第8話 人として(2)
『告戒』
…………?
俺は椅子に座らされていた。別に縛られているわけでもないのに、身体がぴくりとも動かない。
正面にはひとりの男が立ち、何かを考え込むようにうつむいていた。
「言峰……?」
言葉を発することだけはできるらしい。
「意志を取り戻したようだな。記憶の方はどうだ? 私と話したことは覚えているか?」
「……っ!?」
言峰の言葉で記憶が蘇る。
俺は今まで、言峰の尋問を受けていた。
言峰の魔術によるものだろう。俺の意志は言峰に握られており、全ての問いに対して、正直に答えてしまっていたのだ。
「ギルガメッシュの存在を知っていたことにも驚かされたが……、まさか、お前達が未来の記憶を持っていたとはな。道理で、凛が私と接触をしないわけだ」
「く……」
俺は歯噛みする。
望むと望まざるとに関わらず、俺達が有利な点は、前回の記憶を持っていることだ。
俺はその一番強力な武器を、言峰にあっさりと明け渡してしまったのだ。
サーヴァントの能力や、マスターの正体。どれもが、絶対に隠すべき情報だった。
「俺をどうする気だ?」
「どうもせんよ」
「なに?」
「”前回”のお前ならば、聖杯を与えようとは思わんが、今のお前ならば、与えてみるのも面白い」
「どういうことだ? 前の俺と今の俺には違いなんてないぞ」
「その通りだ。だが、お前に違いがなくとも、お前を取り巻く状況は違っているだろう? お前がどのような願いをかなえるか……」
「俺に願いなんてない! 聖杯はもう一度破壊してみせる!」
それが俺の決意だった。翻すつもりなどない。
それなのに……。
「それでかまわないと言っている。お前がその”破壊する”という願望をかなえるのも面白そうだとな」
なぜだ……!?
”前回”において、聖杯を拒んだ俺を、言峰は無価値な存在として見限ったはずだ。
それが、なぜ急に?
「お前は一体……?」
俺の問いかけを妨げるように、大きな音が礼拝堂に響いた。
だん! だん!
入り口の扉が、外側から乱暴に叩かれているのだ。
「誰かいるのだろう? 返事がなければ、扉を破ることになるが、構わないか?」
何者かが、そう宣言した。
少し思案した言峰が俺に命じる。
「静かにしていろ」
その言葉だけで、俺は声を発することすらできなくなる。
言峰は、そんな俺を抱え上げると、奥の扉の向こう――中庭へと運び出した。
『訪問者』
礼拝堂から扉を隔てて、かすかに言峰の声が届く。
鍵を開けたらしく、ぎぎぃ、と蝶番を軋ませながら、扉が開かれた。
「なんの用かな?」
言峰が尋ねる。
「人を捜している。衛宮士郎という少年だ」
そう告げたのは、どこか聞き覚えのある声だった。
「唐突だな……。一体、なぜ、その少年がここにいるなどと思ったのかね?」
「いないと言うのか?」
「それは断言できんな。私は不審者など見かけていないが、不在時に忍び込んだ者がいるかもしれん。お疑いなら、調べてみるがいい」
呆れたことに、言峰は俺がいないとは口にしない。
そこまで平然とされては疑う余地がないだろう。
俺は諦めていたのだが……。
「そうさせてもらう」
言峰が言ったとおり、その客は確かめるつもりになったようだ。
足音がこちらに近づいてきた。
「この向こうも確かめて構わんか?」
「好きにし給え。鍵もかかってはいない」
扉が内側へと開かれた。
「衛宮。無事か?」
そう声をかけてきたのは、俺の知っている人物だった。
……葛木先生?
突然の訪問客は、俺の学校の教師・葛木だったのだ。
意外な相手に、俺は自分の身に起きたことも忘れてしまっていた。
――っ!?
葛木先生の背後に言峰が忍び寄る。
「どうした? 俺の言葉は聞こえているのか?」
葛木先生に警告しようにも、俺の声帯は凍り付いたまま動いてくれない。
言峰はコートの裏から、黒鍵を引き抜き、葛木の背中に向けて振り下ろす。
だが――。
「なに!?」
驚きの声を発したのは言峰の方だった。
不意に、葛木の姿消えた。
打撃音と共に、言峰が声を漏らす。
「ぐっ……!」
葛木先生は言峰の右側に移動し、冷静な目で言峰のダメージを計っている。
両の拳を持ち上げたその構えは、見惚れるほど様になっていた。
おそらく、言峰の顎に拳を打ち込んだのだろう。
「私は衛宮を連れ戻しに来ただけだ。邪魔をしなければ、お前と戦う必要もないが?」
平然と口にする先生には、まったく動揺が見られない。
「貴様……!?」
戸惑いながらも言峰は黒鍵を取り出す。
だが、素手の葛木先生は怯みもせずに、さらに踏み込んでいた。
たまたま教会にやってきた、不幸な闖入者――そう思われた葛木先生が、言峰に対して牙を剥いたのだ。
おそらく黒鍵の本来の使い方は投擲なのだろう。だが、この間合いでは、そんな使用は不可能だった。
初撃で脳を揺すられた言峰は、おそらく全力を出し切れていない。
そんなことはおかまいなしに、……いや、それを見定めているからこそ、先生は攻撃に踏み切ったのだろう。
その攻撃は苛烈だった。
先生の突き出した拳を、言峰は黒鍵で受けようとする。本来ならば、腕が切り落とされてもおかしくはない。だが、驚くべき事に、言峰の黒鍵は逆に拳で弾かれたのだ。
先生の攻撃は止まず、言峰の身体を破壊していく。
両の拳が描く特異な軌道。それは、蛇を思わせた。
その内の一匹が、するりと黒鍵の牙をかわし……。
「がはっ……!」
先生の抜き手が、言峰の胸を貫いていた。
