第9話 剣の在る世界(4)

 

 

 

『嘆きの記憶』

 

 

 

 ライダーの話――。

 それは、できるなら知らずにいたかったことだ。桜自信も、聞かれたくはなかっただろう。

 間桐家に引き取られ、マキリの魔術師となるために続けられた”教育”の数々。

 俺があの大火事で地獄を体験した頃、俺より年下の桜はそれほどの責め苦を受け続けていたのだ。

「俺はそんなことも知らないで……」

 自分に対する怒りがこみ上げてくる。どうして気づいてやれなかったのか。どうして助けてやらなかったのか……。

「シロウが悔やむのは間違っています。桜にとって、シロウと過ごしてきた、当たり前の日常は、とても大切なものだったのですから。桜が一番恐れていたのは、そのことをシロウに知られることであり、それまでの日々を失うことだったのです」

「…………」

 俺にできるのはそんなちっぽけなことだけなのか?

 知らないでいることしか、俺にはできないのか?

「俺に桜を助けるなって言うのか? 助けるべきじゃないって言うのか!?」

「正直なところ、私たちが頼れるのはシロウだけです。ですがサクラは、シロウを再び死なせてしまうことを恐れて、貴方の前から去りました。ですが……、まさか、シロウがギルガメッシュとアンリ・マユを倒すほどの力を持っているとは……」

 一応、ライダーは俺の力を認めてくれたようだ。

 ギルガメッシュとアンリ・マユの場合は、単に対抗できる武器を俺が持っていただけなので、他のサーヴァントを相手に戦えるかどうかは別なのだが。

 いや、それよりも……。

「再び死なせる……、だって?」

「ええ。桜は秘密にしていましたが、彼女にも”前回”の記憶があるのです」

 ライダーが知ったという桜の記憶――。

 それは、アンリ・マユに関する記憶だった。――いや、そのアンリ・マユは桜本人でもあったらしい。

 桜の記憶は、俺や遠坂の記憶とは異質なものだ。サーヴァント同士の戦いに介入する、臓硯や黒い影。それは、今の状況に近い経験だった。

「じゃあ、俺の倒した影は……」

 もしかして……?

 背筋が凍り付くような疑惑に、ライダーは首を振って答えた。

「あれは、サクラではありません。アンリ・マユ自身の影なのでしょう。今の桜は必死で自我を保とうとしています。”前回”、夢うつつの状態で多くの人間を襲い、さらには、凛を殺しかけ、シロウを失ったのですから」

「……俺は死んだのか?」

「ええ。貴方は己の存在全てを代償として、サクラを救おうとしていました。あの状況で生き延びる事など不可能です」

 ライダーは淡々と告げる。

 彼女や桜にとって、それはすでに体験済みの過去の話なのだ。

「ライダー。ひとつだけ教えてください。それでは、私はシロウを守れなかったということなのですか?」

 黙って聞いていたセイバーが口を挟む。どうしても尋ねたい事だったらしい。

 ライダーは哀れむように首を振った。

「聞かない方が貴女のためです」

「そのようなわけにはいきません。たとえ力及ばす、途中で倒れたとしても、どのように敗れたのかは知っておきたい。私は、シロウを守るために、あらゆる事態に備える必要があるのですから」

「……どうしても聞きたいのですか?」

 なぜかライダーが念を押す。

「無論です」

 セイバーは勢い込んでうなずいた。

 それに対するライダーの答えはこうだ。

「貴女は、アンリ・マユに取り込まれて敵となりました。私とシロウは二人がかりで貴女を退け、動けなくなった私に替わってシロウがとどめを刺しました」

「…………」

 あまりの話に、セイバーが硬直した。

 

 

 

『逃避』

 

 

 

 桜が隠れていたのは弓道場だった。

 俺も遠坂も学園は休んでいるし、ちょうどよかったのだろう。

 どうやら、美綴が協力していたらしい。おとなしい桜が言い出したことなので、美綴としてもよっぽどの事情があると察したらしい。

 

 

 

「ライダー?」

 桜が振り向いた。

「……!?」

 ライダーの隣に立っていた俺の姿を見て、桜の表情が一変する。

 それは絶望と言えるだろう。

「どうしてなの、ライダー!? 先輩には秘密にしてって言ったじゃないっ!」

 桜の悲痛な叫び。

 たった一人の仲間に裏切られた悲しみだろうか? それとも、俺に知られてしまった嘆きなのだろうか?

