第9話 剣の在る世界(5)
『帰宅』
「士郎、おかえり……って?」
俺達を出迎えた遠坂が目を丸くする。
当然だろう。
ギルガメッシュと戦いに行ったはずの俺が、自ら姿を消していた桜とライダー、さらには死んだはずのセイバーまで連れて帰ったのだから。
「どうなってんのよ?」
「悪いけど、話は後にしてくれ。桜を風呂に入れてやりたいんだ」
俺と桜は雨に濡れたためにびしょ濡れだったのだ。セイバー達と合流したころにはすでに雨は上がっていたものの、濡れた身体が冬の夜に乾くはずもない。
「桜。アンタ……」
「…………」
うなだれる桜を見て、さすがに遠坂も言葉を飲み込む。
「言いたいことはいっぱいあるけど、後にするわ。風呂に入ってきなさい」
「でも、先輩が……」
「俺は後でいいよ。遠坂に話があるから」
「はい……」
部屋で着替えた後、居間で遠坂相手に状況を説明する。
ギルガメッシュを倒し、黒い影を倒し、セイバーを取り戻し、ライダーと合流し、桜を連れ帰ったことを。
「呆れたわね。よくも、まあ、立て続けにコトが起きるもんだわ」
「まあ、そうだよな」
間桐邸に行ったのが今朝のことだから、あまりに多くの出来事が続いて、俺自身も驚いている。
「遠坂……」
「ん……?」
俺が言葉を続けないことで、遠坂が首を傾げる。
「どうしたのよ? 何か言いづらいことでもあるの?」
「もしかして、遠坂は桜がどういう教育をされてきたか気づいていたのか?」
「……間桐の家で、地下室を覗いた時に想像はついたわ」
「そうか……」
蟲に苛まれる日々。それだけでなく、桜はずっと慎二に犯されていたんだ。
くそ! あの家に行ったとき、俺も慎二を殴っておけばよかった。たとえ、本人の記憶が消えていたとしても、それで許されることじゃない。
「なんだって桜がそんな目に……」
「アンタが憤ってもどうにもならないわ。もう過ぎたコトよ。……わたしが言うのもなんだけどね」
「…………」
「それとも、もう一度やり直したいと思ってる?」
「それは……」
これもエゴというのだろうか?
俺個人のことならば耐えられる。苦しみが待っていたとしても、自分を貫いていきたいし、そうあるべきだと思う。
だが、それを桜に強要することはできなかった。むしろ、消してやりたいとすら思う。
「そんなに真剣に悩まないでよ。ほんの冗談なんだから」
「冗談?」
「聖杯の願いがあてにならない以上、わたしたちにはそんな力なんてないんだから。ないものねだりしてもしょうがないでしょ?」
「それはそうだけど……」
「昨日を嘆くよりも、今日や明日を考えるの。そうする方が建設的よ」
「……そうだよな」
人は過去に生きるべきではない。今日よりも新しい明日が待っているはずだから――。
「先輩。お風呂が空きました」
「わかった。……桜は部屋で待っていてくれるか?」
「え?」
「俺も風呂から上がったら、桜の部屋に行くから」
「先輩……?」
怪訝そうな桜を廊下に押し出す。
自室へ向かう桜の後ろ姿を見ながら、俺は想いを口にしていた。
「遠坂……。俺は桜を抱くよ。桜が汚れてなんかいないって証明するために。そして、俺がどんなに傍にいて欲しいか、桜に知ってもらうために」
「……それでいいのよ。桜がいなくなったときにも言ったでしょ。もともと、アンタの責任なんだから、ちゃんと果たしなさいよね」
とげとげしい口調でそう告げる。
「ごめんな、セイバー」
セイバーもまた真剣な表情で俺に答えた。
「謝罪の必要などありません。シロウが必要だと判断したなら、それでいい。シロウ自身のために、そして、桜のためにも彼女を愛してあげてください」
「……わかった」
『桜の事情』
桜の部屋を出て、自室へ戻ろうとしたのだが、居間がまだ明るいことに気づいた。
大きく息を吐いて、俺は覚悟を決める。
障子を開けると、室内にいたセイバーと遠坂が俺の顔を見上げる。
「その……、ごめん」
俺の言葉に、二人の視線が鋭くなる。
「なぜ、謝るのですか?」
「悪いことしたと思ってるわけ?」
「そういうわけじゃないんだけどな……」
「でしたら、謝らないでください」
セイバーが冷たく言い放つ。
「桜を抱いて後悔してるなんていったら、ガンドじゃすまないからね」
遠坂は本気で脅してきた。
俺だって桜に謝るつもりなんかない。だけど、セイバーと遠坂には、謝るべきだと思っただけなのだ。
ふたりは何を言うでもなく、俺を見る。
…………。
針のむしろだったが、さすがに、逃げ出すわけにもいかない。
自分の選択したことの、責任というか、……まあ、そんな感じで。
そこへ、ライダーが顔を出した。
「……?」
室内の微妙な雰囲気に首をかしげたものの、ライダーが口を開く。
「シロウに話さなければならないことがあります。桜は重要な事実をひとつだけ貴方に隠したようですから」