言峰は驚愕の目で、己の心臓を破った相手を見た。
崩れ落ちる言峰の身体を、俺は呆然と眺めていた。
聖杯戦争にまったく無関係なはずの一般人。そのはずの葛木先生は、表情すら変えずに言峰を殺してのけたのだ。
展開の唐突さに、頭が満足に働かない。
葛木は、息を荒げることもなく、動揺を微塵も感じさせず、俺に歩み寄る。
「衛宮、帰るぞ」
そう口にすると、俺の身体を起こして、背負ってくれた。
一見すると細身の身体だが、先生の身体は鍛え込まれているらしい。
人一人を背負って、なんの苦労も感じさせない。
魔術師とも感じられず、その身に宿す力はおそらく体術のみだ。
「おそろしい男だったな。不意打ちでなければ、ここで死んでいたのは私だったろう」
淡々と口にする。
圧倒したように見えたが、先生は言峰の力を危険なものだと感じ取ったらしい。それは、実力者同士にしか理解できない類のものなのだろう。
「これがお前達の敵なのか? ずいぶんと、危険な戦いをしているようだな」
言峰が倒れたために、俺を拘束する力が弱まっていた。
なんとか疑問を口にする。
「……どうして、……ここに?」
「衛宮がここにいることを、遠坂から聞いてな」
「遠坂……? ……なんで、葛木先生に……?」
先生は聖杯戦争と無関係だ。言峰と戦う……いや、殺す理由なんてない。
「知らんのか?」
不思議そうに尋ねてくる。
「……?」
しかし、心当たりはまるでなかった。
「私はキャスターのマスターだったのだ」
「っ!? だって……」
どう見ても、葛木先生は魔術師ではない。
「確かに、私は魔術師ではないし、正規のマスターでもない。だが、死にかけていたキャスターを助けのは私だ」
そうだったのか……。
そうなると――。
キャスターが悪事をバラされたくないマスターというのが、先生なのか?
そのうえ、それを聞いても肯定したと遠坂からは聞いている。それこそが、先生の本来の姿なのか……?
教会を出ると、広場を囲む茂みの中から一人の人間が姿を見せる。
「士郎!」
駆け寄ってきたのは遠坂だ。
「大丈夫なの?」
「おそらくな」
先生が答えた。
「……言峰の魔術で縛られ……て、いるだけだ」
話もできるようになっているし、すぐに術は解けるだろう。
「先生。言峰はどうしました?」
「あの男なら私が殺した」
「本当に?」
「心臓を潰した。あれで生きているなら、あの男は人間ではないな」
そう口にしたのは冗談のつもりだろうか?
遠坂が俺に説明する。
「……士郎には言ってなかったけど、葛木先生はキャスターのマスターなのよ」
それは今し方、本人の口から聞かされた。
だが、だからといって、巻き込むのは危険すぎるだろう。
遠坂が俺の疑問に答える。
「葛木先生は素手でセイバーを圧倒したこともあるのよ」
……っ!?
それは驚きなんてものじゃない。
とても、信じられることじゃなかった。
「セイバーは油断していたし、先生にはキャスターが強化の魔術をかけていたんだけどね」
それでも驚きだ。
「……なんの話だ?」
「いいえ。こっちの話です」
遠坂が覚えている記憶を、先生本人には残っていないらしい。
「使い魔からの情報で、言峰が怪しいのはすぐにわかったけんだけどね……。言峰は兄弟子みたいなもので、わたしの魔術も体術も、手の内はほとんどを言峰に知られているから、ダメ元で先生に頼んでみたのよ」
俺は納得しかけたのだが、それは本人に否定された。
「言っておくが、私が来たのは遠坂に頼まれたからではない」
先生が会話に割って入る。
「え……?」
遠坂も驚き顔だ。
だったら、どうして助けになんてきてくれたんだ?
「キャスターが言っていた。エミヤシロウという少年に出会ったと――」
キャスターは呆れたように先生に告げたらしい。
「バカな子だわ。こんな私を信じるなんて。……いずれ、裏切られて、殺されるに決まっている。誰かが守ってあげないと……」
キャスターはそう言っていたのだという。
「私は彼女にマスターらしいことをしてやれなかったからな」
だから……、キャスターのために、俺を助けに来てくれたのか……。
つぶやいた先生の言葉には、わずかな感傷が含まれていたと思う。
「それでも、キャスターは先生に感謝していますよ」
そうだ――!
俺はセイバーから聞いている。彼女の最後の言葉を。
「キャスターは、自分のマスターに『ありがとう』と言い残したそうです」
「……そうか」
ぽつりと……、先生は短い言葉だけを口にした。
俺は背負われたまま家まで送り届けられた。
「助けてくれて、ありがとうございました」
遅ればせながら、俺自身のお礼の言葉を口にした。
「……衛宮。何か私に手伝えることはあるか? キャスターの変わりに私が力になろう」
先生はそう言ってくれた。
確かに先生なら、戦力として十分に期待できるだろう。
だが――。
「いいえ。もう、関わらないでください。俺のせいで、葛木先生にもしもの事があったら、俺はキャスターに顔向けできなくなるから」
俺はすでに何度もキャスターに助けられている。その俺が、キャスターの大切な人を危険に晒すわけにはいかない。
俺がキャスターにしてあげられるのは、こんなことぐらしかないのだ。
「わかった」
先生はあっさりと頷いた。
俺達に背を向けて立ち去ろうとして、その足がすぐに止まる。
肩越しに振り向くと、一言だけ俺に言い残した。
「死ぬなよ、衛宮」
「はい……」