「ライダーは悪くないよ。俺が聞き出したんだ。俺が桜を放っておけるわけないだろ?」

 身を翻した桜は、裸足のまま裏口から外へと駆け出していく。

「桜っ!」

 慌ててそれを追いかける。

「待ってください、桜!」

 セイバーの呼びかけも耳に届いたが、それだけだった。

 セイバーもライダーも追ってこようとはしない。

 俺だけが桜を追いかけていた。

 どんなに走ろうと、桜が行ける場所などない。どんなに逃げようとも全てを捨てることなどできない。

 桜の帰るべき場所は一つだけ――それは、俺の家だ。

 どんなに本人が拒もうと、俺は桜を連れ帰る。

 確かに、”桜の知る俺”は死んだのかもしれない。

 だが、桜がそれを悔やむのは間違っているのだ。

 もしも、それが俺だったら――。

 自分の生き方を悔やんだりはしないはずだ。

 そうすることで、桜を助けることができたのなら、それ以上何を望むというのか? たとえ、心残りがあっとしても、桜に悲しんで欲しいなどとは思わないはずだ。

 ただ……。

 桜には悪いが、俺は”桜の覚えている俺”にはなれないだろう。

 ここにいるのは、”今の俺”でしかない。

 己の理想を捨て、皆を切り捨て、ただ桜を助けるために戦うようなことは、”今の俺”にはできない……。

 俺だって桜を助けたい。だが、そのために俺以外の誰かを犠牲にはできなかった。

 

 

 

 普段なら簡単に桜に追いつけたはずだが、さすがに、つらい。先ほどの戦いで魔力を失っているため、どうしても力が入らないのだ。

 ようやく、桜が足を緩めたのは、公園に辿りついた時だった――。

 

 

 

『涙』

 

 

 

 雨が降り出していた。

 2月の雨だ。

 肌を濡らす雨は容赦なく体温を奪う。肌に刺すような冷気。

 だが、今の俺達はそんなことなど気にならない。

 なによりも、心が痛んでいるから……。

 桜の顔が濡れている。おそらくそれは、雨などではなく、彼女自身の涙のために。

「ライダーから聞いたんですよね? わたしがどんなに悪い子か……」

「いや。聞いてない」

 俺の言葉に、桜は怪訝そうに俺を見つめ返す。

「桜が悪いことをしたとは聞いていない。悪いのはアンリ・マユだろう?」

 俺の詭弁を桜は自嘲気味に笑う。

「じゃあ、私の口から教えてあげます。私はアンリ・マユを受け入れて、私自身の意志で何人もの人間を殺しました」

「今は違うだろ? 桜がアンリ・マユを押さえているから、一般人に被害者は出ていない」

 それを、俺はライダーから聞いている。

「わたしは姉さんを殺そうとしました。それに、先輩を巻き込んで、無理をさせて、……死なせてしまった」

「俺も遠坂もちゃんと生きてる。起きてもいないことを、桜が苦しむ必要はない」

「わたしは自分の手で先輩や姉さんを殺そうとしたんです! 自分がそういう人間だということを、私はもう知っているんです!」

「でも桜はそうなった事を後悔しているんだろ? だったら、今度こそうまくやるんだ」

「今度……こそ?」

「そうだ。理由はわからないが、俺達はもう一度チャンスを与えられた。後悔しているなら、そうならないように頑張ってみるんだ。たとえ、本当に無理な事だとしても、諦めずに! 何度でもだ!」

 俺の言葉を聞いて、桜が目を見開いた。

 懐かしい何かと出会ったように。忘れていた何かを思い出したように。

 しかし、わずかに輝いた瞳が、再び悲しみに染まる。

「わたしには……、無理なんです。4年前にも、そう思いました。でも、結局、何も変わらない。わたしには変えられない……」

「桜はひとりじゃないんだ。俺も強くなってるし、セイバーだって残っている。遠坂だって支えてくれるはずだ。きっと、今度こそ何とかなる」

「わたしはもう聖杯として機能しています。サーヴァントも呑み込んでしまったし、いつ暴走するかもわかりません。それに、わたしの身体にお爺さまがいる以上、逃れることもできないんです」

 間桐臓硯――。桜の身体をマキリの魔術師として改造し、聖杯の欠片を埋め込んだ魔術師。それこそが、桜の身を苛む全ての呪いの元凶だった。

 蟲の群体として生きる臓硯の本体は、桜の心臓に寄生しているらしい。これでは、桜自信を人質に取られているも同然だった。

「それに……、わたしなんか先輩に助けてもらえる資格はないんです」

「そんなことはない!」

「わたしが先輩の家に行ったのは、先輩を監視するためなんですよ。先輩のお父さんが前回のマスターなのはわかってましたから……」

「だったら、俺が素人同然だってすぐにわかったはずだろう? 敵に値しないと知っていながら家に来たのは、桜自身が来たかったからじゃないのか?」

「先輩に取り入って油断させるためです。わたしにとって、先輩は敵の一人にすぎません」

「だったら、どうしてなにもせずに、家から出て行ったりしたんだ? 俺を殺すことだってできたはずだ。桜が敵じゃないことは俺でもわかる。一緒に家へ帰ろう。遠坂も待ってる」