「隠した? どんなことだ?」
「桜を助ける方法についてです」
「えっ!? ちょっと待ってくれ。そんな方法があるのか?」
「ええ。貴方が投影するルールブレイカーならば、桜とアンリ・マユとのつながりを断てるはずです」
「なによ。だったら、事は簡単じゃない」
遠坂が驚きの声をあげる。
「ですが、それにはひとつだけ問題があります。桜はそのつながりを利用して、アンリ・マユを押さえていました。これを断ち切れば、アンリ・マユは桜の制御を離れて、野放しになってしまうでしょう」
「待ってよ、ライダー。だからって、このままにしておいたら、桜はアンリ・マユに浸食されてしまうんでしょ?」
「それでもです。桜は”前回”のことをひどく悔やんでいます。リンやシロウの事を別にしても、多くの犠牲者を出しました」
「でも、それは桜の無意識下でのことでしょ? そこまで責任を問うつもりはないわよ。それに、”今回”は起きてもいないことなんだから」
遠坂の意見は俺とまったく同じものだ。
「それより、確認させてくれ。桜がアンリ・マユに取り込まれたとしても、ルールブレイカーなら助けられるんだな?」
「はい。”前回”のシロウもそうしてサクラを救い、その代償として、命を失ったのです」
「それはアーチャーの腕のせいだろ? だったら、今度は大丈夫じゃないか」
桜の記憶の中で、左手を失った”俺”は、同じく死にかけたアーチャーの腕を移植することで生き延びたらしい。だが、アーチャーの腕を使用して投影を続けた”俺”は、腕からの浸食により自我を崩壊させていったのだという。
「桜にはわかっているのでしょう。アーチャーの腕というのは、要因の一つにすぎません。貴方は誰かを助けるためなら、自分を失うことをいとわない。たやすく己を捨ててしまうのですから」
「それは、同感ね」
ライダーの指摘に、遠坂までうなずいた。
「サクラにとって、これは贖罪なのです。力の続く限りアンリ・マユを押さえ、限界に達して意識が呑み込まれてしまったら、シロウの手で命を絶ってもらう。それを望んでいるのだと思います」
「……俺は桜を助けるよ。どんなに、桜が望まなくても。助けることで桜に恨まれたとしても……俺は桜を助ける」
セイバーや遠坂が柔和な笑みを浮かべて俺を見る。
いや、ふたりだけではなく――。
「ええ。お願いします。そう言ってくれると思い、私は事実を告げたのですから」
もしかしたらそれは、俺が初めて見たライダーの笑顔だったのかもしれない。
〜interlude(魔手)〜
衛宮邸の塀を乗り越えた黒い影が、音もなく路上に降り立つ。
闇が凝り固まったような人影は、左腕に人形のような物を抱えている。
薬でもつかわれたのか、身動き一つしない。だが、それはれっきとした人間であった。
ざっ――!
塀を、屋根を越えて走る影。
街灯の光が届かないところを、身軽に渡っていく。
首尾よく娘を手に入れた彼だったが、かすかな苛立ちを感じていた。
他者ならばいざしらず、影に生きる自分を相手に、小賢しい。
彼はその気配を敏感に感じ取っていた。
この自分を追ってくる追跡者の存在。
サーヴァントではない微弱な魔力。
人気のない夜の公園まで来て、彼は足を止めていた。
「何の用だ?」
答えを期待していたわけではない。
わずかな誘い。
コートを着た男が、彼の前に姿を見せた。
「お前に用などない。私の目的はその娘だ」
「あの家からつけてきたな?」
「その通りだ。どうやって忍び込もうかと考えていたのだが、その必要はなくなったようだ。その意味ではお前に礼を言うべきかもしれんな」
「思い上がらぬことだ。私を倒さずして、この娘は貴様の手には入らぬ」
「では、倒してみるとしよう」
男はコートの裏側から、奇妙な剣を引き抜いていた。
男は確かに強かった。技術も優れているし、戦いという物を知悉している。
だが、人の身ではサーヴァントに勝てない。
彼の脳裏には、男の死に様がまざまざと思い浮かぶ。
答えのわかったパズルを解くようなものだ。すでに、この男の死に方は決定づけられた。
アサシンの予定通りに戦いは推移し、男に隙が生じる。
これで、終わる。
人の身では防ぐことなど不可能。
――っ!?
あり得ない事態に、アサシンが驚愕する。
男の体はまだ動いていた。
動けないのは、むしろ彼の方だ。
男が投じた剣で、彼の身体は一本の木に打ち付けられてしまったのだ。
「バ、バカな――!?」
戒めから解き放たれた時、彼には報復の意志が十分にあった。手にしたはずの獲物を奪われたのだから、当然だろう。
だが、彼の主がそれを許さなかった。
もともと、戦力の乏しい側が互いに争ってなんの益があるというのか……。
主の説得に、彼は屈辱をかみしめながらも、夜の闇へ溶け込むように姿を消した。