界に何を見る? 世界の怨嗟は、この娘をどのようにさいなむと思う? 間桐桜の抱く絶望が、どこまで膨れあがるか、実に楽しみではないか」

「貴様は……桜を苦しめるために、助けたっていうのか!?」

「知っていたはずだろう? 私は人の負の感情にこそ魅力を感じるのだと。私が命を救う理由として、これほどふさわしいものはあるまい」

「言峰っ!」

 俺自身に沸き上がる憎悪の全てをヤツに叩きつける。

 だが、言峰は、それをそよ風ほどにも感じてはいない。

「お前達が示した未来の可能性はすでに断たれた。後はただ、アンリ・マユの誕生を祝福するがいい。お前達自身の絶望をもって……」

 言峰が厳かに告げる。

「さあ、誕生の時だ――」

 

 

 

 破水――。

 黒い泥が溢れ出る。

 アンリ・マユを包む悪意の羊水だ。

 こぼれ落ちる泥を身に浴びながら、言峰の顔をある表情がよぎった。

 それは、至福の笑み。

 言峰のした事、望んだ事には、一片の共感も生まれなかった。

 だが、言峰は満足していた。それは、何かを成し遂げた者だけが浮かべる笑みである。

 俺にはそれが羨ましく思えた。

 どこか、オヤジの死に顔にも似た、――満足そうな顔だった。

 

 

 

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  注:彼らが逆行したのは聖杯破壊の一時間後という設定なので、士郎や凛には別れの記憶が残っています。桜は本来True Endからの逆行なのですが、士郎が生還したところまで経験していないため、彼女はその事実を知りません。