 桜はうつむいて唇を噛む。

 悔しそうに俺をにらむ。

 どうして、納得してくれないのか。

 どうして、諦めないのか。

 どうして、こんなことを言わせるのかと……。

「わたしは……、処女じゃないんです。なにも知らない顔で先輩と夕食を共にしていながら、家ではずっと兄さんに抱かれていたんですよ。義理とは言え私は兄に抱かれていたんです。いろんな事をされました。先輩が想像もできないようなことまで! どんな時だって、何をされたって、わたしの身体は悦ぶんです」

 桜はその言葉で自分自身を切り刻み、俺を傷つけようとする。

 桜は自分を嘲り、無機質な笑いをこぼした。

「わたしと先輩じゃ釣り合わないんです。だって、先輩なんかじゃ、わたしを感じさせることも、喜ばせることも、悶えさせることも、できるわけがないですから。先輩は、セイバーさんや姉さんとままごとみたいなみたいなセックスで満足していればいいんです」

 桜は、俺達を侮蔑するためだけに言葉を紡ぎ出す。

 だからこそ、胸が痛んだ。

 桜がそんなことをする理由はひとつだけだから。

 俺に嫌われるため。

 俺から、桜を守る理由を奪い取るためだ。

 そうすることで、どんなに自分が苦しむことになっても……。

 桜の声が途絶えると、世界は静寂に包まれる。

 いや、聞こえるのは雨の音――桜自信の悲しみを象徴しているかのようだった。

「まだ……、言いたいことはあるのか?」

 俺はやっとの思いで、それだけを問いかけた。

「え……?」

「たぶん、俺には桜が受けた苦しみも悲しみも、本当の意味で理解することはできないと思う」

 俺が10年前に感じた虚無も絶望も、他人には真の意味で理解してもらえないだろう。たとえ、起きた事実を知ることができても、その時に受けた苦しみは他の誰にも感じることはできない。

「俺にしてあげられることは少ないけど、まだ話したいことがあるなら聞くよ」

「…………」

 桜は、無言のまま俺を見つめている。

「だから、話し終わったら帰ろう。みんなが待ってる」

「なにを言ってるんですかっ! わたしには先輩に助けてもらう資格なんてないんです!」

「それを言うなら、俺には桜を助ける資格がない。今まで気づきもせずに、見過ごしていたんだから」

 いや……。きっと俺には初めから誰かを助ける資格なんてないんだ。10年も前に、俺は何人もの人間を見殺しにしたのだから。

「でも……、そんなことは関係ないんだ。資格なんてなくても、……たとえ助けることが罪だったとしても、俺は桜を助けたい。俺は桜を助けると決めたんだ」

「…………」

 揺れる瞳が俺を見つめる。

「桜に傍にいて欲しい。こんなことで桜を失いたくないんだ」

 俺が一歩踏み出すと、桜が一歩だけ退いた。

 かまわずに足を進める。

 桜はびくっと身を震わせるが、逃げ出したりはしない。

 桜だってひとりになりたいわけじゃない。誰かのためにひとりで苦しむことを選んだだけだ。

 桜は動けない。

 皆を巻き込むという恐怖、共にいたいという希望。相反する思いに、ためらい、戸惑う。

 動けずにいる桜の身体を、俺は腕の中に抱きしめる。

 桜は一度だけ身を固くしたものの、俺にしがみつくようにして泣きじゃくった。

 おそらくは、溜め込んでいた11年分もの涙を流し続けながら……。

 桜の身体は冷え切っていた。

 おそらく、俺の身体も同じだろう。

 だが、一人で凍える必要なんてないんだ。

 こうして二人で寄り添っていれば、そこにだけは温もりが生まれる。

 もしかすると、桜を抱きしめられるのは今だけなのかもしれない。

 桜がアンリ・マユに取り込まれたら、俺自身が桜の敵に回るかもしれない。

 それでも、俺は桜と共にいたい。

 せめて、桜と決別する最後の瞬間までは……。

 桜も同じ事を考えていたのか、俺に問いかけてくる。

「先輩。わたしが……悪いことをしたら、止めてくれますか?」

「ああ。俺が止めてやる。……絶対に」

 それが、この選択をした俺の責任であり、そして、希望なのだと思うから――。

 

 

 

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